罠
1995年 7月
頬に当たる空気は、真夏の朝方とは思えない程冷たかった。
「今って、夏だよな?」
拓海は、自分の後ろを歩く鴻上に問い掛けた。
「…あ? それどころじゃねぇよ…。」
鴻上は、ぼてぼてと重そうな足取りで拓海を睨んだ。
息も荒い。
「情けねぇな。荷物持ってやろうか? 龍子サンよー?」
鴻上の不甲斐なさをからかいながら、拓海はガイドの後に続いた。
まだ薄暗い霧の中を、彼らは一列に進んでいた。
トレッキング用の道なのだろう。
自分達の腰の高さ程ある鉄の杭が、土で軽く整備された道の両側に等間隔で並び、その杭は左右共それぞれ一本のロープで繋がり、簡単な柵のようになっている。
ロープの外側は、霧で遠くまでは見えないにしても、見渡せる限り木などは一本もない草原が広がっていた。
「…つうか、誰だよ。飲んでそのまま行こうなんつったアホはよー…? 山舐めてっと、マジでヤバいんだぞ…?」
彼等は風呂上がりを皮切りに、それはそれは大量のアルコールを摂取した。
ビールに焼酎、ワインに地酒、シャンパンにウイスキーと次々に空け、結局トレッキングに出掛ける直前まで、飲んでいたのだった。
「行くっつったのはオメーだろが。マジでヤバいのはお前の軟弱な胃腸だ。つうか珍しいな、あれくらいでへばるなんてよ。」
「うるせー…。いつもなら、こんな筈ねぇんだけどなぁ…‥。」
いつもならこれくらいの量で鴻上がへばる事はないのだが、今日に限って体調が良くなかったようだ。
あーあと小さく呟いて、鴻上はその場にしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫ですか? 少し休憩を…。」
先頭に立って歩いていたガイドが、鴻上に駆け寄る。
「あー、大丈夫っすよ。オラ、行くぞ。朝日見ながらビール飲むんだろ?」
フロントからモーニングコールがあった時、既に鴻上の二日酔いは始まっていた。
そこで行くのをやめても拓海は良かったのだが、当の鴻上がそれを許さなかったのである。
「…おう。男に二言はねぇ…! 神聖な朝日をビカビカに浴びながら飲むビール…、最高なハズだぜっ…!」
二日酔いの最中で飲んでも大して美味くはないだろうとは思うが、拓海的には体調は悪くないし、確かに朝日を浴びながら飲む一杯は他とは違った感動が得られそうだったので、敢えて深く止めもしなかった。
「そうですか? では、少し行った先に丁度見晴らし場がありますから、そこで朝日を待ちましょう。 あと30分程で日の出だと思うので。」
ガイドはそう言って自分の腕時計を見て日の出の時間帯を確認すると、鴻上に手を差し伸べた。
「…いや、情けは無用っす。自分で行かなきゃ、ビールの味も落ちると思うんでっ…!」
鴻上はガイドの手を借りる事なくスクっと立ち上がると、半ばヤケ気味に走り出した。
「つー訳で拓海、先行くぞっ!」
「は? おい、龍っ!」
「うおおぉぉ…!!」
雄々しい気合いだけを残して、霧の中に消える鴻上。
「体調も良くないのに、あんなに走って大丈夫なんでしょうか?」
「好きにさせてやってください。あいつ、馬鹿だけど体力だけは折り紙付きっすから。」
拓海は、心配しつつも呆気にとられているガイドに苦笑いで返した。
2人は鴻上の後を追って、見晴らし場を目指して、再び歩き始めた。
「霧が結構出てますケド、朝日とか大丈夫なんすか?」
ガイドの後ろ姿に、拓海はなんとなく問い掛けた。
「あぁ、心配はいりません。今日はラッキーですよ。ここ数日、曇りや濃霧で全然でしたが、この感じだと確実に素晴らしい景色が拝めますから。」
今の状態を見る限り、朝日が見えるとは思えないが、プロが言うのだから大丈夫なのだろう。
「さすがっすね。やっぱ、プロはスゲーや。」
「はは、プロなんてやめて下さい。長年見ていると、嫌でも判るようになるんですよ…。」
見晴らし場に着くまでの数十分の間、拓海はガイドと取り留めのない話をしながら進んだ。
ガイドは、名を高坂と言った。
年齢は36歳で、山ばかりに居たため未だに恥ずかしながら未婚なのだと笑っていた。
切れ長の目元が涼やかな、どこか落ち着いた雰囲気のある男だった。
高坂の話しやすさと物腰の柔らかさも手伝って、拓海は初対面という事も忘れて 彼と打ち解けていった。
「あぁ、佐久間さん。見晴らし場が見えてきましたよ。ほら、鴻上さんもあそこに。」
そう言われた高坂の肩越しに、うずくまった男らしきものが霧で霞んではいるがぼんやりと見えた。
「…あんの馬鹿。」
「相当頑張ったみたいですねぇ。あそこまで行けば、開けますから。」
拓海は、クスクスと笑う高坂の後ろから、鴻上らしき人影を見てため息を吐いた。
人影はやはり鴻上だった。
鴻上は、見晴らし場の入口にうずくまっていた。
見晴らし場といっても、土の道が少しそこだけ開けており、木の丸太を切り出して作ったと思われる簡素なベンチが一つポツンとあるだけだった。
「遅ぇぞー…。走って来いよ、バカヤロー…。」
高坂と拓海がやって来た事に気づいた鴻上が、頭を上げて拓海に噛み付く。
「お前さ、しんどいならベンチ座って待ってろよ。ムリしやがって…。」
拓海がそう言いながらリュックをベンチの脇に下ろすと、鴻上はくそ〜と小さく呟きながら、重そうに腰を上げてベンチへと座り込んだ。
先程よりも、見たところ具合が悪くなっている気がする。
「おい大丈夫か? …ほれ水。」
拓海はリュックから水の入ったペットボトルを取り出して、鴻上に渡すと、その隣に腰掛けた。
「本来なら、この先の道を行ったもう少し広い見晴らし場で朝日を拝んでから、景色の良いルートを通ってホテルまで向かうのですが、今日はここで引き返しましょう。思ったよりも、鴻上さんの体調が芳しくない。」
水を一気に流し込んでいる鴻上の後ろで、高坂が言う。
「そっすね。おい、聞いてたか? 朝日見たら帰んぞ。」
高坂の方に顔を向けていた拓海が、振り返って鴻上の顔を覗き込むと、一本丸々飲み終えた鴻上がにかっと笑って答えた。
「…っはー!! あぁ、聞いてた。確かにこれ以上は厳しいな。水のおかげで、少し楽になった。サンキュな。」
水分をとったことで、少しスッキリしたのだろう。
笑える余裕くらいは出てきたようだ。
道を歩いていた時よりも、大分霧は薄まってきていた。
「あと数分で、出てくる筈ですよ。あちらを見ていて下さい。」
高坂が朝日が登る東の方角を指差す。
「おぉ…! やべー、ビールビールっと。」
慌てて自分の背負っていたリュックを下ろすと、鴻上はビールを一本ずつ取り出していく。
「龍。お前、一体何本持って来たんだ?」
「ん? 6本だけど?」
その本数に、拓海は呆れた。
「何でビールばっかそんなに持って来てんだテメーは。水は? ちょっと中身見せてみろ! まさかビールしか入れてきてねぇとかそういうオチじゃねぇだろな?」
「は? んな訳ねぇだろ。ちゃんと水も持ってきてたっつーの。全部飲んじまったけど。」
鴻上のリュックの中には、まだ取り出していないビール3本と空のペットボトルが3本、あとは財布しか入っていなかった。
「何でビールが6本も入ってんの? そんで何で水もう全部飲んじゃってんの? バカだバカだとは思ってたけど、これほどとは…。」
ため息を吐く拓海に、鴻上は口を尖らせる。
「バッカ、必要だろ? 俺と拓海と高坂さんで2本ずつだからな。にしても、酒飲んだ後ってどうしてこうも喉が渇くかねぇ。」
「だからって配分くらい考えられるだろ? 行きだけで全部とか考えらんねぇし。」
「全部飲んでも大丈夫だと思ったんだよ。お前の水、まだあんだろ?」
「何俺の水まで勝手にカウントに入れてんだよ! もうやんねぇぞ。」
出せと言わんばかりに手を出す鴻上を拓海はじろりと睨みつけた。
それと同時に、案外平気そうな鴻上の様子に安堵し、心配していた自分が馬鹿らしくも思えた。
「まーまー、細かいことは気にすんなって。ほいビール! 高坂さんも、どぞ〜!」
そんな拓海をよそに、鴻上は拓海に一本、振り返って高坂に一本を渡した。
仏頂面でしぶしぶ受け取る拓海。
「私にまで気を使って頂いて申し訳ない。しかし、お二人はとても仲がよろしいんですね。」
『腐れ縁っすから。』
受け取りながら言った高坂に、二人は同時に答えた。
「はは、本当に仲が良い。…あ、良いタイミングで霧が流れて行きましたね。…出ますよ。」
高坂の言葉に、二人は朝日が出る方角へと目を移した。
風が霧を押し流し、草原の草をザワザワと揺らした。
草原のはるか先にそびえる山肌が黄金色に光ると、暗かった草原が少しずつ光を帯び始めた。
「すげぇ…。」
拓海は思わず呟いた。
朝日が顔を出す程に、どんどん草原が黄金色に染まってゆく。
ビールのフタを開けるのも忘れ、二人はその様子をじっと見つめていた。
それは二人が今まで見た事もないくらい、神秘的な光景だった。
程なくして、草原一帯が黄金色に染まった時だった。
「どうですか?」
後ろにいた高坂が、朝日に見とれていた二人に声を掛けた。
「こんなの俺、初めて見た! 二日酔いでもムリして来てマジ良かったな!」
「俺もだよ! 久しぶりに良いモン見たって感じだよな!」
拓海と鴻上がそうはしゃいだ瞬間だった。
「それは良かった…。気に入ったなら何よりだ。これからは、好きな時にいつでも見ることが出来ますよ。…嫌でもね。」
「…?」
高坂の言葉に疑問を感じて先に振り返ったのは、拓海だった。
鴻上も、拓海につられて振り返る。
「動かないで下さい…。」
高坂は拳銃を構えていた。
先程までの柔らかな表情とは違い、無機物を見るような冷たい目でこちらを見ている。
銃口は拓海に向いていた。
「ちょちょちょ、高坂さん。いきなりビビるじゃないっすか。モデルガンか何かすか? それ。」
ははっと笑いながら、拓海はビールのフタに手を掛けた。
「俺も昔持ってたなー。そんなカンジのヤツ。撃たれると地味に痛いんすよね〜。拓海ぃ、高坂さんの気に障るようなコト、何かしたんじゃねぇの〜?」
ビールを飲みながら、鴻上がひひっと笑った。
「はぁ? 何もしてねぇよ。ねぇ? 高坂さん。」
「 …できれば抵抗もしないで頂きたい。無傷で連れ帰れという命令なのでね。 」
「やーべぇって、拓海。何したのか知らねぇケド謝れって。痛いぞ〜、あれは。」
鴻上が面白がりながら煽る。
「スミマセン。…って、何で俺が謝んだよ。高坂さ〜ん、冗談はこのくらいにして、乾杯しませんか〜? 約1名、フライングしてる奴がいるけど。」
一向に銃を下ろそうとしない高坂に、拓海はベンチから立ち上がって近づいた。
「…動くなと言った筈です。」
それは一瞬の出来事だった。
突然、鴻上がベンチから崩れ落ちたのだ。
和やかだった空気が一変する。
「龍っ!!」
拓海はすぐさま鴻上のそばへ駆け寄った。
「ぅ…ぁあっ…!」
鴻上の口から、言葉にならない呻きが漏れる。
「…高坂さん、あんたっ…!!」
自分に再度銃口を向けている高坂を睨み付けた。
「動いたあなたが悪い。あなたを傷付ける訳にはいかないので、“それ”を撃ちました。因みに、他者に聞かれると厄介なので、音は消してあります。」
確かに銃声らしきモノはなかった。
高坂が放った弾丸は、銃口を向けていた拓海にではなく、隣にいた鴻上の腹に当たっていた。
傷口からは、絶え間なく血が流れ出ている。
「痛ってぇ…。…やべぇな、血が止まんねえわ…。」
そう言った鴻上の顔から、どんどんと血の気が引いていくのが見てわかった。
「マジかよっ…。何でっ…!」
拓海は息も荒く、ぐったりし始めた鴻上の上半身を抱き起こし、高坂に叫んだ。
「それは後々話しますよ。……検体確保。……各自、撤退準備に入れ。」
高坂は上着のポケットからトランシーバーのような物を取り出すと、どこかへ連絡を入れた。
どうにかして逃げなくては…。
混乱する頭で、拓海は必死に考えた。
一か八か真正面から向かってみるか…?
いや、危険過ぎる。
相手は銃を持っているのだ。
万が一、 銃を高坂の手から離す事が出来たとしても、相手の実力が解らないこの状況では迂闊に動くべきではない。
「…逃げる算段をしても無駄ですよ。」
高坂の声に、内心ぎくりとする。
「“それ”が五輪級の空手の有段者である事も、あなたが体術があまり得意でない事も、私は知っています…。」
高坂は冷たい目のまま、淡々と続けた。
「あなたを確保する為とはいえ、流石に私1人であなた方2人を相手にするのは銃があっても少し難しいでしょう。なので、こういった方法をとりました…。」
「あんた一体…?」
「…せっかちなヒトですね。後々と言ったでしょう。無傷の“それ”には負けるかもしれないが、私は少なくとも体術であなたに負ける事はありませんよ。だから抵抗しようと思っているのなら、やめておいた方が良い…。それに…」
「…!」
拓海は高坂から目を離し、先程歩いて来た道を見た。
足音が聞こえたのだ。
霧が流れる向こう側に見えたのは、二つの人影だった。
人影は、こちらに向かってきている。
「この状況で噛みつく程、あなたは馬鹿ではない筈だ。」
流れる霧から現れたのは、上から下まで黒ずくめの男達だった。
手には散弾銃らしきものを携えている。
どう見ても、トレッキングの観光客ではない。
高坂の仲間なのだろうと、容易に推測する事ができた。
「仲間か…?」
「そんなところです。…輪っかは?」
高坂が男達に聞くと、1人がこちらにとミリタリーズボンのポケットから十センチ四方程の薄く、黒い箱を一つ取り出した。
「こっちの無傷が検体だ。」
高坂が顎で拓海を示す。
箱を持っていた男がそれを開けて、中身をもう一人に渡した。
鎖?
いや、ブレスレットのようだ。
「何度も言いますが、抵抗すれば“それ”の命は勿論、場合によってはあなたの命もありません。よろしいですね?」
高坂はそう言って2人に近づくと、銃口を今度は鴻上の頭に押し当てた。
「…従った場合、コイツはどうなる? さっきから大量の血が出てる…。このままだと、龍は確実に死ぬ…!」
再度、拓海は高坂を睨んだ。
「そうですね……。確かにあなたの言う通り、このままでは“それ”は出血多量で死ぬでしょう。しかし、私達に従うのならば、状況は変わってくる…。」
「…確実に助かるのか?」
「それは判りません。助かるか助からないかは“それ”の運次第ですよ。」
高坂に従えば、きっと自分だけは助かるだろう。
しかし自分だけが助かって、鴻上が死ぬなんてことは絶対にあってはならないと、拓海は強く思っていた。
口では腐れ縁などと言っていても、本心では鴻上は自分にとって大切な人間だった。
どうすればいい?
2人共助かるには…。
もしくは、最悪鴻上だけでも助かる方法を考えなくては…。
拓海は唇を薄く噛んだ。
従ったとしても、扱いからして鴻上が助かる確率はきっと低い。
ヤツらは自分を必要としているようだったし、助かるという保証がなければ従えないと、つっぱねてしまおうか?
いや、多分そう言った時点で2人共殺される。
高坂は、自分自身も生きていようがいまいが、最終的に手に入ればいいというような物言いをしていた。
2人共助かる保証も、鴻上だけが助かる保証もないのなら、いっそのこと……。
拓海の顔が一層険しくなる。
「…お前ら…、俺抜きで話…進めてんじゃねぇよ…。」
言ったのは、脂汗をかきながら顔を歪めていた鴻上だった。
息も絶え絶えに、鴻上は続ける。
「拓海…、馬鹿な事…考えてんじゃねぇぞ…。大人しくしとけ…。大丈夫だ…、俺は…これぐらいじゃ…死なねぇ…!」
「龍、お前…!」
「何年…一緒にいると思ってんだ…。顔見りゃ…、お前が何…考えてたかくらい…わかるっつーの…。それに…、お前まで…やられたら…それこそ…2人共…助かんねぇぞ……。」
死を覚悟の強行突破。
それが拓海の考えた末の結論だった。
だがそれは無謀で、殆ど自爆に近い自殺行為だった。
自分の中では冷静になって考えたつもりでいたが、やはり熱くなりきちんとした判断ができなくなっていたのだろう。
鴻上の言葉で、拓海は冷静さを取り戻せた気がした
。
「あぁ…、悪かった。龍、お前の言う通りだ。心配すんな、変な気なんて起こさねえよ。」
拓海はそう言って、鴻上に少しだけ笑いかけた。
「良い心がけです。私もできればあなたを殺したくはないですから。……着けろ。」
高坂に促され、ブレスレットを手にしていた1人が拓海に近づく。
「左手を…。」
言われた通り渋々左手を出すと、男は素早くそれを取り付けた。
それは長さ三センチ程の長方形のタグが鎖で繋がれている、どこにでもありそうな銀色のブレスレットだった。
タグの右端には、小さく“No.4”と刻まれている。
「さて、それでは行きましょう。“それ”を背負ってそちらの1人に続いて下さい。」
「おい、この腕輪は何なんだよ?」
拓海が聞くと、高坂は面倒くさそうにため息を吐いて答えた。
「とりあえず、歩き始めていただきたい…。話はそれからです。あまり時間を掛けてはいられませんから。」
「…答えになってねぇし。龍、担ぐぞ? 少しの間ガマンしろよっ…と!」
「ぅっ……。」
拓海が鴻上を背負うと、鴻上は小さく呻いた。
来た道を黒ずくめの男、拓海、高坂、黒ずくめの男という順番で一列に進む。
ちらりと後ろを見ると、高坂は未だに拓海に銃口を向けていた。
「…逃げる気なんてもうねぇよ。それ、必要ねえと思うんだケド。」
「念には念をですよ…。」
「…これから、俺らはどこへ連れてかれるんだ?」
「私達の施設です。あなたは大事な検体ですから。」
「そのさっきから言ってる検体って、どういう事だ? 要点だけじゃなく、もっと詳しく言えよ。」
「そのままの意味ですよ。輪っかに4と刻まれているのは、あなたが四番目の検体であることを意味しています。」
「何の実験だ? 確か、この国は人体実験なんて許してなかった筈だぞ…。勿論、人を簡単に撃ったり殺したりして良いなんて事もだ。」
「私達のいる場所に、法律なんてものは存在しません。人体実験と言っても、痛みを伴う様なモノは一切ないので安心してください。あなたはこれから向かう場所で、毎日を過ごしてくれさえすれば良いのです。」
「意味わかんねぇ。」
「でしょうね。私達が歩いて来たこのコースの入口に車を用意しています。後の細かい説明は、その中で…。」
それからコースの入口に戻るまで、彼らはただ無言で下った。
高坂の今の説明だけでは、自分が実験動物として何でもアリの無法地帯へ放り込まれるという事しか解らなかった。
だが、もっと解らないのはその場所での待遇だ。
普通テレビや映画等で良く見るこういったシチュエーションの場合、 実験体は酷く痛みを伴う拷問のような実験を受け続けて、悲惨な死を遂げるのがセオリーだったりする。
それがないという事は、精神的苦痛を伴う実験なのだろうか?
とにかく、もっと情報が欲しい。
何故自分なのかも謎だ。
そんな色々な考えを巡らしている間に、入口が見えてきた。
入口の脇には、一台の軽トラックが停まっている。
普通のものではなく、業者などが配送に使うようなハコが着いたものだった。
ハコの後ろ側には、直径30センチ程の楕円の窓が上部についている。
「マジかよ…。車ってあれか?」
「あれなら万が一誰かの目にふれても不自然じゃありませんから。この時間、この道を使用するのは配達の業者くらいなものです。…さ、行って下さい。」
そう言って、高坂は拓海を急かす。
軽トラックまで行くと、先頭にいた男がハコの後ろ側についていたドアを開けた。
中には両側にプラスチックでできた長椅子が置かれている。
「“それ”をおろして乗って下さい。」
「…おろさねぇ。そのまま一緒に乗る…。」
「子供ですか…? “それ”は彼等が乗せます。背負ったままなんて無理に決まっているでしょう。」
「…龍を最初に乗せろ。」
「信用ありませんね。…わかりました。……先に乗せてやれ。」
高坂はまたため息を吐いて、男2人に指示を出した。
背中からそっと鴻上を地面へ降ろす。
「……!」
鴻上を見て、拓海は絶句した。
腹からの出血が思っていたよりも酷い。
背負う前に少しあった赤みも今は全くなく、顔は一層青白くなっていた。
「おい、龍っ! 大丈夫か!? 龍っ!!」
ふうふうと苦しそうに息をする鴻上に、拓海は詰め寄った。
「……聞こえてるっ…つーの……。大丈夫…だ……。」
蚊の鳴くような声で、鴻上は答えた。
「早く連れてってくれ!! あんたらの施設に行けば、何とかなるかもしれねえんだろ!?」
焦りと鴻上が手遅れになるかもしれないという不安から、拓海の声は自然と大きくなる。
「だから、最初からそのつもりですよ…。さあ、乗って下さい。」
高坂が拓海に乗車を促している間に、男達は手際良く鴻上を左側の長椅子の奥にもたれ掛けた状態で乗せると、サッと車から降りた。
急いで鴻上の隣に拓海も乗り込むと、続いて高坂、黒ずくめの男の1人が右側の長椅子に乗り込み、「不死花は、誰が口にしても不老不死になる訳ではありません。あれは、常人には猛毒ですから。口にした9割以上の人間が、もがき苦しんで死にます。」
「まさか、不死花を鴻上にもっ……!」
「いえ。“それ”の場合はただの二日酔いです。あなた同様にしていたなら、ほぼ即死だった筈ですし。」
「……つー事は、俺はその一割未満に入るって訳か?」
「さすがに察しが早いですね。…その通りです。昔は無差別に口にさせ、検体を見つけるという手法を採っていましたが、それではあまりにリスクが大き過ぎます。今は血液を調べるだけですぐわかるんですよ。全く、便利な時代になったもんです…。」
「だから特別か…。」
「えぇ。だからあなたが選ばれたのです。…話を続けます。あなたは不老不死になった…。しかし、替わりにあなたには少しばかり制限がつくことになります。」
「……?」
拓海は高坂の話を黙って聞きながら、眉をひそめた。
「ここの標高はご存知ですか?」
「知るかよ…。」
「大体1450m程です。施設はそれよりも高い1500m以上にあります。」
「…で?」
「不死花とは不思議な植物でしてね。標高1400mよりも低い場所に持ち込んだだけで、簡単に枯れてしまうんです。不死花を体内に摂取した人間もまた然りで、あなたがもし1400mより低い場所へ行ってしまった場合、勿論あなたは死んでしまうので気をつけて下さい。大体1450mを切った辺りから胸が苦しくなるので、解るとは思いますが…。」
いくら不老不死になったとはいえ、そんな制限が付いていては意味が無いのではないかと、拓海は思った。
「あと施設に着いたらお渡ししますが、72時間以内に一度は不死花をカプセル状にした錠剤を必ず飲んで下さい。飲み忘れると、やっぱり死んでしまうので。」
「ははっ…。なんだそりゃ、ほとんど隔離じゃねえか…。やけに危なっかしい不老不死だな…。」
注意点を淡々と続ける高坂に、皮肉混じりに拓海は笑った。
「まだ何分研究段階ですから。これでも多くの犠牲を払って、ここまできたんですよ。……そろそろ着きます。」
車がスピードを落とし始める。
運転席側の小窓を見ると、観音扉式の門が見えた。
高さは 3メートル程だろうか。
所々錆びて、ペンキの白が剥げかけている。
扉の真ん中には、立ち入り禁止と書かれた丸い標識が付いていた。
車が停車すると、自動的に扉が開いた。
「…案外、手薄なんだな。」
拓海がポツリと言う。
「警備がですか? こんな山奥で、手厚くすれば逆に目立ちますから。それに、表向きはここから先は国有地ということになってますし。」
「国有地…?」
国が関与しているということだろうか。
思いがけない事実に、拓海は息を呑んだ。
「えぇ。法的、表向きにはそうなってます。まぁそんなの関係なく、あの門に触れた人間はあっという間に天国ですよ。門には象も一瞬で殺す程の電流が流れてますから。」
車はゆっくりと、また進み始めた。
門を通過したのだろう。
不死花、欠点だらけの不老不死、それにそれらを研究しているという施設。
どれもとんでもない話過ぎて、頭の中での処理が追いつかない。
だがとりあえず、今はそれよりも鴻上だ。
壁際にもたれている鴻上は息も絶え絶えで、素人目から見てもいつ死んでもおかしくはないとわかるような状態だった。
死なないでくれと何度も心の中で願いながら、拓海はただじっと鴻上を見つめる事しかできなかった。
何もできない自分が情けなくて、歯がゆさが込み上げる。
ほどなくして、車が停まった。
「…着きましたよ。」
高坂が言うと、扉が開いた。
朝日と風が扉の外から入り込んでくる。
目が少し眩んだ。
拓海は眩しそうに目を細め、光の向こう側を見ようとした。
光の向こうには2人、いや3人が立っている。
目が徐々に慣れてくる。
外にいたのは皆、黒ずくめの男だった。
「降りますよ。外にいる者に“それ”を運ばせますか? それともご自分で?」
高坂が拓海に問い掛ける。
「…俺が担ぐ。てめえらの手なんか借りねぇ……。」
再度、背中に鴻上を背負った。
背負った時、二度目は呻く事すらなく、鴻上はただただ苦しそうに大息を繰り返すだけだった。
「そうは言っても、あなただけで車から2人で降りるのは流石に無理があります。降りる時だけ補助をつけましょう。……おい!」
「いらねえっつってんだろ!!!」
高坂が外にいる男達に補助を促したが、拓海はそれを許さなかった。
憤りが、声の大きさに出てしまう。
もたつきながらも、何とか1人で車を降りた。
降りた先は、木など一つもない草原だった。
風が強く、びゅうびゅうと音を立てて草を揺らしていた。
風によって、霧は凄い速さで流されていく。
草原の向こうには白い工場のような建物が霧の隙間からぼやけて見え、拓海が立っている場所からそこまでは一つの道で繋がっていた。
道といっても人二人が並んで歩ける程の土を踏み固めた簡素なものだった。
拓海が立っているその場所もひらけてはいるがその道と同様であり、大きさは学校などにあるグラウンド程であった。
車庫らしき建物が端の方に、10棟並んでいる。
白い建物へと伸びる道の反対側に、自分達が車で来たと思しき道が続いていた。
車が通れる位の幅はあるが、やはりそれも土が踏み固められただけのものだった。
来た道は奥に行く程草の丈が長くなっているようで、そのもっと奥にはちらほら丈の短い木も見る事ができた。
その先には林が続いているのだと、容易に想像ができる。
運転席の窓から門が見えた時、周りは白樺などの細い木や腰よりも低い植物ばかりだった。
トレッキングの入口も同じだった。
朝日を見た見晴らし場に近づくにつれて、木の量はどんどん減っていったし、その周辺の植物の生え方も全く一緒だったからだ。
拓海は高坂にまた促され、白い建物へと歩みを進めた。
黒ずくめ、拓海と黒ずくめ、高坂と黒ずくめといった順番で進んだ。
どうにかしなくてはという気持ちが、拓海の足を急がせる。
風でちぎれた霧のかけらが、何度も一行をすり抜けていった。
数分歩いた後、白い建物の入口が見えてきた。
一見、それは食品や薬物加工を行う綺麗な工場のようで、二階建ての大きなものだった。
「…向こうの建物は?」
工場の奥には、それとは全く毛色の違う建物が少しだけ見えた。
白亜の壁に焦げ茶色の屋根、それにレンガで造られた煙突__。
焦げ茶色の木の窓枠が、壁の白を一層際立たせている。
白い建物から離れた場所にあるそれは、漫画などで見る金持ちの別荘のようだった。
「……あれは検体番号零番の居住地です。ここからは見えていませんが、あなたを含め一番から三番の居住地もあの奥にあります。」
「ゼロ番……。不老不死の最初の犠牲者か?」
「犠牲者とは随分ですね。可愛らしい方ですよ。私達は“姫”とお呼びしています。」
「女なのか…?」
「えぇ、後で会えますよ。では、そのまま扉の奥へどうぞ……。」
先頭を歩いていた黒ずくめが、白い建物の入口を開ける。
進むしかないと腹を決め、拓海は建物の奥へと歩みを進めた。