31話から36話まで
※31「嫁さん、風邪ひいた」
子供の頃は身体が弱かった。
うちの実家は小さなケーキ屋を営んでいて、定休日の月曜以外は、厨房以外からも、どこかしら甘い匂いが漂っていた。
子供の嗅覚、味覚というのは敏感で、風邪をひいた時でもなお、離れの住まいの方にまで、ほんのうっすら気配を感じたものだ。
仕事をしながら看病してくれた両親には申しわけなかったが、甘い食べ物が苦手なのは、その時の記憶が残っているからだ。他にも単純に「食べ飽きた」というのもある。こんなことを口にすれば、嫁さんからは「贅沢ですよ!」と叱られるが、事実なのだから仕方ない。
コーヒーが好きなのも、似たような理由だった。
父親は休憩の間に、実に美味そうにコーヒーを飲んだ。わざとらしい評論家を気取り「香りがちげぇぜ、香りがよぉ!」なんて言っていた。
まぁその話をおいておくとして。俺はここ数年、病気とは縁がなかった。身体が成長して丈夫になったから、自分のペースで仕事をできる環境を手に入れた。あとは経験上、季節の変わり目は気をつけた方が良いと、無意識に気をつけていたのもあっただろう。
小さな石を積み重ねるように、大人になった。
自分の身を守れるぐらい。この腕と両足で立っていられるほどには、やってきた。
「……はう……」
金曜日、嫁さんが風邪をひいていた。
「ごめんね、旦那さん……ちょっと、こほっ、熱っぽいみたい……今日はすぐ寝ますね」
ふらふらした足取りで、嫁さんはまっすぐ二階へ向かった。彼女が服を着替える間に、こちらも風邪薬と水さしを用意して、布団を敷いた。
「旦那さん、ありがとう。……けほっ」
「大丈夫か?」
「ん……とりあえず明日、病院行きます……。あと、風邪がうつると大変ですから……」
「うん。俺は一階の仕事場で寝た方がいいかな。携帯置いとくから、なにかあったら呼んで」
「すいません……」
「いいよ、ほら」
嫁さんの額に熱覚ましのシートを張る。うつら、うつらとしていた瞳が、ゆっくり閉じた。その寝顔を見届け階下に降りた。作った煮物を一人で食べる。
静かな夕飯。焼いた鰤にすり下ろした大根と醤油をかける。今日の料理は中々に上手くできたのだが、余った分にはラップをして、それぞれ冷蔵庫の中に片付けた。
※32「嫁さん、風邪ひいた②」
土曜日。嫁さんの体調不良は続いていた。朝方すぐに会社に連絡を入れて欠勤し、その間に俺は粥を作った。
「どう、食えそう?」
「はいな。旦那さんも、ちゃんと食べてくださいね」
「わかった。昨日の煮物と魚の方は、俺がもらうよ」
「けほ。ごめんなさい」
「いいよ。それよりも今日、医者行くだろ?」
「すみません、お願いします」
冷えた焼き魚と、煮物をレンジに入れて、適当に温めながら聞いた。
「で、明日なんだけど。嫁さん猫になるよな? その、体調ってどうなるんだ?」
「残念ながら、けほ……体調も継続です。ヒトの薬も効きません」
「じゃあ明日は……」
――獣医?
「旦那さん」
「知ってます。良く存じてます。うちの嫁さんは日曜には外に出ません」
「よろしい。……けほ、こほ」
咳をしながら、それでも尊大にうなずかれた。
「真面目な話、薬が効かないなら、明日は素直にあたたかくして、寝るのが一番か?」
「そうですね。旦那さんのお仕事のジャマにならないよう、静かにしてます」
嫁さんが言った時、チーンとレンジが鳴った。蓋を開けて取りだした。
「じゃ、今日はとりあえず病院だな。食べてから予約取ろうか」
「お手数かけます。いただきます」
「いただきます」
両手を合わせて朝食を取る。嫁さんは粥をすすり、俺は昨日の残り物を口に運んだ。
「あの……実を言うとですね」
熱のせいか、それとも恥ずかしがっているのか。顔の赤い嫁さんが言った。
「注射が苦手です。子供の頃にも風邪ひいて……お婆ちゃんに病院へ連れてかれて……」
「はは、わかるよ」
確かに子供のころは苦手だった。だが嫁さんの記憶は日曜の方なのだろう。つい笑みがこぼれてしまうと、彼女は少し、ふてくされた顔をした。
「どうせ私は猫ですから。不安定ですからね」
嫁さんは昔から、猫なところを指摘されると、可愛く拗ねる。
※33「嫁さんと、忘れられた過去①」
むかしの話。とある高校の旧校舎。日当たりだけは良い角部屋に彼がいた。
「わたし〝ふあんてい〟なの。ニンゲンになれない日があるの」
子供らしく、覚えたばかりの言葉を使いたがった。彼は面倒そうに嘆息した。
――哲学的だな。
当時の彼は、まだ高校の学生服を着ていた。
表向きはやさしい表情を浮かべてもいたけれど、ただよう匂いは氷柱のように鋭く、冷たい。
「テツガクテキって、なぁに?」
「いや、なんでもないよ。忘れて」
彼は短く言いきった。前の日にお婆ちゃんとケンカして、家出した私がその場所にいたこと。自分の予定になかったことが起き、ひどく厭っていた。だけど、当時は気づかなかった。
「えへへ。このマンガおもしろいねぇ! マヤ……おそろしい子っ! ぜんぶある?」
「残念ながら、まだ未完」
「ねぇねぇ、どうして学校なのに、マンガが置いてあるの? 先生おこらないの?」
「部室だからね。漫研――マンガ研究部だから、昔の古いマンガが資料として置いてあるんだよ」
「ほかの人もいるの?」
「幽霊部員がね。大体、俺しかいないよ」
「ゆうれーいるの? 私もけっこう、知ってるよぅ!」
「……?」
「あのねぇ、うちにねぇ、けっこうまちがって入ってくるの。おばあちゃんに、しゃーっておこられて、帰ってくの!」
彼は怪訝そうな顔をした。それから短く「あぁそう」とだけ言って、また手を動かしはじめた。私は手元を遠慮なく覗き込んだ。窓から見える風景画が描かれていた。
「マンガ、書かないの?」
「……俺はどっちかっていうと、イラスト……」
「えかきさん?」
たずねると、彼は瞬間、苦そうな、つらそうな顔をした。さすがに子供の私も焦った。この前の日曜日、私がお尻に注射をされた時よりも、たぶん、ずっと、痛そうだった。
「わたし、このえ、すきだよ。なんだかね、ふわふわするの」
「あぁそう。ありがとう」
顔を背けられる。空に浮かぶ雲のように、気のない返事だった。
※34「嫁さんと、風邪をひいた猫」
日曜日。嫁さんはいつも通り猫の姿になっていた。やはり体調不良が続いているのか、あまり元気がない。
「じゃ、俺仕事するから」
「にゃ……」
こたつ机の上に置いた小さな毛布に身を包み、目を閉じた。いつもは肉球でぺちぺちと叩いているタブレットも電源すら入ってない。
「嫁さん、なにかあったら呼んでくれていいから」
「……にゃ……」
こくん、とうなずく。なんとなく後ろめたかったが、襖を閉じて仕事部屋に戻った。
休止モードにしていたPCの電源を点けなおし、ペンタブを持つ。電子メールを開いてもう一度新着分を確認してから、イラスト描き用のソフトを開いた。
時計のタイマーをセットする。
あらかじめ制限時間を決めておくことで、俺の場合は集中力が増す。
「…………」
いつもより三十分、早めにセットした。
背景のパースを取り、線と構図の下書きをざっと終えたところでタイマーが鳴った。
「……あれ?」
ちょっと早くないか。そう思って時計を見て、そうだったと首が振った。
「嫁さんが風邪ひいてたんだっけか……っと、データ保存しとかないとな……」
キーを押して作業内容を保存する。バックアップも取り、隣の部屋に戻る。嫁さんは相変わらず毛布に包まっていた。タブレットは沈黙したままで、若干旧式の電気ストーブが、しゅんしゅん低い音をたてている。
「嫁さん」
「…………にゃ?」
「昼だよ。正確には正午前。体調どう」
「……にゃあ」
ゆったり身体を持ちあげる。金色の瞳は心なしか精彩に欠けていて、手を伸ばせば本当の猫のように、ぺろりと舐めてきた。
少し良くなったみたい。
あまりそうは見えなかったが、月曜になれば、またヒトの薬を飲めるから。
無理をしなければ治るはず。ただの風邪だと言い聞かせた。
※35「嫁さんと、超絶カッコイイ旦那さん」
日曜の昼間はトーストを焼く。コーヒーを煎れる。いつもと同じ。
同じ匂いを香り、同じものを味わい、静かな空間で、淡々と胃袋を満たし、頭を働かせる。
構想がまとまれば即座に行動に移る。ただ描き続ける。それだけ。
あと、よく聞く例えだが「気になる分野にはアンテナを張っておけ」と言われるのは、俺の場合はさしてやってない。
アイディア着想の訓練、それも皆無だ。
「イチゴショートください」と言われれば、イチゴショートを出す。
「チョコレートケーキください」と言われれば、チョコレートケーキを出す。
ただ、甘さはどれぐらいがいいですか? 控えめですか? 濃いめですか?
それぐらいは尋ねる。時には抜かりなく、現質を取っておくのも大事だ。
結果として、絵ができあがるまで。
――カリカリカリカリ。
ペンタブを動かし続ける。
昼間に食べたカロリーが尽きるまで。昼間に飲んだカフェインが落ち着くまで。
――カリカリカリカリ。
描く。モニターから浮かぶ光源が若干、強く感じられるような……なんて思った時には、陽がくれている。セットしたタイマーが小さく鳴りだして、少し工程数が足りなかったかなと思う。
「――あ、午前中、半時間早めに切りあげたんだったか……」
頭がぼーっとする。欠伸がでて、思わず両腕を上に伸ばした。
「~~~~んーっ、まぁ残りは明日に回すか。修正込みで昼前でいけるだろ」
疲れた。そういえば嫁さんはどうしただろう。思って隣の襖を見ると、
「………………」
「うわッ!?」
前足が、ほんのちょっとだけ、襖の間に挟まっていた。床の上で横倒れになっている。
「嫁さんっ!?」
急いで駆け寄る。襖を開いて、浸された泉を救うように、嫁さんを持ち上げる。
「おい、嫁さん、おいっ、しっかりしろ!?」
「……にゃふう、にゃ……」
落ち着いた寝息が聞こえた。良かった。生きてる。机の上を見ればタブレットが点いている。
俺のアカウントで、ツイートが一件。
『――チッ、あきれるほどに心細い夜だぜ……』
誰だおまえは。嫁さん、旦那のキャラを改変しすぎだろ。
※36「嫁さんと、ツンデレの旦那さん」
日曜日の夜、嫁さんを膝に乗せていた。
こたつに入り、上着を重ねて温かくしてから、スマホに取り込んだ資料や、他のイラストレーターの仕事絵の一覧を見る。他にもラノベのイラストコンペじみた依頼が来ていたので、送られてきた原稿の前文に目を通し、新規キャラクターのラフ案を練りつつ、嫁さんを撫でる。
「……にゃ?」
「あぁ、目ぇ覚めた?」
耳の間をゆっくり撫でる。
「今は夜九時かな。心細い夜なんで、拾っといたよ」
「にゃ、にゃあ!」
声にいつもの調子があった。見上げてきた瞳にも活力があり、一発猫パンチをもらう。
「体調、だいぶ良くなったみたいだな?」
「にゃ? ……にゃぁ」
ぐったり。
「わざとらしい。あんまりそういう事やると、ブログのネタにするけど?」
「にゃあ」
笑う。笑ってくれた。安堵すると、油断したせいか腹が鳴った。
「そういえば、昼からなにも食べてないな」
「にゃあにゃあ」
まぁ仕方ない。今日は心細い夜だったのだ。割と本当に。
「なにか食べようか。猫缶食えそう?」
「にゃあ」
「よし。じゃ俺も、適当にある物で済まそう」
嫁さんをこたつの上に置いて、立ちあがる。頭が少しぼーっとしたが、まぁ単に腹が減っただけだろうと思い、台所に歩いて冷蔵庫を開いた。金曜に買った冷凍うどん、その他ツマミになりそうなハムやチーズを適当に取り出し、鍋に湯をわかした。
「いただきます」
「にゃあ」
居間に戻り、猫の嫁さんと二人で晩御飯にした。
その翌日、俺は本当に久しぶりに、少しだけ熱をだした。嫁さんが今世紀最大に優しかったので、感謝を込めてツイートしておいた。
『――チッ、あきれるほどに可愛い嫁だぜ……』