♯1 百合と玲司
大きな物語の前身となる、小さくて、でも決意や想いが詰まった物語です。
「玲司兄さん」
玄関のチャイムもそこそこに、百合は急いで薄いドアを開け家の中へ入った。リビングというには狭い部屋をドタバタと走り抜け、寝室の扉を開ける。すぐに、目当ての人物と目があった。
「こら、百合。ろくにチャイムも鳴らさずに」
「凄い話なのよ!」
玲司兄さんと呼ばれた青年は、ベッドから起こした身体を大げさに竦めて溜息をついた。
「あっ、ごめんなさい。でもね、本当に本当に凄いの!」
百合は一瞬申し訳なさそうな表情になったが、すぐに元の明るい笑顔になり、玲司が半身を起こしているベッドに飛び乗った。
「兄さん、今日は元気そうね。体調はどう?」
180度変わった話題に、玲司は苦笑しながらも答える。
「ああ。すごくいいよ」
百合は、そう言って頷いた彼の顔を見つめた。
線が細くて、具合の悪い日なんか抜けたように白い肌が、今日はちゃんと血が通っているとわかる。心配をかけさせまいと玲司はよく強がるけれど、確かに元気な証拠だった。
百合は、孤児である自分に対しても優しくて、本当のきょうだいみたいに慕わせてくれて、身体が弱いけれど、2歳年上で、面倒見が良い彼のことが好きだった。一緒にいると、晴れた日に木の下でする昼寝みたいに心地良い。
「で、百合、話ってなんなんだ?」
「あ、そうそう!私ね、倉羽家の養子になることになったの!」
玲司は、大きく目を開けて聞き返した。
「倉羽って、あの倉羽か?」
「ええ、あの倉羽よ」
百合は得意げな顔で胸を張った。
倉羽家とは、この絶対的な階層社会のなかで高い山の頂上近くに位置するほどの名家中の名家だ。厳しい独裁政治を敷いている花折家とも交流のある、下層にいる庶民には、全く縁の無いはずの家。
「数週間前に、質の良さそうなスーツを着た男が、私のいる孤児院へやってきて、院内の女の子を全員集めたの。一人一人吟味しているみたいだったわ。そして、今日の朝、院長が私を呼んだのよ。来月から、あなたは倉羽の子になるのよって」
「えっ、いや、待てよ。頭の整理がつかないんだが」
百合は、目をパチクリしている玲司を横目に、腕を組んでニヤリと笑った。
「倉羽には確か女の子が産まれていないはずよ。それだと、本当に頂上に君臨している家と繋がることはできない。そこで、類稀な美貌を持った女の子を養子にして、時期が来たら嫁がせそうってことじゃないかしら」
「お前……自分のこと類稀な美貌とかって言うか普通」
「私は正直なだけよ」
確かに、百合は美しかった。小さな顔に、切れ長の瞳、通った鼻、紅を塗ったような赤い唇に似合う腰までの綺麗な黒髪。15の今でさえ、大人になったら恐ろしい子になると思えるほどの片鱗を見せている。その上、聡明だ。他人の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭で考える強さと、先を見据える慧眼、そして他人を思いやれる優しさを持つ。
「親に感謝することっていったら、私をこんな顔に産んでくれたことと、私を捨ててくれたことかしらね。だって、捨てなかったら私が養子になることなんて無かったわけだし」
百合は、含みのない明るい声で笑った。しかし、それが逆に、玲司の胸を締め付ける。
「百合……っ」
玲司が、軽くむせた。それを皮切りに、連続的に咳が出る。
「お湯、沸かしてくるわ」
そう言って、百合は急いで台所へ向かった。
咳の合間にどうにか白湯を口に含み、やっと落ち着いてきた玲司を、百合は無理やりベッドへ横たわらせた。まだ、苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。
百合は、汗で張り付いた玲司の髪を撫で、ゆっくりと息を吸った。
「……私が、変えてみせるわ。この下らないクソみたいな世の中を変えてやる」
彼女の瞳が、強い光を宿して輝いた。
「私、倉羽の養子になって、もっと権力のある家へ嫁いで、そして変えるのよ。ふふっ、私の考えていた人生設計が、本物になりつつあるわ」
「百合……そんなことまで……考えてたのか」
思わず苦笑してしまう。しかし、百合は本気で考えているのだ。
全てが、どこに生まれ落ちたかによって決まってしまう、何をするしても、まず家柄を重視される、どうしようもなく窮屈で厳しい世の中を、本気で変えようとしているのだ。
「まず、薬や治療するための値段が高すぎるわ。それって、貧乏人は苦しんで死ねって言っているようなものよ。あとは、孤児院を公共で作るべきよ。今は慈善家が私的に作った院しか無いし、食事なんて酷いもんよ。味がうっすいし少ないし」
百合が綺麗な顔をひどく歪めて話すものだから、可笑しくて笑ってしまう。
「百合、無理するなよ」
呟いた。
「無理してるのはいつも兄さんの方。体調が悪い時は、遠慮せずに人を頼って」
いつも、人の目を真っ直ぐに見つめる百合の瞳が、揺らいだ。
「来週の早朝、倉羽の人が迎えに来るわ。当分会えなくなるかもしれないけれど、まあ、私のことよ、元気にしているわ。だから、兄さんも元気でいて」
秋の終わりが近づいた、穏やかな日だった。