九十九.
この騒動は、当然の事だがすぐに操の耳に入った。
嘉を室へ招くと、迷惑を掛けたと改めて詫びる。
「いいえ。私のほうこそ思慮が足らずに……」
「なんだ。そちは全て計算ずくではなかったのか? おおかた蓮が人を呼ぶなとごねたのであろう」
見て来たように言い当てる君に、敵わないなと嘉は思う。
確かに蓮の気持ちを汲んでその場に人は呼ばなかったが、ああして府を歩けば嫌でも君の耳に入る。嘉は、それも計算の上で蓮を背負ったのだ。騙し討ちのようで気も引けたが、どちらにせよ放って置くわけには行かなかった。
しかし、軍師祭酒が君の寵童を背負って府の回廊を歩いていたという、前代未聞のまさに珍事は、人の口の端に上ってしまった。
「まさか、このような騒動になるとは思わなかったのです」
失態に恥じて嘉は身を竦める。
「文若にでも説教を食らったか」
確かに、少しは自分の立場を考えろと、珍しくうっすらと青筋まで立てて彼は怒ってくれた。
噂話に尾鰭が附くのは毎度の事とは言え、嘉には溜め息しか出て来ない。
そんな嘉に、君はからからと笑った。
「あれは少々堅物でいかんな。もう少し穢れに慣れぬと、こんな世の中では生き難くかろうに」
シンと澄んだ清水のような彧の質を愛しているが、危うさも感じていた。
とかく、澄んだ水とは汚され易いものだ。土足のひと荒らしでそれは済む。
彼の清廉な心はそれを越えて再び澄んだ泉を湛えるが、その奥底に、外から持ち込まれた穢れが、澱のように溜まらぬものかと案じていた。
「少し、仲徳あたりに似てくれても良いくらいだが」
「仲徳殿の域に辿り着くには、我々ではまだまだ。青っちょろいヒヨッコですから」
くすくすと嘉が笑う。
「その物言いは婆だな。そちも余程好かれたものよ」
君はおかしそうに肩を揺すって笑うと、歩を進めた。
「――蓮の事だが、あまり良くないかもしれぬ」
外を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「え?」
問い返す嘉に、彼は背を向けたまま首を振った。
訊いてくれるなと言っているのだ。
彼自身、受け止める事がまだ出来ない。だが、心に余るそれを思わず零してしまう。それほどに、胸を痛めているのだろう。
「奉孝。孤は焦っておるか?」
君は振り返るとそう尋ねた。
その瞳がまっすぐに嘉を捕らえる。
「孤はなんとか早く天下を鎮めて、蓮と静かな時間を過ごしたい。おかしいかもしれぬが、これが正直な気持ちなのだ。時が無限にあると思っていたわけではない。だが、もしかしたら時間がひどく限られるとの思いは孤に焦りを与える。天下の事は私事とは別だ。そう胆に命じてはいるが、孤はこの通り思慮の浅い短気者だからな。もし、孤にそれを感じたら諫めてくれ。頼む」
頭を垂れる君を押し止めるように、嘉は声を励ました。
「何を仰せになられますか。主公の思慮が浅いなどと言われては、私などどうなります。主公。そのお役目はどうぞ分別ある方にお命じください。私は……」
込み上げるものを抑えるように、一度息を整える。
「私は、主公と共に覇道を参ります。一日も早くとお望みならば、迷わず突き進めば良い。私はそれを成すために、この身に備わる全てを捧げましょう。この郭嘉、必ずや主公を勝利に導いてご覧に入れます」
「奉孝……」
操はその傍らに寄ると、着いていた手を上げさせる。
「そうだな。そちの言う通りだ。孤には郭奉孝がおる。心強い事だ」
自分の大業を導くのはこの男だと、会った瞬間に感じた事を思い出す。
その直感は間違ってはおらぬ。
確信に頷きながら、操は嘉の肩を叩いた。
「頼むぞ」
その短い言葉に万感が込められていた。
郭嘉は礼を取ると、謹んでその想いを受けた。