外伝 第五ゲーム 『ラビリンス』 その1
階下は怒号に包まれていた。観客たちは突然の事態に困惑し、逃げ場を求めて走り回っている。
周りは闇に包まれている。天井に設置された赤いランプの点滅する光だけが、この空間を照らす唯一の光源だ。
「貴様……何をした」
目前には、艶やかな黒の紋付袴を羽織った一人の老人の姿。
豊かに生えそろった白髪を後ろに流し、鬚をきっちりと剃り落としている姿は精悍でいて清潔な雰囲気を放っている。彼の意思の強さを体現するかのように太い眉。目は細い。しかしその瞳から放たれる光は老体であるにも関わらず強い。対峙する者は皆その瞳に威圧され動けなくなってしまうという。顔も細く、しかし痩せているというわけではなく、カミソリの刃、または抜身の日本刀のような鋭い印象を見る者に与えてくる。
神原グループ総帥、神原幹雄。それが老人の名だった。
彼の企業グループが急成長したのも、すべて彼の手腕によるところが多い。彼のその傲慢とまで言われる経営手腕は多くの利益と共に、敵も作った。しかし日本に不動の杭を打ち込み、今や政治や警察、果てには政府にまで強い発言権を持つに至った彼に、楯突こうとする者など最早いやしない。
そう、本当なら、彼に逆らおうとする者などいないのだ。
「ゲームですよ」
拓哉は笑う。ついにこの日が来たのだと。
ずっと待ち望んでいた日。それがついに訪れた。
「ゲーム、だと?」
神原幹雄は動じない。周りがどれだけ騒ごうと、一顧だにしない。その顔に余裕の色さえ浮かばせ、階下の光景を見下ろしている。
だが、それでいい。拓哉が倒したいのは、そんな彼なのだ。他者を顧みない、傲慢な王。
彼を殺すことだけを目的に、拓哉は生きていたのだから。
「ええ、貴方を殺すためのゲームです」
『やぁ、僕は妖精。今からゲームのルール説明をするね』
拓哉の言葉に反応したかのように、スピーカーから機械合成された無機質な声が響き渡る。
「これが本当のブレインキラーです。少ない時間ではありますが、楽しんでいってください」
「貴様っ」
拓哉を取り巻く男の一人がついに発砲する。
「あぐっ」
足を撃ち抜かれ、拓哉は堪らず倒れ込む。
痛い痛い痛い。あまりの激痛に思考が真っ白になる。口からは荒い息が漏れる。
「止せ、まだ殺すな」
第二の発砲をしようとしていた男を、神原幹雄は手で制した。
『妖精の領土に踏み入ってきた人間たちを駆逐するために、妖精王は毒ガスを撒くつもりだよ。これは人間にしか効果がない特別性。それをこの森に一斉に撒き散らすのさ』
放送は階下にも聞こえている。これ以上ないというほどの狂乱。倒れた者は後から続く者に踏みつぶされ、死んで行く。誰もが目を剥き、口から泡を飛ばしながら、出口を求めて暴れまわっていた。
『君たちが助かる方法はただ一つ。この地下迷宮を抜けて、地上世界へと出ること。間に合わなければ、毒ガスで死んじゃうよ』
毒ガスの噴霧による死。それを避けるためには地下迷宮を抜けなければならない。それが第五ゲーム『ラビリンス』だ。
『毒ガスが撒き散らされるまで、あと二時間ってとこかな。それじゃあ、頑張ってね』
ぶつりと放送が切れる。場は静寂。
銃を四方八方から突き付けられた拓哉は、その額に脂汗を浮かばせながらも、なんとか口元に笑みを作る。
「本当か?」
「ここまで来て、冗談でしたと言うとでも? エイプリルフールにはまだ早いですよ」
「なるほどな」
喉でくつくつと笑い、神原幹雄はコンソールルームを見回した。
「迷宮とやらはどこに?」
「今、開けますよ」
拓哉はパソコンを操作する。それに合わせて、壁の一部がスライドし、地下へと続く階段が姿を見せた。階段は階下にも出現しているはずだ。観客たちが押し合いながら階段に殺到するのが見えた。
拓哉はなんとか椅子に座ると、大きく息を吐いた。
「こいつに道案内をさせましょう!」
男の一人が拓哉を立たせようとする。
「いや、放っておけ。そいつはここで死ぬ気だ。出口など教えはせんよ」
「ははっ、確かに。私はここで貴方の死ぬ様を見届けながら、死んでいくとしましょう」
拓哉は本気でそう思っていた。もうゲームは始まったのだ。このデスゲームは止まらない。唯一の生存方法は制限時間内に地上へと出ることだ。
「ほら、早く行ったらどうですか? 時間はそれほどありませんよ」
制限時間は二時間。それが過ぎれば、この施設全体に毒ガスが噴霧される。
「幹雄様!」
「…………貴様の最後のお遊びに付き合ってやろう。貴様はそこで犬死しているがよい」
「さてさて、貴方にこのゲームがクリアー出来ますかな?」
拓哉は最後に怨敵の顔を見やる。
神原幹雄もまた彼を見つめ返す。
視線が交差したのは一瞬。踵を返した神原幹雄は階段を下りていく。それに続く男たち。
「それでは、義父さん。向こうで会いましょう」
拓哉は小さくそう呟き、目を閉じた。