特上寿司
浩二は白木の爺さんが家賃を断固として受け取らない事に辟易していた。
全く信じられない話だ。
白木の爺さん、一体どうなったんだ?
あの強欲爺さんが家賃を受け取らないなんて。受け取る理由がないと、意味不明なことを言っている。
アパートの住民の中にはそれをいい事に家賃を踏み倒そうとする者もいたが, ひょっとしてこれは爺さんの企みかもしれないと勘ぐるものもいた。
家賃をもらっていないという事を理由にアパートから住民を追い払う魂胆じゃないかと。
老い先短い爺さんが身辺整理のため、住民を追い出し、このアパートを叩き売るつもりではないかという噂がまともしやかに広まっていた。
噂がどうであれとにかく浩二は再度、爺さんの家に出向く事にした。
家賃を貰ってもらわないと、浩二の気持ちがすまない。
曲がったことの嫌いな実直すぎる性格は、浩二の長所であり、時折、強引に正義感を振りかざし押し通す融通の利かない欠点でもあった。
玄関のドアには鍵がかかってなかった。
全く物騒だな。鍵ぐらい掛けたらどうだ。
そんな事を思いながら浩二は家に入った。
「白木さん邪魔するよ」
浩二は、応接間に向かった。
白木の爺さんは相変わらず、テッペン禿げを見せながら、テレビを見ていた。
どうやら食事の最中のようだ。
しかも、けちな爺さんにしては珍しく出前の寿司を食べている。
寿司桶の色からにしてどうやら特上のようだ。
信じられん、浩二は首を捻った。
「いやあ、白木さん。食事の最中にごめんよ」
爺さんの前に寿司桶が二つ置いてある。
二つも食べるつもりかい。
浩二はあきれた顔で爺さんの食べっぷりを眺めた。
「いやあ、あんたも食べないか。腹が減ったんで二人前頼んだがどうも食べきれない。残すのももったいないしね」
「いいのかい、食べた後でお金請求するんじゃないだろうね」
「ハハハハ、そんな、ミミッチイことするかい」
「いや、あんたならするよ」
「しないよ、遠慮なく食べればいい」
白木の爺さんは少し不機嫌な顔で寿司桶を浩二の前に差し出した。
「じゃあ,お言葉に甘えて、御相伴に預かりましょうか」
浩二は遠慮なく脂ののったトロを口にほうばった、次にうに、そしていくら、エビと値の高い順から次々と平らげていった。
いつ白木の爺さんが心変わりするか知れないので、めったに口に入れることのないネタから素早く食べ始めたのだった。
「そう慌てなさんな、誰も取りゃあしないさ。ユックリ味わって食べればいい」
白木の言葉と、その顔色を伺った浩二は安心したかのように食べるスピードを落とした。
爺さんは浩二の顔を穴のあくほど見つめながら尋ねた。
「あんたの名前は、・・・・確か、神部浩二って言うんだよね」
「ああそうだよ。俺の名前もわすれたのかい。店子は金の成る木だよ。
忘れちゃダメだよ。白木さん」
「そうか。そして今年は昭和四十三年。一九六八年。なんだよね」
爺さんは、目の前に置いてある朝刊の日付を見ながら言った。
「ああ、そうだよ。何を当たり前の事聞くんだい。そうさ明日は昭和四十三年十月十二日、メキシコオリンピックが始まる日さ」
「メキシコオリンピック?と言う事は今日は十月十一日か」
「ああ、12の前は11だよ。世界共通だと思うよ」
「そうか、今日は一九六八年十月十一日なんだ」
「なにを感心してるんだい」そう言いながら浩二は舌鼓をさせながら寿司を平らげた。
「神部さん!すぐ名古屋に行こう!いますぐ」
白木は人が変わったように大声で言い放った。
勢いよく立ち上がった白木を浩二は呆然と見上げた。
今日はパチンコ屋の定休日。浩二にとって一日暇な日だ。
有無を言わせない白木の迫力に負け浩二は、付き従うことにした。
「名古屋ね。一体そこに何があるんだい」と、呟きながら身支度を急ぐする白木を眺めた。