♯7 知らない感情
「お前は何をしている」
振り向くと、眉間に皺を寄せて難しい顔をした蒼市が立っていた。驚いたものの、一瞬で冷静さを取り戻した百合は、その顔に妖艶な笑みを浮かべる。
「散歩ですわ。蒼市さまもご一緒にどうかしら?」
「馬鹿を言え。最近、屋敷を抜け出していたことは知っている。そんな格好までして護衛も付けず、一体どこへいく気だ」
蒼市は、疲れたように大きく溜息を吐いた。
「あら、知っていらっしゃったのね。わたくしのことなど一切興味がないと思っていましたので、何だか嬉しいですわ」
「お前はっ」
長い髪を風になびかせて近づいた百合は、蒼市の口の前で人差し指を立てた。
「静かになさって。わたくしは今、具合が悪くて寝込んでいることになっていますの。竜門家の使用人にでも見られたら大変だわ」
そして、蒼市の右手をぎゅっと掴んだ。
「最近お疲れになっていたでしょう?蒼市さまも一緒に、散歩へ行きましょうよ。きっとお気に召されるはずだわ」
蒼市は、百合に無理やり連れられて、簡素な薄いドアの前に立っていた。名門である竜門家を背負っている身でありながら、なんだかそわそわして落ち着かない。幾度となく貴族たちの豪華な邸宅の門をくぐったことはあったが、こんなボロくて小屋のような家に入ったことは無いし、そもそもこんな寂れた街に足を踏み入れたことすら無かった。自分が身につけている特注のスーツが、ひどく不釣り合いで仕方ない。
「ここは、わたくしの第二の家です」
百合が隣で、珍しく何の含みもない美しい笑顔で蒼市を見つめていた。そして、ドンドンと大きくドアを鳴らす。
「あれ、誰もいないのかしら」
しばらくして、家の中から足音が聞こえドアがゆっくりと開かれた。
「久しぶり、玲司兄さん! 」
百合が、子供みたく嬉しそうにはしゃいでいる。普段、そんな表情は決して見せることはない。竜門家でも、凛として誇り高く自由でいながら、しかし本当は鎖で縛られた百合の、大切な場所なんだな、と蒼市は思っていた。
「……百合、いらっしゃい」
中から出てきたのは、自分と同じくらいの歳の、長身で痩せた男だった。色が白いというより、全体の色素が薄く、雰囲気全体が脆くて儚い感じがした。
「蒼市さま、こちらはわたくしの兄も同然の玲司さんですわ。玲司兄さん、この方が竜門家時期当主の蒼市さまよ」
「竜門っ‼︎?」
玲司と紹介された男は、端正な顔に驚きの色を浮かべ、急に咳き込んだ。どうやら、身体があまり丈夫ではないらしい。
百合がすぐに彼の身体を支える。
「兄さん、体調悪いのね。もしかして寝てた?そんな時におしかけてごめんなさい。ベッドへ行きましょう」
玲司を支えながら部屋の奥に進む百合の姿を、蒼市はなんとも形容しずらい感情をおぼえながら見つめていた。
「百合、俺は帰る。片付けなければならない書類がたまっている。お前も、明日は夜会があるのだからすぐに帰ってこい」
蒼市は踵を返し、返事も聞かずに家を出た。
心を冷たい風が通り抜けるような、それでいて熱い炎がたぎるような、不思議で計り知れない感覚に、蒼市自身面食らっていた。
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