百七.
「蓮は、見知らぬ者が怖いのだ」
蓮が周囲と打ち解けるまでに時間が掛かった事も、そのためにどれだけの緊張と向き合って来たのかも、ずっと傍にいて見つめて来たはずなのに、操はそこまで気が廻らなかった。
気の焦りも動揺もやはりあった。
だが、解決ばかり急いで、蓮の気持ちなど思いやってもやらなかったのだ。
震えていたあの子の掌には、深く爪の食い込んだ痕が残っていた。自らに爪を立てている事にも気付かぬほど、強い緊張に手を握り締めていたのだろう。
見ず知らずの男達に取り囲まれて、どれほど怖い思いをしていたか。蒼褪めたその表情に気付いてやるべきだったのに、それさえ操は見逃した。
「あの子が受けて来た仕打ちを思えば無理もないのだ。なのに、孤は……」
蓮は自分で言っていたではないか。
人の気配さえ怖くて、瓦礫の中でひとり過ごしたのだと。
ああして話を聞きながら、やはりどこか他人事だったのではないかと、操は己の冷たさを呪った。
蓮は自分に深く落胆しているようだった。
引き合わされた者達が害を成すわけではないのは、蓮にも良く解っているのだ。なのに、思うように接する事が出来ない。
操にも、繰り返し謝罪を口にした。
「蓮を一番泣かせているのは、やはり孤かな……」
操の呟きに、婆の持つ灯りがゆらゆらと揺れた。
改めて向き合った方士は、率直に蓮の病状を語った。
過度の緊張を差し引いても呼吸は浅く、脈は乱れて弱い。足と胸に浮腫が始まっており、心の臓にも腫れが見られる。
「心の拡張る病は本草では難しい。丸ごと入れ換えねば救からぬと聞いた事があります」
「入れ換える? そんな事が出来るのか?」
「もとより僕には出来ませぬが、そう話していた者を知っております」
術師を捜すのは不可能ではなさそうだ。
「その術に危険は?」
「おそらくは胸を開きましょうから、皆無ではございますまい。患者本人の体力も必要なれば、病が進んでからでは難しいのやもしれませぬ。術師と代わりの心を捜すのが急務かと存じます」
「無論、死者の心臓では叶うまいな」
「死人と入れ換えれば、死体が生き返るのではありませぬか?」
「少なくとも生者は死ぬな」
苦笑が漏れる。
「詳しくは存じませぬが、同じ年頃が好ましいと聞いた覚えがございます」
「孤の心臓ではちと古いか。これは相当難しいな。いたずらに死者を増やすようなものか」
深い溜め息が落ちる。
誰かを身代わりにしなければならない術を、蓮が承諾するとは思えない。仮にそれを告げずに執り行い、全ての懸念を回避して術が成ったとしても、事情を知る日が来れば、苦しむのは蓮である。
胸を開くなどと、想像もつかない治療法に対する恐怖も、当然ではあるが打ち消すのは難しい。そんな危険を冒すくらいなら、不確かな祈祷やまじないの方がまだマシな気もして来る。
正直操は、神頼だろうがなんだろうが、試せるモノは試したい心境だったが、李傕のもとで余程嫌な思いをしたのか、そうした類は少し打診めいた話をしただけでも蓮がひどく怯えるのだ。
苦悩する操に、方士は長い眉に覆われた視線をしばし止めた。
「公。先だって許の都を褒め称えましたが、世辞ではございませんでな。ご厄介になりたいというのも本心なのですよ。残念ながら治癒の難しい病ですが、僅かでも和らげて差し上げる事は叶いましょう。不肖のこの身ではご不満もありましょうが、かの少年の傍に置く気はございませぬかな」
「このまま蓮を診てくれると申すか」
「公の集めてくださった知識はそれぞれに素晴らしい。それを持ち寄って、まずは方針を立てましょう」
「うん。頼む」
彼は一度礼を取り、恭しくそれを受けた。
ふと、視線を戻す。
「公。兆候を見逃していたなどと努々お責めになりますな。己の力量不足を棚に上げるようですが、人の成す事にはおのずと限界がある。医は神や仙人の術とは違います。治せぬものはやはり治せぬのです。診立てて次を講じたお匙殿こそ褒めるべきで、誰に何の落ち度もございませぬぞ」
操の落胆を見抜いたのだろうか。
そんな事を言う。
会ったばかりの相手に見透かされるほど顔に出ているのかと、操は思わず顎を撫でた。
「そのお匙殿はもちろんですが、あの刀自殿の本草の知識も素晴らしい。おふたりにも是非ご協力いただきたいものですな」
要請に肯く。
「孤からも良く頼んでおこう」
それに礼を返し、方士はさっそく協議を始めると言って室を辞した。
その刀自殿は小さな躰で灯りを翳し、操の傍らで行く手を照らしていた。
夜の帳は重く、回廊の先は暗い。
「蓮に逢われるかえ?」
「うん。起こしてしまうかな」
「婆が一服盛ったから、朝まで起きぬよ」
揺れる炎に照らされて、その横顔が寂しそうに笑った。