百二.
蓮は池の端にしゃがみこんでハスの葉を眺めていた。
大きな葉の上の水滴が水晶のように煌き、その様がまた美しいのだ。
彼澤之陂 有蒲與荷
有美一人 傷如之何
寤寐無為 涕泗滂沱
“かしこの沢の陂に蒲と蓮の花が咲いている
美しいあなたを想って胸が痛むが成す術もない
寝ても覚めても何も手に付かず涙が零れるばかりだ”
互いに離れて過ごした花の季節に、操はこの古い詩を引き合いに、まさに澤陂の心境だと書き送って来た。
澤陂とは何かと問う婆に詩経を示すと、ほんに孟徳様が蓮を想って創ったようじゃないかとひとしきり感心し、何度もその詩を読み返しながら、うっすらと涙を浮かべていた。
“かしこの沢の陂に蒲と蓮の蕾が有った
すらりとして誇り高い様は美しいあなたを思わせる
寝ても覚めても何も手に付かず転々と枕に伏すばかりだ”
花の盛りは終わってしまった。
操が戦に出てから過ごした日々を、数える事さえ怖かった。
――でも、戦には勝ったと書いてあったから、きっともうすぐ戻るよね。
蓮にはそれだけが救いだった。
膝の上に頭をもたれながら、葉に輝く露を見つめる。
ぼんやりとその中を眺めていると、恋しい人達が見えるようだった。
やがてそれは、過ぎし日の記憶を刻む。
笑いざわめく宴の席に、高らかな楽の音が響いていた。
向こうは楽しそうだなあ……
蓮は、寂しくてたまらなかった。
「――蓮。これ、蓮と言うに」
婆の重ねる声に、ようやく蓮は気がついた。
はっと瞳を上げ、知らずに零れていた涙を拭う。
「そのようにじっと見つめたりしてはならぬ。取り込まれるぞえ」
婆はそんな事を言って蓮を窘める。
「もう夕刻だよ。風に当たるのは良くないから室へお入り」
雨上がりのせいなのか、いつもより涼しい。
風はもう、次の季節へと進み始めているようだった。
蓮は素直に頷いて立ち上がろうとした。
途端、貌が歪む。
衝き上げるような息苦しさに、思わず胸を押さえた。
足が砕けて膝を着く。
「蓮?」
驚いて覗き込む婆に、なんでもないと笑おうとしたが、巧く出来ない。
代わりに、苦痛が吐息を乱した。
「誰ぞ! 誰ぞおらぬか?」
婆の叫びが庭にぐるぐるとこだまする。
操……
蓮は救けを求めて腕を伸ばしたが、その先には闇しかなかった。