百六.
「あれはまだ病を隠しておるか?」
「そんな事はないよ。蓮はずっと良い子に過ごしていたよ。医局の指示も、薬師の助言も全部守って、苦い薬も嫌いな治療も文句ひとつ言わない。別に婆が禁じたわけではないが、酒もぴたりと呑まなくなった。寂寥の気持ちは、今のほうが強いだろうにな。お前様も、蓮を褒めてやっておくれ」
「そうか……」
婆の持ち直した灯りがジジ…と啼いた。
「――婆。本当はな、孤が悪いのだよ」
炎の作り出す陰影が、黒く操の頬を覆った。
連れ戻された蓮は、改めて彼らと引き合わされた。
ぎゅっと掌を握り、緊張に蒼褪めたまなざしを伏せた蓮を目の当たりにしても、操はまだ解らなかった。
「ふうむ……」
患者の様子を眺めていたひとりがそう吐息をついた。
「これは、大勢で押し掛けて驚かせてしまいましたかな。どうでしょう。ここはひとつ、年寄りの顔を立ててはくださらぬか」
見回す視線に彼らは少しざわめき、ひそひそと声を交わし合った。
年長であったゆえか、それとも他に理由があったのか、幾人かが賛同を示し、隣室で待つと言って彼らは退いた。
ひとり残った方士は、控えていた婆へと深く皺の刻まれたおもてを向けた。
「すまぬことですが、白湯でも一杯いただけませぬか。歳を取ると、どうも喉が渇いていけませんでな」
穏やかなその物言いが、ある意味しきり直しなのだと察し、操も翠へ頷いて見せる。
それを受けて下がる背を見送った方士は、物珍しそうに庭など見回していたが、整えられた座を勧められ、ゆったりと歩みを進めた。
その動作はどれも性急なものではなかったが、蓮は詰められた距離に心持ち躰を退いた。
操はそんな蓮の様子に、ふと視線を止めた。
「ほお、これは茶ですかな」
振る舞われた陶を抱えて、老人はくうと息を吸った。
「さすがは都でございますなあ。これほど美味い茶はいただいたことがない」
嬉しそうに喉を鳴らす。
そう言われると、操の舌にも何やら甘い。この一服で、どこか毛羽立っていた気持ちも落ち着いて行くような気がした。
詩経にも記載があり、医薬や農耕の神である神農が解毒に食したともされる茶は、嗜好品として飲用しているのは富裕層のみで、まだまだ一般的に普及しているものではなかったが、薬効と何より蓮がこれを好むので、婆が平素から用いているのだ。ここでそれを出したのも、蓮を思ってのことだろう。
方士はなかなか口を付けない蓮にそれを勧めながら、他愛もない話を二、三した。
久方ぶりに賑わいに触れたとか、さすがに帝のお膝元は麗しいとか、許を褒め称えるそれであったと思う。
このまま公のもとへご厄介になりたいものだと軽口をきいた後、彼は改めて蓮へと向き直った。
「さて」
空いた茶器を離した方士は、そう言って蓮に目を細めた。
どきりと蓮の肩が揺れる。
「お熱があるようにお見受けしますが、長く続いておりますかな」
「下がらぬ日がないわけではないが、このところ少し多い。夜はもう少し高い時もある」
代わって応える操の言葉に、巧く隠して来たつもりだった蓮は、しょんぼりと項垂れた。独りの夜を密かに泣いて過ごしていることさえ、彼はお見通しなのだろうか。
「少し、許されよ」
そう言って切診る手を、蓮はじっとこらえた。
首筋に触れ、瞳を覗き込み、噛み締める脣を抉じ開ける。
その手が動くたびにドキドキと蓮の心は乱れ、いくつか投げられた質問にも何ひとつ返せなかった。
じっと注がれる視線が怖い。
呼吸が巧く出来なくて、コトコトと空咳が零れた。
見兼ねて背を撫でる操の腕に、思わず縋る。
「そのままで結構です。お脈を拝見」
片手を取られたまま、操の胸に貌を埋める。
抱き留めるそのぬくもりが、震える心を緩めてくれた。
「さあ、もう済みましたぞ。お楽にされて」
あちらこちらを押したりさすったりしていた方士は、そう言って診察の終了を告げた。
「嫌な思いをさせたね」
蓮の襟元を整えながら、すまなそうに詫びる。
ごめんなさい……
蓮は首を振ることでそれを伝えようとした。
この人が悪いわけではないのだ。
そんな自分が情けなくて、涙が零れる。
「公はどうかこのままに」
そう言い置くと、訊きたい事があると婆まで連れて、彼は室を出て行った。