61話~67話
※61「七年目の浮気」
とつぜんだが、女性から浮気で責められたことがあるだろうか。
この場合、男がなにを言っても意味はない。女性の中で「浮気された」と思われた時点で、それは事実になってしまうのだ。
ある日、横断歩道で信号が変わるのを待っていたら、散歩中の大型犬にじゃれつかれた。昔から動物に好かれる性質だったので、頬をぺろぺろ舐められていたら、隣に立っていた嫁さんが本気で怒鳴った。
「このヒトは私のです! 手を出さないでくださいっ! 訴えますよっ!」
また別の日、ペットショップで日曜の缶詰を買って帰宅した日。時間に余裕があったので、にゃんこふれあい広場で、トラ猫の毛並を堪能した。すると仕事から帰ってきた嫁さんに、
「……他所の女の匂いがしますね……」
睨まれた。石鹸で念入りに洗ったはずだったのに見抜かれた。また別の日に、アプリゲームの「ねこあつめ」で、まんぞくのぬいぐるみを買って帰り、モフモフ感を堪能していたら、
「私よりも、その大きな腹の猫が良いんですか!」
怒られた。それじゃあと思って、日曜の嫁さんを撫でていたら、
『えっちぃのは、人間の姿の時だけでお願いします』
拒否られた。さらに別の日、テレビを見ていたら、アイドルが猫耳をつけたシーンが映り、
「バカバカしいですね。人間に猫耳がつくなんて、ありえません」
漢の夢を一刀両断にされた。
そして今日も、嫁さんの浮気チェックは続く。一方的な嫉妬を受け、時には冗談のような理由で責められている。だというのに、肝心の嫁さんは、日曜は猫の姿でごろごろしながら、
『とうらぶのジジイは俺の嫁』
とかツイートしている。俺のアカウントで。おかげで既婚者でありながら、ホモ疑惑が浮上しているのだ。正直、物申してやりたいというか、鬱憤が溜まっていたというか、若干キレてしまったというか。俺はついに、自主的に浮気へと走ったのである。
※62「不器用な後輩はお姫さま」
私はネット関連の職場で営業として働いている。勤めて六年。部下も少しずつ増えてきたが、頃合いよく、中間管理職という立場に押し込められそうな今日このごろ。
「先輩、聞いてくださいよぅっ。うちの旦那さんが浮気してたんですよ~っ!」
――私が「お姫」と呼ぶ、面倒な後輩がやってきた。
「もー、ほんと信じられないですっ」
「あぁそう。大変ね」
「先輩! 冷たいです! 素っ気ないです!」
「忙しいのよ、こっちは」
注文した弁当を食べながら、PCの帳簿を確認する。実際仕事は忙しかった。やめていく人も増えた。そんな中で「おいオッサン、こいつ顔で取ったろ。絶対やめるから余計な仕事おしつけてくんな」とのし付けて返品したい新人もいた。
「先輩、お願いですから話を聞いてください。私、誰かに話さないと、午後の仕事が気になって手が回りそうにないんです」
「ふざけんな」
「おやつにケーキ、ありますよ。甘さひかえめのモンブランです」
「……ぐぬ」
こいつは半年もたずに辞めるでしょ。この後輩は二年前、私が入社してから、組織改変で一番忙しい時期にやってきた。でも、予想に反してこの娘は残っている。当時の女子は全員、インターンの期間内に辞めていったのだが。
「私、同期の子がいなくて寂しいんです。だから先輩、ぼっち同士、一緒にご飯食べましょう」
「勝手に同盟作ってんじゃねーし」
言いつつ、私は席を立った。べつに寂しかったわけじゃない。この後輩が持ってくるケーキが美味いので釣られてやっただけだ。ついでに愚痴も聞いてやるか。仕方ないな。
「どこで食う、食堂いくか」
「屋上が空いてるみたいですから。そこで」
「は、この時期に? 寒いでしょ」
「今日はお陽さま出てるから、大丈夫ですよ」
のんびり笑う。まぁ腹正しいことに、相当な美人だった。手にした弁当箱の包みもオシャレで可愛い。連れ添って歩く。
「で、さっきの話だけど。浮気ってマジなの?」
「はい! そうなんですよ! 確定です! もう私、くやしくって!」
ハンカチでも噛んで悔しがりそうな声に、やっぱめんどくせー姫だわと思った。
※63「さんかく」
「アレは昨日、私が家に帰ってからのことでした……」
「その無駄な語り口調いらんから、過程と結論だけ話さんかい」
屋上のベンチに掛け、後輩からの差し入れを受け取って話を聞く。ケーキが美味い。
「昨日、いつも通り家に帰ったらですね。旦那さんと、浮気相手が、一緒に玄関に立ってたんですよ」
「……どう返したらいいか困るけど。偶然、女の帰り際にはち合わせたとか?」
「そうなんです。しかもその女ときたら、まだウチにいるんですよ」
「はぁ?」
「帰る所がないらしくて。親が見つかるまで、ウチにいるって」
「なにそれ。親ってことはもしかして……えっ、学生?」
「いえ、もっと下です」
「もっと!?」
やばい。よくある愚痴かと思ったら、リアルに犯罪の匂いがしてきた。モンブラン一個じゃ割りに合わんぞ。
「後輩、その……旦那の趣味には口出したくないけどさ。警察行った方がいいんじゃない?」
「私もそう言ったんですよ! そしたらあのヒト……流石にそれは笑い者になるだけだって」
「あぁ、うん。そうかもね」
ロリコンじゃ、仕方ないよな。
「今日の朝なんて、その子と一緒にご飯まで食べたんですよ! しかも旦那さんったら、買い込んでおいた私用の食材を、その子にあげたりして!」
「それはひくわ」
「でしょう!? しかもしかも、親が見つかるまで、また迷子になったらいけないとか言って、その子に首輪までつけて! 歩く度に小さな鈴がりんりん、鳴るんです!」
「変態だな」
「変態ですよ!」
「なんでそんなのと結婚したの?」
「彼には私がいてあげなくちゃいけない。って思ったからです!」
「でもその彼は、嫁の居ぬ間に、幼子に鈴をつけ飼いならし、保護するような変態だったと」
「そうです! わかってくれますか、先輩!」
「誰でもわかるわ。満場一致で別れたほうが正解だわな。さ、仕事仕事」
「あっ、先輩待ってください~!」
思いがけずヘビィな話題に疲れ、私はさっさと屋上を後にした。
※64「イケメンな彼女」
後輩のお姫は男からモテた。けれど、彼女はすでに結婚していた。
当時の私は、新人研修の担当に回されていて、まぁ、コイツはすぐに辞めるだろうなと思っていたので、ほとんど話をしなかった。それでも担当してる以上は顔を合わせる必要があり、話題に困ったら「指輪はしないの?」なんて聞いた。返答は「週末におでかけする時だけ、一緒につけるんです」だった。お姫様か。
しかし、お姫様なら仕事ができずとも良い理由にはならない。
資本主義社会に、数字の出せない奴はいらない。ゴミだ。実際、彼女への風当たりは日増しに冷たくなっていった。陰で泣いていたのも知っている。
新人の仕事が楽しい時期も終わり、こちらも修羅場が続くなか、一人が辞表を出した。和やかな学生ムードを残していた新人たちの間にも、ついにピリピリした空気が伝染しはじめた。
半年後、成績トップだった奴が急に調子を落として下がりだす。順調だった契約がまったく取れなくなる。あるいは契約が急に打ち切られたり、意味不明なクレームが入る。
俺は悪くないのに。そう思っていたところに、今度は明らかな過失が生じるのだ。
やっぱり、俺には仕事なんて無理かも。自信を失ったところに励ましの言葉はない。こっちも余裕がないので、遠慮のない罵声を浴びせることになる。そしてまた一人やめていく。
仕事というのは、基本的に悪循環が続くものだ。
水面下の人間たちが必死にもがいた結果で、どうにか数字の見栄えだけは良くするも、もがいた挙句、そのまま溺れてお亡くなりになることも多い。
残った人間は選別される。デキる奴だと思っていた連中もいなくなる。そんな中で、お姫さまは最後まで残った。数字は相変わらず底辺飛行を続けていたけれど、誰も目をつけない辺鄙な所から契約を取ってきたり、解決困難なクレームを片付けたりと、地味に役に立ちはじめていた。
「先輩、先輩、一緒にお昼食べてください~」
気が付けば新人のインターン時期が終わり、ピカピカのスーツを着て、わらわらと群がっていた女子たちは、彼女一人を残して去っていた。
「あんたは、どうして私に声をかけるの?」
ある日、つい本音で聞いてしまった。
「先輩といると、なんだか安定するんです」
「なにそれ。安心の間違いじゃないの」
「いいえ、安心はしません。いつ怒られるか、ドキドキするので」
世間知らずのお姫様はおかしなことばかり口にする。おまけに有能でもなかったが、秘めた『覚悟』だけは、誰よりも深く、重かったのだ。私の方が未熟だった。どんな男にもなびかず、自分の亭主にだけ一途なのだ。しかしまさか、ロリコンだったとは。たまげたなぁ……。
※65「恥知らずな浮気男は、ハイスラでボコるわ…」
私は、プライベートと仕事は区別したいタイプだ。職場の人間とは、休日は絶対に顔を合わせたくないし、内輪の話にも踏み込みたくない。
「あの、先輩、やっぱり家にまで来てもらうのは申し訳ないです」
「今更ね。誰かにどうにかしてほしくて、声をかけて来たんでしょう」
だというのに、仕事が終わってからも余計なお節介を焼いていた。家の方向は真逆だ。これからタクシーを呼んで、直帰しても三十分近くはかかる。
(なにやってんだかねー……)
自分でもあきれる。困ってる時に助け合う友達だとか、なにかあればすぐに駆けつける親友なんていう幻想は、遠い学生時代に堪能した。捨ててきた。
「ありがとうございます。先輩」
「べつに。あんたが会社に来なくなったら、ケーキ代が高くつくだけよ。あと、次はないわよ」
「はい、いつもお手を煩わせてすみません」
「ほんとにね。まぁ、なに? 本当に嫌気がさしたら、うちに来なさいよね」
なんだか気安い。なんだか軽い。仕事なんて、基本的にしんどくて、つらくて、それに見合わない、ほんの一割の成功を喜ぶ場所だ。私たちは目前に下げられたニンジンを追いかける、馬車馬のように働く生き物だ。
きっと間違ってない。働くのはつらいが、働くことが好きだ。それが正しい大人だ。
「着きました。ここです」
「よーし、じゃ、いっちょ――行くかぁ!」
スーツを腕まくりする。これからロリコン犯罪者をぶちのめす。ともすれば姫を奪還する。
今は生きることが、二割ぐらい、楽しい。
私は学生の頃、空手と柔道とムエタイをやっていた。ベルトも取った。
「たのもーっ!」
ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽーん。チャイムを連打する。べつに酔っているわけではない。若い頃はよくやんちゃをやらかして、道場破りなんかで小金を稼いだものだ。隣では「あわわ!」といった感じで部下が慌てている。可愛い。なにか口にしようとした時、扉が開いた。
「嫁さん?」
家から部下の旦那が現れる。割とイケメンだった。だがロリコンだ。先手必勝で鼻を折ろうかと拳を繰り出しかけた瞬間、
「にゃあ~♪」
足下から黒い子猫が覗かせる。りんりん、涼やかな鈴の音が、秋の夜空に少し馴染んだ。
※66「今日から家に来て、オレの女になれよ」
「 浮気相手って、猫じゃねえかあああああああぁぁっ!! 」
旦那の前で、部下の頭を盛大にひっぱたいた。そして即座に土下座した。
「ロリコン犯罪者と誤解して、申し訳ありませんでしたっ!」
もう顔から火が出るほどに恥ずかしかった。相手も同じようで「こちらこそすいません」「いえこちらこそ」をお互いにループさせていた。
「でも先輩っ! 先輩は猫って言いますけど、私にとっては――!」
「おまえ少し黙ってろ」
「嫁さん、少し黙ってて」
最大限の対顧客用スマイルを浮かべ、謝罪ループを脱出する。部下はなんか「ふえぇ」とか半泣きになっていたが、いっそ地面に埋まってろ。
まぁ要約すると。月曜の夕方に、河原にダンボールで捨てられているのを、部下の旦那が見つけたと。子猫を家に連れて帰り、里親になってくれる相手を探していたと。
エサを与え、一応、また迷子になっても場所がわかるように首輪と鈴をつけてやったと。
そこへ部下、彼の嫁が帰ってきたと。
「にゃあ~♪」
人懐こい子猫が旦那にべったりなのを見て、ショックを受けたと。アホか。
「……………………はぁ」
どっと疲れた。なんか、普段の仕事以上に疲れた。やっぱり、職場の人間と必要以上の付き合いなんてするもんじゃあない。
「疲れたわー、明日も仕事だってのに……」
自宅のマンションに戻ってきた私の両手には、お詫びとして渡されたケーキの箱と、
「にゃあにゃあ、にゃあにゃあ!」
子猫を入れたキャリーケースと、当面のエサ箱やら、水飲みやらがある。重い。
うちのマンションはペット可だ。この部屋の入り口には猫用の出入り口もある。元々動物は好きで、機会があれば飼おうと思っていたけれど、なんとなく先延ばしてしまっていた。
「にゃあにゃあ!」
「はいはい。出してやるから、暴れなさんなって……」
黒い子猫が床に立つ。新しい場所に馴染むか不安だったけれど、すぐに〝伸び〟をして、早くも我が家のようにゴロゴロと丸まった。くっ、可愛いぜ、畜生め。
※67「浮気疑惑が解消した、ある日の旦那さん」
「ところで、ペットって飼ってます?」
明日の天気でも口にするように。出先でそんな風に尋ねられた。
「えぇと。その、猫を一匹」
「猫ちゃんですか! 今いくつです?」
「にじゅ……あ、いえ、三歳です」
「私も最近、猫ちゃん飼いはじめてまして。爪とぎって、どうしてますか?」
「爪とぎ、ですか?」
「えぇ。私の猫ちゃん、ちょっと目を離すと、すぐに柱をガリガリしちゃって」
そういえば土曜日の夜。風呂から出たら、決まって爪切りをする嫁さんを見た気がする。
「うちのは、ちゃんと自分で処理してますね」
「うわー、かしこーい!」
良かったな嫁さん。褒められたぞ。
「困ったことと言えば、トイレなんかもー、最初は全然覚えなくて大変でー」
「うちのはその辺も、何も言わずともきちんとしてますね」
「えー、ホントですかー?」
「本当ですよ。衛生面で困ることは特にありません」
「天才じゃないですかぁ! 私の猫ちゃんなんてもー、あっちこっちで、プリプリと……」
「それは大変ですね」
良かったな嫁さん、大絶賛されているぞ。
「そうだ。最近猫ちゃん向けの玩具を探してるんですけどー。オススメってあります?」
「いえ特には。うちのは猫扱いすると怒るんですよ」
「え? 猫扱いすると怒る?」
「えーと、たとえば猫じゃらしを目前で揺らすじゃないですか。超反応してじゃれるんですけど」
「わかります、わかります」
「次の瞬間には我に返って、猫扱いした俺の手を、ビンタしてくるんですよね」
「わぁお……プライドが高いんですねぇ」
「めっちゃ高いです。家の中では、自分が一番偉いと思ってますよ」
「わかります! 私の猫ちゃんも、私のこと、召使いAとしか思ってませんから!」
「うちのは、旦那Aとしか見てませんね」
「いいじゃないですか! 愛されてるじゃないですかぁ!」
羨ましそうに言われて、俺はつい、首を縦に振った。
「うちの嫁が、世界でいちばん可愛いですよ」