日課
2013年 6月
「あ、もう10時じゃん。」
なんとなく目を落とした腕時計を見て、彼女は言った。
月の始めの第一土曜日、居酒屋の個室には彼女と同年代の女子が七人ほど集っていた。
「うわ、マジじゃん。 帰んの?」
生中ジョッキを片手に、そのうちの一人が聞く。
「うん。 このトシになると、寝ないとキツイんすわ。 あ、これ今日のあたしの分ね。 足りなかったらまた言って。」
彼女は財布から五千円札を取り出すと、空のジョッキや食べかけの皿などが乱雑に並んでいるテーブルの隅にそれを置いた。
「五千円とか多いから。 お釣りはまた今度返すし。 てゆーか、あんたって前から思ってだけど、アレみたいだよね~。」
また別の女子が焼き鳥を片手に言う。
「アレ?」
首をかしげると、焼き鳥女子はつくねをひとつぱくついて続けた。
「ほらアレよ、アレ。 ホニャララD! 豆腐の配達しながら峠攻めちゃう的な。」
「あー、配達ってゆーのは合ってるけどそれ以外全然じゃん。 あたしハシリ屋じゃないし。」
「え? あんたハシリ屋なの? てゆーか、ホニャララDって何?」
焼酎ロックを飲み干して、また別の女子が彼女に聞いた。
「違うし。 毎日めちゃめちゃ安全運転だもん。 ホニャララDってのはハシリ屋が主人公の漫画だよ。」
「ふぅん。あたし、漫画読まないからよくわかんないや~。 あ! ピンポン押してよ、たんたかたんロックおかわり~。
」
「ところでちょっと気になったんだけど、ハシリ屋ってまだいるのかね?」
また別の女子が、枝豆を片手に聞く。
「はい! 今の発言は頑張ってるハシリ屋さんに対して失礼だと思いまーす。謝ってくださーい!」
「そーだ、そーだ! ついでにここにいる全員に生中おごれ~!」
焼き鳥女子と焼酎女子がキャッキャとはやしたてる。
「いやいや、全員に生中とか意味わかんないから。 あ、次ワインのーもうっと。」
女子達のゆるいトークは続く。
このゆるさに混ざってしまうと、帰宅がまた一時間ほど遅くなってしまう。
「それじゃ、あたしはお先に失礼しますよ~っと。 来月も、第一土曜日にココで良いんだよね?」
「そうそう、7時に養老。」
「オッケ~。 じゃ、またね~。」
彼女は自分の鞄を持って来月の予定を確認すると、ほろ酔いでニヤニヤしている女子達に別れを告げて、居酒屋を後にした。
今月も楽しかった。
彼女は毎月同じ居酒屋、同じメンバーで飲み会を行っていた。
俗に言う、女子会だ。
毎回、自分の話したいことをダラダラ飲みながらユルく話す会。
話題は仕事のグチだったり、最近行った合コンについてだったり、三十路を手前にしてはたして自分達は結婚する事ができるかなど様々だった。
家へと向かう車の中で今日の話題を思い出すと、内容がくだらなすぎてそれだけで顔が緩む。
家に着いたら、シャワーを浴びてすぐに寝ちゃお。
明日も朝早くから、配達が待っている。
いつもは9時頃眠りについてしまうのだが、第一土曜日は特別だった。
彼女は口から出るあくびを数えながら、家路を急いだ。
*****
まだ暗い朝方。
いつものように、ケータイが唄う大音量で目を覚ました。
音楽を止めて、ダルイ寝起きの体をゆっくりと起こす。
やっぱ夜更かしすると、次の日ちょっとしんどい…。
「…トシなのかねー、ヤダヤダ…。」
ため息混じりに呟いて、ベッドから降りる。
あくびを2つ3つしながら着替えを済ませると、ケータイと寝間着にしていたショートパンツとTシャツを持って部屋を出た。
一階へ降りて、洗面所に直行する。
洗濯機に寝間着を放り込むと、顔を洗ってベースメイクを施した。
さて、次は腹ごしらえ。
キッチンに向かい、食パンをトースターに2枚セットする。
「おはよー。」
キッチン兼居間の向こうのガラス戸を開けると、いつも通り香ばしい油の匂いが鼻を掠めた。
彼女の声に振り返ったのは、彼女の父と母だった。
「あら、良く起きられたじゃない」
母は油の中から揚げたてホヤホヤの厚揚げをテキパキと取り出しながら言った。
「まーね。」
「ホレ、今日の配達予定の伝票。モノは車に積んでおいたからな。」
「はいはい、さんきゅー。」
父から伝票入りのクリアケースを受け取って中身を確認していると、キッチンからチーンと音がした。
パンが焼けた合図だ。
キッチンに戻ってトーストを頬ばり、洗面所で歯を磨いて準備は万端。
ジーンズのポケットに財布とケータイが入っている事を確認して、クリアケースを手に外へ出た。
「気を付けて行って来いよ。」
「判ってるって。安全第一、時間は厳守ってね。」
そう言って軽ワゴンに乗り込むと、彼女は父に見送られて車を走らせた。
窓を少し開けて、外の風を入れた。
朝のヒンヤリした澄んだ空気が頬を掠める。
涼しいし目も覚めるし、一石二鳥だ。
スピーカーからはくるり。
彼女はそれを口ずさみながら、高原へと車を走らせた。
彼女の家は、豆腐店を営んでいた。
家族経営の小さな店だったが、味の評判も良く、最近では旅行雑誌に取り上げられたことなどもあって、それなりに繁盛していた。
彼女の朝は、豆腐の配達から始まる。
日の出前に、近隣のいくつかのホテルや旅館などへ出来たての豆腐を届けるのだ。
住む町が避暑地にあるためホテルや旅館、ペンションなどが多く、スーパーなどへ卸すよりもそちらへ卸す方が多かったりする。
だいたい高原へ向かう山道を登りながら、途中途中にある宿泊施設に品物を配達していく。
最初は木々が鬱蒼としていた周りの風景も、 品物が少なくなる程にだんだん木々も減っていき、配達が終了する頃には木なんて一本もない草原が現れるのだ。
そこまで来る頃には空も白んで、朝日が顔を出し始める。
今日は晴れたから霧も少ないし、ラッキーかも。
彼女はウインカーを出すと、車が1台もないだだっ広い駐車場にそれを停めた。
助手席にあったダウンを羽織って外へ出る。
6月の早朝とは思えない冷気が肌に触れ、風がヒュッヒュッと音を立てて、綿飴から塊を剥がしたような少量の霧を流していった。
まるで、雲の中にいるような錯覚に毎回陥ってしまう。
彼女は風が流す霧を何度もすり抜けながら、まだ開いてもいないドライブインの自販機でホットミルクティーを購入した。
ドライブインに併設されている展望台へ向かう。
晴れた日は必ずそこに立ち寄って、少しの間ぼーっと景色を眺めるのが彼女の日課になっていた。
お供は、毎回同じミルクティー。
霧が濃くて何も見えない日や、雨の日などはミルクティーを購入して、そのまま車の中で一息というのが常だった。
天使でも出てきそうな風景。
草原が広がる先の霞がかった霧の向こう側は、天国と繋がってるのではないかと妄想させてしまうほど幻想的で素敵に思えた。
彼女は気候と天候が変わりやすく、その度に違う顔を見せるこの場所が大好きだった。
「…さて、そろそろ行きますか。」
ミルクティーを一口飲んで、車に戻る。
ここからは今まで上りのみだった山道が、だんだんと緩やかな下り道になる。
草原に木々がポツポツと混ざりはじめ、ふもとに着く頃には森や林のオンパレードになるのだ。
余程の悪天候でない限り、これが彼女の1日の始まりだった。
あとは家に戻って店番をしながら、今日の掃除や明日の準備をして1日を過ごす。
この生活がこれからも続いていくのだろうと、この時の彼女は当たり前に思っていた──。