自動車事故
「白木さん、邪魔するよ」
浩二は家に上がった。
今日は今まで溜まった三か月分のアパート代を払う約束の日だった。
今日払わなければ、あの爺さんの事だ。それを理由に追い出されるかもしれない。
今にも崩れそうなボロアパートだが、それに見合った家賃は浩二にとってありがたい。
それにもうひとつ、爺さんが所有している小屋を格安の値段で貸してもらっている。
浩二はその小屋を自分の作業場として使っていた。
趣味の域を出ないが映画、芝居、演劇で使う小道具などをそこでこしらえている。森に渡したあの警察手帳もそこでこしらえた物だった。
最近はその副収入もバカにならない。いい稼ぎになってきた。
浩二は応接室のドアを開けた。
「邪魔するよ、白木さん」
頭頂部の禿げた老人がテレビの前で座っていた。
画面には今人気絶頂の二人組みのコンビが舞台を汗だくで駆け回り観客の笑いを取っていた。
「白木さん」
その声に気づき老人はゆっくりと振り向いた。
老人の顔色は悪く、生気を失っている様相だ。
「大丈夫かい。顔色悪いよ」
爺さんはうつろな目で浩二を見つめた。
「あんた誰だい?」
「誰?かわいい店子を忘れちゃダメだよ。神部だよ」
「神部?」
「ところで白木さん、とんでもないトコで気を失ったんだってね。近所の噂になってるよ」
浩二は皮肉な笑みを浮かべた。
老人、白木は急に早口で話をしはじめた。
「私は、自動車に乗っていたんだ。高速道路を走っていた。そしたら突然、進路変更してきたダンプカーと接触した。車がスピンして、後は何がなんだか分からないまま、そのまま気を失ってしまった。そして、気がついたらこんな身形、風貌に変わってしまった」
「へえー。自動車事故ね。自動車に乗ってたわけだ。おねえちゃんじゃなくてね」
浩二は笑みを浮かべた。
全くスーさんの言うとおりだ。どうやら白木の爺ちゃん相当、頭に変調きたしたらしい、と神戸は思った。
「今日は約束の三か月分の家賃を払いに来たんだ。受け取ってくれ」
浩二は茶封筒に入れた金を爺さんに差し出した。
爺さんはその茶封筒を見向きもせず、
「一体どうなってるんだ」と呟き、両手で頭を抱え込んだ。
ジェットヘリがポートに降り立った。
神部はエレベーターを使わずに外階段を駆け降りペントハウスに入った。
執事の角田は恐縮そうな顔で待っていた。
「酒井は?」
「このビルのオリエント救急病院に入院されています。」
「容態は?」
「入浴中に脳梗塞で倒れられまして今意識不明の重体だそうです」
「奥さんは?」
「病院のほうにいらしています」
昭子は遅れて、エレベータを使い部屋に入ってきた。
「私、奥さんに付いててあげるわ」
「ああ、そうしてくれ」
昭子は執事の角田と共に階下の病院に向かった。
神部はソファーに倒れるように横たわった。
天井にぶら下がるシャンデリアの細かなガラス細工が空調の風で、小さく揺らいでいる。
「しかしなぜ?どうしてなんだ?自動車事故だったはずなのに。俺の聞き違いか?いや、そんなことはない。はっきり白木の爺さんは言っていた。それにあのノートにも書かれてある」神部は天井を睨み腕を組んだ。
あのノートにはこう書かれてあった。
この日、酒井は出張で秋田に行く予定だった。飛行機で行くはずの酒井は車で出発した。理由は競馬好きの仲間達で共同購入した馬を見に行くためだ。
しかも今日はその馬のデビュー戦。秋田での会議は明後日だから、今日、そのデビュー戦を観戦したとしても時間的にも、距離的にも十分に余裕がある。ただ、酒井の誤算はこの日の午前零時に自動車事故が起きるという事だ。ノートの中ではそのように書かれてあった。