043 薬と火と姫
「本当にすいません、藍田先輩。澪ちゃんがどうしても藍田先輩に勉強を教えてもらいたいって、言うことを聞かないものですから……」
「あ、おい有紀……! それは内緒の約束じゃ……あっ! い、いやそんなことは私は決してお願いなどしていないぞ! 断固としてしていないっ!」
中等部にある化学実験室。
楓により強制的に連れてこられた僕は、おっとりとした性格の中等部三年相羽有紀と、同じく中等部三年の日高澪――こちらは何故か顔を真っ赤にしているけど――の間にすっぽりと挟まる様に座る羽目に。
二人とはもう何度も異世界調査班としてパーティを組み、お互いの力量も理解し合っている仲であるのだが、どうしても澪のほうだけは僕と目を合わせてまともに話してくれようとしない。
……戦闘中なんかは全然問題なくコミュニケーションがとれているんだけど。
「ほうら、澪先輩。せっかく私がこうやって皆に大人気のお兄ちゃんを連れてきたんだから、澪先輩も自分に正直になってお兄ちゃんにしっかりと勉強を教えてもらって下さいよぅ」
「大人気って……」
「わ、私はいつでも自分に正直に生きているぞ! ひっ……! ち、近い……! お前、もう少しそっちにずれて座れ! わ、私の肘にお前の肘が当たっているじゃない、か……」
何故か澪は僕を押し退けるようにし、自ら十センチほど横にずれて座る。
僕だって後輩の女子、しかも中等部では楓に次ぐ男子達の人気を集めている二人の間に座るのは、緊張もするし上手く勉強を教えられるか心配なんだけど……。
「ふふ、澪ちゃんは以前の事をずっと気にしているんですよ。だから藍田先輩の目もまともに見れないくらいになっちゃって……」
「以前の事?」
記憶を遡ってみても、有紀が何のことを言っているのか思い出せない。
もしかして、どこか僕が気付いていないところで澪のことを傷付けてしまっているのだろうか。
それとなく楓のほうを振り向いた僕だったが、彼女は笑みを返すだけで何も教えてくれないし……。
「お兄ちゃん、責任取る気あるの?」
「せ、責任? 何の……?」
「お、お、お前……! 覚えていないのか! わ、私のあんな姿を、その、が、ガン見してたくせに……!!」
もうすでに真っ赤だった澪の顔が、更にトマトのように見る見るうちに赤く染まっていく。
ガン見……。あんな姿……。
…………あっ!
「……最初にこの実験室で二人に会った時の、こと?」
そうだ。あの日も僕は楓と一緒に、この中等部にある実験室に向かっていたのだ。
目的だった『薬士』の能力を持つ有紀と一緒にいたのが、『姫騎士』の澪で――。
そして扉の中から「くっ、殺せ!」という叫び声が聞こえてきたから、僕は慌てて扉を開けて――。
「そうだ! その顔は思い出した顔だな……! ……いやいやいや! 思い出すんじゃない! 優斗、お前今頭の中で私の裸を思い出しているんだろう! や、やめろ! 忘れろ! その映像を今すぐ頭の中から消せー!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください、澪先輩ぃ! 今日はそうやっていつものように掴みかかって、お兄ちゃんを困らせるんじゃなくて、ちゃんと向き合って落ち着いて話し合いたいって言うから、有紀先輩と私で打ち合わせして和解の場を作ってあげたんじゃないですかぁ!」
僕の頭を両手で掴み、強制的に前後に揺らす澪をどうにか止めようとする楓。
姫騎士の力の前では解析士の僕など到底抵抗することもできず……。
うう、気持ち……悪い……。頭が、クラクラする……。
「放せ、楓! こいつは私と優斗との問題だ! そもそもこいつがノックもせずに扉を開いて、上半身裸になって背中に薬を塗ってもらっている私の姿を見たことが全ての元凶で――あっ」
「ぽにゅん」
急に僕の頭から手を滑らせた澪。
当然僕は頭がフラフラしているので、その反動で前に倒れてしまう。
そして何か凄く柔らかいクッションのようなもので僕の頭は支えられた。
暖かくて、落ち着く、優しい香り――。
でも僕はそれが何なのか気付くこともなく、気絶してしまった。
「……ひ……ひぃぃ! お、おま、優斗……! そこは、私の、胸、胸……」
「あーあ。やっちゃった。有紀先輩、これって澪先輩の過失ってことで良いんですよね?」
「ふふ、まあそういうことになるかしら。それよりも楓は早く藍田先輩から澪を離してあげて。先輩ももう気絶してるみたいだし、気付け薬を嗅がせてあげないと」
「だそうですよー、澪先輩。ほら、さっさと、お兄ちゃんから、手を……! 離して! 下さいぃつの!! こら! 顔を真っ赤にしながら幸せそうな顔で、気絶しているお兄ちゃんの頭を胸の中で抱き締めない! どさくさに紛れて何をしているんですか、澪先輩ぃ!」
「あ……もう少し……」
――薄れゆく意識の中で僕は、それでも幸せな時間を過ごしていたのかも知れない。
◇
「えらい目に遭ったな……」
有紀の作ってくれた気付け薬で目を覚ました僕は、そのあと二時間ほど三人の勉強をみることになった。
時刻はもう夜の21時半を過ぎている。
中等部も高等部も学生の就寝時間は22時と、新たに作られた校則で定められているのでこれを破るわけにはいかない。
僕は三人に要点をまとめたレポートを渡し、残りは自習で済ませるようにお願いをして実験室を後にした。
「ああ、まだちょっと頭がフラフラする……」
中等部の女子三人を相手するのは、こんなにも疲れるものなのだろうか。
それでもまだ有紀はおとなしくて優秀で、特に化学や生物の勉強は教えるところなど一つもなかったから良かったものだけど。
中等部の校舎を出て、建物を見上げる。
もうほとんどの教室の電気が消え、皆は就寝の準備に入ったようだ。
まだチラホラと明かりが点いているのは職員室や理事長室、それに用務員室くらいだろう。
先生達は夜遅くまでテスト勉強の準備などもあるし、期末テストまでの期間はずっと異世界調査と食料調達を教師達だけで行うことが決定しているので、いつも以上に忙しいはずだ。
僕は職員室に向かって軽く頭を下げて、高等部の校舎へと向かう。
下駄箱に携帯型の懐中電灯を向け上履きに履き替える。
そこで背後に人の気配がして、慌てて懐中電灯をそちらに向けた。
「だ、誰……?」
「…………眩しい」
急に明かりを向けられて片手で顔を覆う一人の女子学生。
その聞き覚えのある声を聞いてほっとした僕は、彼女に謝り懐中電灯を下に向ける。
「……こんな時間に外を出歩いていると、先生達に怒られるわよ」
抑揚の無い声でそう言ったのは一年五組、『炎術士』の三浦美香子だ。
相変わらず気配を消して近付いてくるので、こんな夜中だと余計に存在感が感じられない。
「三浦さんこそ、こんな時間にどうしたの?」
彼女にそう尋ねると、返答をする代わりに彼女は人差し指で校舎の外を指し示す。
そこには校舎の窓ガラスに差し込む、月明かりがあった。
「月……? ああ、月が綺麗だから見に行こうとしてたのか」
僕がそう言うと彼女はコクリと頷いた。
少しだけ考えた僕だったが、普段あまり交流の無い彼女と話すには良い機会だろう。
というか美香子が誰かと一緒にいる姿を、これまでに一度も見たことがない気がする。
「僕も一緒に見に行っても良い?」
「え……?」
少しの沈黙。
周囲には物音一つ聞こえず、僕の心臓の音が彼女に聞こえてしまわないかと心配するほどだ。
少しだけ笑った気がする美香子は、それでもほぼ表情を変えないままコクリと頷いてくれた。
再び下駄箱からスニーカーに履き替え、二人で校舎の外に出る。
「こっち」
美香子に言われるがまま、僕は彼女の後を歩く。
穏やかな夜風がグラウンドに吹き、前を歩く彼女の髪を撫でている。
先ほど中等部の女子三人といた時と全く逆の、静かで心にゆとりが出来る時間。
歩いている間は何も話してこない美香子だが、何故か気まずく感じることもない。
不思議な子だ、三浦美香子は。
「ここよ」
招かれた場所は、中等部と高等部の間にあるベンチが置かれた中庭だ。
中央には噴水があるが、異世界にこの学園が転移してから水は止めてある。
彼女が指差す方角に視線を向けると、そこには二つの校舎の間から見事な月が昇っていた。
「へぇ、こんなに綺麗に見える場所があったなんて知らなかったよ」
僕がそう言うと、今度は僕でも分かるくらいの笑顔を見せる美香子。
そして彼女はベンチに座り、静かに魔法を詠唱する。
「魔法?」
「……うん」
彼女の指先からピンポン玉くらいの大きさの火の玉が出現する。
それらがゆっくりと宙に浮かび、彼女は次に青の炎、紫の炎など色鮮やかな火球を生み出しては宙に浮かべる。
月明かりに照らされた鮮やかな火の群集は、月のオブジェとして僕の目を楽しませてくれる。
「すごい……。火の大きさをコントロールできるだけじゃなくて、色まで付けることができるんだ……」
「うん。これも全部、藍田くんのおかげ。だから、貴方にこれを見せたくて」
そう言った彼女の頬は、月明かりと火球に照らされて少し赤く染まったようにも見える。
その表情を見た僕は少しだけ、彼女の笑みに心を奪われてしまった。
美香子は僕らとは違い、別の中等部から伊ノ浦学園に移ってきた子だ。
その状況でいきなり異世界に転移してしまったせいで、高校に入学してから半年が経過しても、彼女にはまだ友達が出来ていないのかもしれない。
もしもそうなら、僕は――。
「……藍田くん?」
僕の視線に気づいたのか。
彼女は少しだけ首を傾げる。
そして僕は勇気を出して、彼女にこう告げた。
「三浦さん。もし良かったら、これからも僕と、ここで月明かりを見てもらえないかな」
「え……?」
ちょっとだけ困惑した顔をした美香子だったが、僕の真剣な目を見た彼女は真っ直ぐに僕の目を見返してくる。
これは決して哀れみの心でもなければ、情けでもない。
僕が、そうしたい。
彼女の魅力を知ったからこそ、僕は彼女と――。
「友達になって欲しいんだ。僕と」
「あ……」
僕がそう言うと、少しだけ目を伏せた美香子。
もしかしたら、嫌がられたのかもしれない。断られるかもしれない。
それでも僕は、美香子と友達になりたい。そして僕の大事な友人らとも、友達になって欲しい。
それはきっと、おこがましいことなのだろうけれど、でもそれが僕の望み。僕の願いだ。
「迷惑だったら、ごめん。でも三浦さんのことが、どうしても気になるから」
「…………」
再び沈黙が僕らの間を埋めていく。
でも、やはりこの沈黙は苦痛じゃない。
彼女はどう答えようかと考えているのが伝わってくる。
一生懸命に。相手に自分の意志を伝えようとしてくれている。
「……一つだけお願い、聞いてくれる?」
「え? お願い? うん。僕が出来ることなら何でも」
意外な返答が返ってきて、今度は僕が困惑した顔を向けてしまったかも知れない。
でもそれが彼女が一生懸命考えた『答え』なのだろう。
僕は彼女が再び口を開くのを待つ。
「……『優斗くん』、って呼んでも良い?」
「え……? お願いって、それだけ?」
僕がそう言うと彼女はいつもの通りにコクリと頷いた。
苗字で呼んでいたのを下の名前で呼びたいということは――。
「友達になってくれるの? 三浦さん?」
「……私だけ下の名前で呼ぶのは不公平。優斗くんも、同じようにしてくれる?」
「……あ、ごめん。じゃあ……『美香子さん』」
頭を掻いてそう答えた僕を見て、口を押さえて小さく笑った美香子。
やっぱり彼女は笑顔でいたほうが可愛い。
これからもっと友人として、一緒に色々な場所に行って、仲間達とも交流して。
僕らは力を合わせてこの異世界から抜け出すんだ。
そして元の世界に戻った後も、お互いにずっと友達でいられるように――。
月明かりに照らされた中庭で、僕は美香子と共に空を見上げて一緒に笑った。