第四ゲーム 『ジャッジ』 その6
アナウンスが切れると同時に、部屋に入ってきた若い女性は部屋の中央を仕切るガラスの一部をスライドさせ、美耶子に鍵を手渡してきた。
女性は黒く艶やかな髪を肩口でしっかりと切りそろえ、表情を隠すようにサングラスをしている。紺のスーツをきっちり着こなし、背筋を伸ばして椅子に座るその姿は、キャリアウーマンといったところか。冷たく、厳しい雰囲気がひしひしとガラスの向こうから伝わってくる。
「こちらの鍵でその机の一番上の引き出しをお開け下さい」
女性は事務的な口調でそう言うのみで、美耶子が色々質問をしても答えてくれる様子はなかった。
純也たちも今頃は自分と同じように、こうして鍵を手渡されているのだろうか。
美耶子は鍵を開け、一番上の引き出しを開けた。
中には一通の封筒が入っており、美耶子はそれを手に取ってみた。中には何か書類が入ってるようだ。
「そちらを開封してください。あなたの知りたがっているすべての答えがそちらには記載されています」
知りたがっていること。
このゲームは何なのか。どうして自分はこんなところに連れてこられたのか。そして欠損している過去の記憶。
「……これは信用できるんですか?」
仮にここに美耶子の知りたい真実が書かれていたとして、それを誰が真実だと証明出来るのか。嘘の情報を与えられる可能性もゼロではないのだ。そしてそれを美耶子が判断することは不可能に近い。
女性は表情を変えることなく、
「ご安心ください。こちらに用意されているものは、すべてが嘘偽りのない真実です。たとえあなたが否定したとしても、その事実は変わりありません」
妙な言い方だった。
ここには真実があると言い、その口調からはまるで美耶子が真実を知ることを拒否すると断言しているかのようだ。
美耶子は恐る恐る封筒の中身を取り出した。
中には二枚の書類が入っていた。
一枚目には自身のプロフィールと共に、家族関係や交友関係などが書かれている。この書類によれば、美耶子の家庭はそこそこに裕福な暮らしを送っていたようだった。父は銀行員で母はパートとして都内の社員食堂で働いている。家族関係は良好。学校でも友達は数多く存在していたようだ。
二枚目をめくる。
「あ……」
まるで時が止まったかのような錯覚に陥った。
二枚目の書類には、ある事件の顛末が書かれている。その中の一文に、美耶子は目を釘付けにされた。
『桜宮高校一年二組、田村良子が自殺』
田村良子。そうだ、自分はその名前を知っている。
そして……そしてっ!
「あ……あぁ……」
全身から血の気が引いていく。書類を取り落とし、力の入らない震えた手で自分の頭を抱きかかえる。
「ち、ちが……私じゃ……」
歯の根がかみ合わず、かちかちと音を立てる。耳の奥で、自分を責め立てる様々な声が木霊する。ある者は涙声で叫び、ある者は怒鳴り声を上げる。またこちらを嘲笑うかのように笑っていた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
座っていることも出来ず、その場にしゃがみこみ、耳を塞ぐ。
しかし、美耶子を責め立てる声は止むことなく、次第にそのボリュームを上げていく。
お前が殺したんだ! お前のせいで死んだんだ! お前のせいで会社が! あなたのせいで、近所に!
いつしかその中には父母の声も混じり、みんなで美耶子を一斉に責め立て続ける。
「止めて……もう止めてえぇぇぇぇぇぇっ」
思わず美耶子は叫んでいた。
そうだ。思い出した。すべてを思い出した。
忘れていた――忘れてしまいたいと願っていた記憶。
そのすべてを、美耶子は思い出した。
美耶子のクラスでは苛められている生徒が一人いた。どの学校にも一人は苛められている生徒、または疎まれている生徒というのが存在する。田村良子もまたそういう中の一人だった。
彼女が何故苛められるようになったのか、その理由を美耶子は知らない。しかしいつからか公然と彼女に対する嫌がらせが横行するようになった。
それらの行為について、彼女が何か反応を返していれば……また違った結末になったのかもしれないが、彼女は黙秘することを選んだ。
何をされても反応しない、その姿は生徒たちの嗜虐心に火をつける。次第にエスカレートしていく苛め。先生も見て見ぬふりをしていた。関わることを恐れているのだ。
こうして、美耶子のクラスは田村良子をクラスの異物として、敵として、扱うことで結束を固めていった。
当然、美耶子も彼女の苛められている現場を何度も目撃していた。可哀そうだと思った。止めてあげてと言いたかった。しかし彼女を庇うことで、自分もクラスの輪から外れてしまうことを恐れてしまった。
そして、いつしか美耶子自身は見て見ぬふりをするようになった。彼女は何も言わない。助けを求めることもしない。ならば、自分が何かをする必要はない。だって、彼女は嫌だとも、止めてくれだとも、何も言いやしないのだから。
美耶子は苛めに関わることはしなかったが、かといって何もしなかった。自分は彼女を苛めていない。そう言い聞かせることで、心の平穏を保とうとしたのだ。
そうしている内に、学校は二学期を迎えていた。
田村良子は変わらず、学校に登校していた。そして再び彼女への苛めが始まった。
それから数日後。
いつものように登校した田村良子は、昼休みに入ると教室を出て行った。
常に教室にいる彼女にしては珍しい行動だった。教室に居づらくなったのだろうか。いっそのこと、学校に来なければいいのに。そうすれば苛められずに済むだろうし、自分も嫌な思いをする必要がなくなるのに。そんなことを考えていた矢先だった。階下が騒がしくなり、先生が慌てて廊下を走っていくのが見えた。嫌な予感がした。何か良くないことが起きたんだと直感した。
そして教室へとやって来た先生は、生徒たちに告げた。田村良子が学校の屋上からその身を投げ出したことを。
当然、学校は大騒ぎとなった。彼女が書いたとされる遺書には苛め問題についても書かれていたらしく、年々増加する自殺問題がニュースに取り上げられている昨今だ。怒涛のごとくマスコミが殺到した。
先生はクラスメイトから事情を聴きだそうとしたが、皆が口を噤んだ。それもそのはずだ。誰かがリーダーとなって苛めていたわけではない。クラス全体で彼女を苛めていたのだ。誰もが加害者であり、その加害者に誰が苛めていたのかなどと問うたところで、誰もが正直に答えるはずなどないのだ。
だが一人がぽつりと言った。
佐古下美耶子が苛めていた、と。それを聞いたときのクラスメイトたちの表情は、美耶子にこれ以上ない恐怖を与えた。
一人、また一人と、美耶子が彼女を苛めていたと言い始めた。美耶子は彼らのスケープゴートにされたのだ。クラスの中で唯一苛め問題に関知してこなかった美耶子を、クラスメイトたちは恐れた。彼女が真実を言ってしまうかもしれない。自分たちの罪を暴露するかもしれない。
そして彼らは美耶子にその罪をかぶせることを選んだ。いくら美耶子が否定したところで、被害者である田村良子は既にこの世になく、クラスメイトの全員が美耶子が苛めていたと口裏を揃えている。
美耶子の発言など誰も信じてはくれなかった。
だが、そこで事件は終わりはしなかった。
校門に押しかけていたマスコミに、クラスメイトは美耶子が苛めていたと説明したのだ。
これにより、名前は伏せられたが、ニュースにも大々的にこの事件が取り上げられることとなり、それは瞬く間に校外へと広まった。
美耶子は両親に責められ続けた。何故、こんなことをしたのかと。
自分は何もしていない。いくらそう説明したところで、両親は耳を貸すことはなく。
学校に行くことさえ出来なくなり、美耶子は部屋に閉じこもるようになった。
階下では両親の言い争う声。家の前にはマスコミの人間がカメラを持って待機している。
明かりを消し、カーテンを閉め切った部屋は、昼間だというのに真っ暗だ。
両親の言い争う声はいまだに続いている。
お前の育て方が悪いからだ! なんでも人のせいにしないで!
ついにはガラスの割れる音まで聞こえ始める。
もう嫌だ……こんなのはもう嫌だ。
消えてしまいたい。自分のことなど誰も知らないようなところに、消えてしまいたい。
しかし、まだ学生である自分にはそんな力などどこにもなく。
絶望と恐怖の中で、息を殺して生き続けることしか出来なかった。
いつからか美耶子はネットでとあるサイトを見つけた。
それは奇しくも、両親が離婚することを美耶子に告げた日と同じだった。
両親は美耶子にどちらについて行きたいかを選べと言ってきた。
しかし彼らの心が美耶子には分かってしまう。階下の言い争いを毎日聞き続けてきた自分だからこそ分かってしまう。彼らは美耶子を引き取ることが嫌なのだ。だから美耶子自身に決めてもらおうとした。
このとき、美耶子の中に残っていた最後の希望が消え失せた。友達はいなくなった。そしてついには両親までもが自分をいらないと認めたのだ。
その瞬間、この世界のどこにも美耶子の居場所は存在しなくなった。
美耶子は一日考えさせてほしいと告げ、部屋に戻ると、再びそのサイトへアクセスした。
『自殺予防幇助の会』
そこにある、死にたいかという選択を何百と肯定し続けた先に見つかるサイト。
死のうと思った。しかしどうやって死ねばいいのだろうか。首つり、飛び降り。考え付く、様々な方法は苦痛を伴う。苦しいのは嫌だ。一人で死ぬのは、もっと嫌だ。
そんな美耶子の心に、このサイトは悪魔の囁きを返してきた。
こちらには自殺の手助けをする準備があること。あなた一人ではなく、あなたと同じ気持ちの仲間が大勢いること。お金はかからず、必要なフォームに記入し、送信するだけでいいという。
ただの悪戯なのかもしれない。しかし美耶子は気が付けば、フォームにすべてを記入し、送信ボタンを押していた。
悪戯でもいい。なんでもいいから、自分をこの世界から消し去ってほしい。
ただ、それだけを願い、美耶子はいつしか眠りに落ちた。
起きたとき、既に時刻は深夜となっていた。
携帯にはメールが一件。広告メールだろう、そう思いながらメールボックスを開いた美耶子は送り先の名前を見て、思わず飛び起きた。
『自殺幇助の会』
それは裏サイトからの連絡だったのだ。
悪戯だと思っていた。まさかあれは本物だったのか。もし、このサイトが本物なのだとしたら、自分は死ねるのだろうか。
そのとき美耶子の心に芽生えたのは恐怖ではなく、安堵だった。
メールには翌日、既定の場所まで一人で来るよう書かれてあった。それはここからそう離れていない場所だ。
美耶子は荷物をまとめ、しかしこれから死に行く自分に荷物など必要ないと思い直し、財布だけを持って家を飛び出した。
それが佐古下美耶子の真実。忘れていた記憶だった。