外伝 第五ゲーム 『ラビリンス』 その3
拓哉はコンソールを操作し、画面に迷宮の様子を表示させた。
背後の地下迷宮へと続く階段には複数の人の気配が漂っている。
なるほど、迷宮を進んでいるのは神原幹雄の部下たちか。神原幹雄自身は階段を降りた先で待機している。
その読みは正しい。この迷宮に出口など存在しない。密閉された空間だからこそ、毒ガスは効力を発揮するのだ。風の通る場所で毒ガスなど、どれほどの効果があるというのか。
階下のホールは今では閑散としていた。逃げる際に転倒し、踏みつぶされたか、数人の死体が転がっているだけだ。
階下に開いた迷路はただの迷路だ。ちゃんと出口も用意してある。観客たちのことも忌々しく思ってはいたが、彼らまで殺すつもりはない。あくまで自分の目的は神原幹雄の命のみだ。
彼を殺すためだけに生きてきた。そのために多くの血で手を汚してきた。
だがそれももう終わる。彼はここで死ぬ。
神原幹雄は一つ勘違いをしていた。彼は拓哉が脱出する術を用意していると踏んでいるようだが、そんなものはなかった。このゲームが始まった時点で自分も彼も逃れようもなく死ぬ運命にある。
「いつまで待っていても、無駄なことだ」
拓哉は椅子に深くもたれかかると、天井を仰いだ。死までの残り時間はあとどれぐらいか。最後に純也の顔を直接見られたことは嬉しかった。彼は拓哉にとって、生きがいだったのだ。
暴力と死が配する施設での暮らし。あの子供たちだけの王国で生き抜くために、拓哉は何度も手を汚してきた。他人の食べ物を奪ったこともあれば、人も殺したこともある。しかし純也の手だけは決して汚させなかった。
唯一残された家族を守りたいという思いがあった。しかしそれ以上に、穢れのない純也を守るために自分は手を汚している。そう自分に言い訳することで、罪の意識から逃れていたのかもしれない。
純也はまっすぐに育った。彼の正義感の強さは、拓哉には誇らしい。
しかしだからこそ、こうして自分と対立することになってしまった。そのことに拓哉は胸の痛みを感じた。
もし違う道を選んでいれば、純也は自分の隣にいてくれたのだろうか。二人で共に生きていく道はあったのだろうか。
「何を今更……」
拓哉は下らぬ妄想を一笑で切り捨てると、首を動かしてコンソールルームを見回した。誰もいない。一人きりだった。これが現実なのだ。
しかし妙な解放感があった。全てのしがらみから解放されたかのような清々しい気持ちだった。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ。
「玲子……」
拓哉は一人の女性の名を呟き、携帯電話へと視線を落とした。
拓哉の秘書だった女性。そして拓哉が唯一心を許した女性。
玲子と出会ったのは、拓哉が神原幹雄の元に引き取られて一年ほど経った頃だった。
当時の拓哉は、独自にあの児童養護施設のことを調査していた。それにより、あの施設が神原幹雄により作られ、運営されていることを知った。それを知ったときに感じた怒りはいまだに強く心に刻まれている。
せめてもの復讐がしたかったのか。もしくは自分のような境遇にいる子供たちに同情したのか。
気が付くと、拓哉は玲子を自分の部下として育てるために、施設から引き取っていた。
誰でも良かった。たまたまそれが玲子だったのだ。
玲子の施設でのランクは弱者だった。強者の子供に淘汰され、死んで行くカースト層。
玲子は心を閉ざし、何の言葉も発さない人形のようでもあった。拓哉が引き取ったときも、ひどい栄養失調と疲労に、彼女は瀕死の有様だった。
拓哉は玲子の体力が回復したのを見計らい、自分の秘書となるよう教育を施した。
素養はあったのだろう。彼女は次々と仕事を覚え、優秀な秘書として拓哉に仕えるようになった。
いつしか彼女は自分に心を開いてくれ、慕ってくれるようになった。
拓哉にはそれはどこかくすぐったく、そして嬉しく感じられた。こんな自分にもまだ人としての感情が残っていたのかと驚いたぐらいだ。
やがて彼女とは上司と部下という関係から男女の関係へと変わっていった。
傷の舐め合いがしたかったのかもしれない。愛に飢えていたのかもしれない。
それは玲子も同じだったのか。彼女は自分を受け入れてくれた。そして自分もまた彼女を受け入れた。
「玲子は、逃げられただろうか」
ブレインキラーの調整役という危険な役目にも、貴方の役に立ちたいからと笑顔で引き受けてくれた玲子。ジャッジが終わり、玲子は事前の打ち合わせ通り、『ラビリンス』を起動させた。
そう、拓哉の協力者とは玲子のことだった。
彼女は今どうしているだろうか。無事に、この施設から脱出出来ただろうか。
電話をかけたい欲求に駆られたが、拓哉は携帯を壁へと投げつけた。
これ以上彼女を縛るわけにはいかない。玲子には自由に生きて欲しい。自分や、過去に囚われることなく、自由に。
残り時間はどれほどか。一時間か、三十分か。
だが、そんなことはどうでもいい。今はただ、この心地よい解放感に身を委ねていたかった。
もうすぐ全てが終わるのだから。