第二ゲーム 『フラッグ』 その5
「う……ん」
美耶子はゆっくりと目を開けた。
美耶子がいるのは、どうやらどこかの部屋のベッドの上のようだった。
「そうだ……私、落ちて……」
天井を見上げるが、どこにも穴はなく、どうやら美耶子と純也が落ちた後、穴は閉じてしまったようだ。
「あっ、三笠さん!」
美耶子は飛び起きるようにして、ベッドから降りた。
美耶子を助けようとして一緒に落とし穴に落ちた純也のことを思い出したのだ。
部屋の中を見回すが、部屋の中に純也の姿はなかった。
「三笠さん?」
途端に不安な気持ちが美耶子の心を覆いつくす。
純也の身に何か起きたのか。
だとすれば自分のせいだ。
美耶子はぎゅっと唇をかみ締めた。
「どうしよう……」
とりあえず部屋から出るべきだろうか?
もしかしたら純也とは別の場所に落ちたのかもしれないし、庄之助や玲子たちとどこかで再会できるかもしれない。
しかし美耶子は一人だった。今までのように誰かに付き従っていればいいというわけにはいかないのだ。
もしまたトラップがあったら?
それが命を奪うような危険なものだったら?
そう考えると、美耶子はこの部屋から出ることが恐ろしく思え、一歩も動けなくなった。
不安に震える美耶子の耳に、誰かが歩いてくる音が聞こえてくる。
こつ、こつ、こつ。
ゆっくりと、でも確実に自分のいる部屋に近づいてくる。
美耶子は後ずさり、壁に背中を預けながらドアの向こうを凝視する。
こつ、こつ……こつ。
やがて足音がドアの向こうで止まった。誰かが美耶子のいる部屋の前に立っているのだ。
ごくりと、唾を呑み込む音がやけに大きく聞こえた。
誰?
そう声をかけたくなるのを、必死に堪える。
純也や玲子たちが探しに来たのかもしれない。
しかし美耶子の脳裏に二人の男の顔が浮かんだ。
田嶋と間宮の二人だ。田嶋の舐めるように自分を見つめる視線、そして間宮の下卑た笑み。それらを思い出すと、ぞっと美耶子の肌に粟が立った。
(どこかへ行って!)
美耶子は心の中でそう叫び続ける。
しかしドアは鈍い音を立てながらゆっくりと開いていく。
瞳に涙を浮かべながら今にも悲鳴をあげそうになる美耶子だが、部屋に入ってきた人物を見て大きく目を見開いた。
「あ、佐古下さん、目が覚めたみたいだね?」
両手一杯に何かのダンボール箱を抱えながら、純也は美耶子に向かってニコリと微笑んだ。
思わず脱力し、その場にへたれこむ美耶子に純也は申し訳なさそうな顔をした。
「一人にさせてごめん。佐古下さん、怪我してるみたいだったから救急箱のようなものがないか探してたんだ」
純也の言葉に、美耶子は自分が膝から血を流していることに気付いた。落ちたときにどこかで擦りむいたのだろう。大した傷ではなかったが、純也はわざわざ薬を探しに行ってくれたのだ。
美耶子は申し訳ない気持ちで一杯になり、遂にはその頬を大粒の涙が零れ落ちた。
「さ、佐古下さん! どうかしたの? どこか痛い?」
慌てる純也に美耶子は何度も首を振った。
「ご、ごめんなさい……私のせいで……」
泣きじゃくる美耶子に、純也は抱えていたダンボールを下ろすと、美耶子をベッドへ座らせ、自分もその隣に座った。
純也はしばし悩んだ末、美耶子の頭をためらいがちに撫でた。
「大丈夫、俺はなんともないから。気にしないで」
純也のかけてくれる優しさが心に痛くて、美耶子は涙が止まらなくなる。
結局美耶子が泣き収まったのは、それから十分ほどしてからだった。それまで純也は何も言わず、ただ美耶子の頭を優しく撫で続けた。
「ご、ごめんなさい……取り乱しちゃって……」
泣き顔を見られたことへの恥ずかしさで顔を赤くしながら、美耶子は俯いた。
「気にしないで。それより怪我の治療、していいかな?」
純也はダンボールの中から脱脂綿と消毒剤、包帯を取り出した。
「絆創膏は見当たらなかったんだ。とりあえず消毒して、包帯を巻いとくね」
「は、はい。お願いします……」
美耶子は怪我をしている足の方を治療しやすいように前へと伸ばした。純也は美耶子と向かい合うようにしてしゃがみこむと、そっと美耶子の膝に消毒剤を浸み込ませた脱脂綿を当てる。
ぴりっとした鋭い痛みが走るが、そんなことを気にしている余裕などなかった。歳の近い異性に怪我の治療をされているという気恥ずかしさから、美耶子は純也の顔がまともに見れず、自分の膝元を見つめ続けていた。
心臓が激しく鼓動を刻んでいる。顔が熱かった。
恐らく顔が真っ赤になっているのではないかと美耶子は思った。
純也はそんな美耶子の様子に気付くこともなく、黙々と治療を続けていた。消毒を終え、今は美耶子の膝に包帯を巻こうとしているところだった。
自然と部屋の中を沈黙が漂う。しかし、不思議と嫌な空気ではなかった。
だからだろうか。
「私、三笠さんが羨ましいです」
気が付くと美耶子はそんなことを呟いていた。
「えっ?」
包帯を巻く手を休めることなく、純也が聞き返してくる。
「三笠さん、凄く強いもの。私なんて怯えて震えていることしか出来ないのに」
純也の手がピタリと止まる。
それに気付かず、美耶子は独白し続ける。
「凄いと思いました。こんな状況なのに冷静で、色々なことを考えていて。全部私には出来ないことだから」
美耶子は何故か自分の心の内を純也に明かすことに抵抗を感じなかった。彼の優しさに甘えてしまっているのだろうか。それでも美耶子の心の底には、いつの間にか一つの想いが生まれていたのだ。
「私……私も、三笠さんのように強くなりたいです……」
そう言って、美耶子はぎゅっと目を閉じた。
彼はどう答えるだろうか。笑うのか、それとも慰めてくれるのか。
でも純也が答えたのは美耶子が想像していたどの答えとも違っていた。
「強い、か……」
まるで自嘲するかのように純也が小さく笑った。
美耶子は顔を上げて、純也の顔を見る。そして息を呑んだ。
純也は今にも泣き出しそうな表情をしていたのだ。
「佐古下さん、それは違う。俺は強くなんかないよ」
「えっ?」
「今だって怖いさ。逃げ出したくなるほどにね。ほら、見てよ」
そう言って、純也は自分の手を見つめる。
その手は小さく震えていた。
「少しでも気を抜けば、震えが止まらないんだ。怖くて仕方ないんだよ。何かしてないと、何か考えてないと、気が狂いそうになるんだ」
「三笠さん……」
体を震わせて小さくなる純也を見て、美耶子は自分の思い違いに気付いた。
純也は決して超然としているわけではなかった。恐怖を怒りで誤魔化し、色々なことを考えることで死への恐怖を紛らわせようとしていたのだ。
それに気付いたとき、美耶子は自分の心の中が急に熱くなったのを感じていた。何だろうか、この感じは。しかし不快ではなかった。
「三笠さん」
美耶子は純也の震えた手にそっと自分の手を重ねた。
暖かい。生きている証拠がそこにあった。
「それでもやっぱり三笠さんは強いですよ。弱さを克服しようと頑張ってるじゃないですか」
「佐古下さん……」
純也と美耶子は違う。美耶子はただ恐怖や不安に怯えているだけだった。しかし純也は違う。その恐怖に打ち勝とうとしているのだ。
そんな彼が決して弱いはずがない。
「私もいつか三笠さんのように強くなりたいです。ううん、なります。そして生きてここから出るんです」
今までずっと遠くに見えていた純也が、今では自分の近くにいる。
そんな気がした。だから自分も頑張れば、純也のような強さを得ることが出来るのだと思ったのだ。
美耶子は純也の手に重ねた手に力を込めながら、ふんわりと微笑んだ。
純也は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに微笑み返した。
「ああ、一緒に強くなろう。そして生きてここから出るんだ」
二人で頷きあい、もう一度微笑みを交わす。
「あ、そうだ。俺のことは純也でいいよ」
部屋を出る前、純也は思い出したかのようにそう言った。
それに美耶子は微笑みながら、
「はい、純也さん。私のことも美耶子って呼んで下さい」
そう答えたのだった。