ある手紙
お元気ですか。僕はあの頃の自分と比べれば、ずっと元気に生きることができていると思います。あの頃あなたが願った僕の姿に、自分がなれているかはわからないけれど、僕は僕なりに幸せに生きています。
僕は別に、この手紙があなたに届いてほしいとは思っていません。それに僕は、そもそももうあなたという存在には、ほとんど未練のようなものを感じていません。今さらあなたに会いたいとも思っていないのです。では、なぜ自分はこんな手紙を書いているのかというと、やはりあなたは今でも、僕にとって大きな存在であることには変わりないからです。もちろん、あの頃の自分にとってのあなたの存在意義と、今の自分にとってのそれには大きな違いがあります。ただ、いずれにせよあなたの存在は、僕を今の自分に導いてくれたと思います。そして僕は、あなたというフィルターを通して、僕がここ数カ月の間考えてきたことを整理したいのです。そして、あなたへの何よりの感謝の気持ちを、言葉で伝わらなくてもいいから伝えたいのです。
僕はあの頃、すなわち高校生だった頃、あなたに恋をしていました。僕の心の中心にはいつもあなたがいました。そして誰かを好きでいることは、人として正しい感情だと思っていたのです。しかしその感情によって、僕は多くのものを見失うことになりました。恋は盲目という言葉は、非常によく的を射た表現だと思います。本当にいろいろなものが見えなくなってしまうのです。僕は、何が大切なものなのかわからなくなってしまいました。そして僕は、得られるものより失うものの方が明らかに多い、そんな三年間を送ることになりました。
その後、僕とあなたは別々の大学に進学しました。あなたがどの大学に行ったかは知ることができましたが、今あなたがその場所でどのような生活を送っているのかまでは、もちろん知りません。僕の方はまず、今の場所で、失ったものを一つ取り戻すことになりました。決して多いわけではありませんが、何人かの友人と呼べる人ができたのです。あの頃の僕は、最終的に、話ができるような友達すら失っていたのです。僕は彼らと、比較的平穏な日々を送ることになりました。一緒に食事をしたり、勉強をしたり、ちょっとした旅行にも行ったりしました。僕は大学に入って最初のうちは、まだあなたのことが気にかかっていましたが、次第にその気持ちも薄れていきました。僕は今まで、あなたのことも含め、いろいろな問題を引き起こしたり、巻き込まれたりしてきました。そしてその度にくよくよと考え込んでしまうことに、うんざりしていたのでしょう。そんな平穏な毎日の中で僕は、自然と物事をあまり深く考えないようになっていました。いや、自分は元々、関心のあることや考えるべきこと以外の物事については、あまり考えない人間ではありました。平和は環境の下で、僕はじっくり物事を考える必要がなくなっていたのです。しかししばらく経ってから、僕に再び人生の転機が訪れる事となるのです。
僕に気になる女性ができたのです。僕はそれまでの大学生活の中で、この子はかわいいなとか、この人はしっかりしていていいな、とは思う女性は何人かいましたが、はっきりとこの人だ、という一人の女性を見つけたのです。自分はその人から、漠然とではありながら、それでいて確かな魅力を感じずにはいられなくなってしまいました。しかし僕は、それをすぐに恋とは認めたくありませんでした。僕の心のどこかに、あのころの盲目な自分に戻りたくないという想いがあったからです。新しい生活の中で、ようやく手に入れたものをまた失ってしまうことを、そしてまた誰かを失ってしまうことを、恐れていました。そこで僕は、その女性に魅力を感じる自分の気持ちをどうにかするために、それと、どうしてその人のことが気になるようになってしまったのかを探るために、過去を振り返ることにしたのです。それは自分にとって大きな変化でした。僕はこれまで、過去を振りかる必要なんてなかったからです。それに、過去には何もないとさえ思っていたのです。それでも僕は、かつての自分について、思い出してみることにしたのです。あなたとの出会い、あなたとの関わり合い、そして僕があなたにしてしまったこと。他にも漠然とですが、その頃あった出来事などを、思い浮かべてみたりしました。そうすることですぐに、具体的な結果が得られたわけではありませんでしたが、この姿勢の変化が、僕の心全体に少なからず影響を与えたような気がします。僕は、本やテレビやネットなどからの知識や情報にも刺激を受けて、少しずつですが、この世界の仕組みのような物事についても、しっかりと考えるようになっていたのです。
そして僕はある日の夜、この世界の構造についての、自分なりの仮説を打ち立てることに成功したのです。その時の、いろいろな事象の辻褄がきれいにあっていく様は、まさに爽快でした。(ただこの仮説は、僕の主観的な思想であり、誰かに布教するためのものでもないので、それをここで書くつもりはありません。)この出来事をきっかけに、僕はこの世界について、まだ何も知らなかったことということに気付きました。そして、僕はまだ曖昧ではありますが、この世界の物事の本質というものを、以前よりも明確にとらえることができるようになったのです。どんなものが本質的で、どんなものがそうでないのか、そして自分がどのようなものを取り入れていくべきか、なんとなくわかるようになってきたのです。
一方、肝心の(あまり認めたくありませんが)恋の行方はというと、自分の中で一時的に落ち着いた状況にはなっています。僕の心の、どちらかといえば本能的な部分は、確かに彼女に魅了されているし、そして彼女のことを求めています。しかし、僕の心の、どちらかといえば理性的な部分では、彼女は一つの可能性にすぎないということがわかっています。あなたのことが好きになった後に、また気になる人ができたように、自分はまだまだ誰かを好きになるかもしれないし、出会いの機会もこれから先きっとある、ということがわかっているのです。悪く言えば、僕は昔のことを引きずって、恋に臆病になっているととらえることもできます。しかし、今のところ僕は、それに盲目になり過ぎてはいません。そのことは、自分という人間にとって、十分立派な進歩だと思います。僕と彼女との今の関係性は、まだたまに話をしたことがある程度のものですが、そこから無理やり距離を縮めることがいかに危険であるか、僕はあなたとの経験からそれをよく知っているのです。だから僕は、もっと彼女と関わるきっかけができたなら、そこで一歩前に踏み出そうと今は思っています。
もう一つ。僕は、過去の自分を否定することにしました。とはいっても、それは部分的な否定です。全てを否定してしまったら、今度は今の自分が成り立たなくなってしまいます。とにかく僕は、かつての自分の考え方やとった行動が、間違っていたと認めることにしたのです。まず、誰かを好きになることが正しい感情である、という考え方を否定しました。これは、確かに間違ったことではないかもしれませんが、それによって盲目になってしまうことは、とてもよくないことなのです。この世の中には、自分が受け取らなくてはならない物事が、他にも多く存在するのです。さらに僕は、深く考えないでいこう、という姿勢から、物事をしっかり考えて生きよう、という姿勢に、百八十度方向転換しました。この世界の仕組みを、より明確に視覚化しようと思うのです。そして僕は、あの時自分がとった行動が、間違っていたと認めます。僕はあの時、もっと冷静になって、よく考えて対処すべきだったと、今になってようやく気付くことができたのです。ただし、これらの過ちの経験も、今の自分の礎になっていることは間違いありません。だからこその「部分」否定なのです。
僕はよく、今気になっている女性とあなたとの間に、何かしら共通する部分がないか考えてみます。意識する原因があるのなら、そういう部分があるはずだろうと。実際、似ているところがあるような気もしますし、明らかに違うなと感じるところもあります。ただはっきりと言えるのは、二人とも早く大人になりたいと願っているのに、そう成り切れていないという雰囲気が、他の人より強く感じられるのです。精一杯背伸びをしているのに、まだあどけなさが残っている。でも、それは僕にしたってそうなのです。自分も普段は大人の様なふりをしているのに、時折子供のような態度をとってしまうことが多々あります。結局僕は、自分と近しい存在に、強く共鳴していただけなのかもしれません。
最後に、あなたに本当に伝えなくてはならないことを書きます。僕は今、ようやく過去の過ちに気付くことができました。あなたに迷惑をかけてしまったことを、本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい。ただ、あなたもあの時、僕が間違ったことをしているということを、僕に伝えてくれてもよかったのでは、と思います。そうすれば、僕はもっと早く、過ちに気付けていたかもしれないのです。もしかしたらあなたも、僕と同様にまだ何も知らなくて、僕の間違いを、うまく指摘することができなかったのかもしれません。あるいは、あなたはすべてを知っていて、でも自分の過ちには自分で気付きなさい、ということだったのかもしれません。それは、今となってはもうわからないことです。それでも今、僕が一つの答えのようなものを導き出せたのは、間違いなくあなたの存在のおかげです。あなたの存在が、僕を今の自分に導いてくれたのです。僕は、そのことについて本当に感謝しています。ありがとう。そして、あなたがこれからも幸せに生きていけることを、心から願っています。もう叶えているかもしれないけれど、自分から誰かのことを好きになれるといいですね。そして、僕も幸せに生きていきますから。
終