タイムアウト
ペントハウスに備え付けられた露天風呂で酒井は倒れた。
神部はその事を自家用ヘリの中で聞き、耳を疑った。
「僕等はこれから京都に飛ぶ。久しぶりの休養だ。今からここは君たちの家だ、自由に使えばいい。ただし、前もって話してあるとおり、今から明日の朝まで、正確に言えば午前零時過ぎまで外出禁止だ。例えどんなことがあってもだ。分かってるね」
神部は少し強い口調で念を押すように言った。
酒井夫婦は返事の変わりに畏まった顔で頭を下げた。
「まあ、ゆっくり此処の生活を味わってくれ。食事や、掃除、君たちの身の回りの世話は全て執事とメイドがやってくれる。この屋上にはゴルフ場もあるし、プールも備わっている。遊園地もね。しばらくは、のんびり過ごしたまえ」
そう告げた後、神部夫婦はドアに向かった。
「酒井君、明日は君の好きな競馬があるだろう。隣の部屋に最新鋭の大型立体テレビがある。迫力あるよ」
「は、はい。ありがとうございます」
「とにかく、今度会う時まで元気でな」
神部は、酒井の肩をしっかりと掴み、笑みを浮かべた。
その笑みはなぜか物悲しい寂しさが漂っていた。まるで、永遠の別れを告げる時のように。
屋上で待機しているヘリは七、八人ゆったりと座れる広さがが確保されている。
TV電話,冷蔵庫,テレビはもちろん、ベッド兼用のソファー、シャワールーム、最後尾にはトイレも設置されている。
チョットした空飛ぶホテルだ。
「いよいよ今日ね」神部昭子は呟いた。
「ああ,ついに運命の日が来た」
神部浩二は神妙な顔で言った。
「もしすべてうまくいったら私達はどうなるのかしら」不安げな表情で昭子は訊いた。
「さあね、どうなるかな」そう言いながら神部は昭子の顔をのぞいた。
「怖いか?」神部の問に昭子は小さく頷いた。
神部は昭子の手を握った。昭子の手はかすかに震えている。
「莫大な富を手に入れ身分不相応な生活をしてきた。うまいものを食べ、いい車に乗り、自家用飛行機や、ヘリコプター、豪華な邸宅を数え切れないほど持ち、全く贅沢三昧な生活をしてきた」神部はそう言ったあと昭子の顔を見つめた。
「しかし俺にとって最高の贅沢はお前が俺の傍にいてくれたことさ」
昭子の不安げな顔は、神部の言葉で和らいだ。
「そのきざな言葉,久しぶりに聞いた。その言葉で急に背筋が寒くなったわ」
昭子は上目遣いで微笑んだ。
「だろう、俺も言った後、歯が浮いちまったぜ。まあ浮いたついでだ。駄目押しでもう一つ、周りの世界が例え闇に包まれようとお前が傍にいれば何も恐くない。どうだ、このダメ押しは…」
自家用ヘリはゆっくりと舞い上がり、星空を駆けた。
数時間経った頃、ジェットヘリは満天の星空の下を飛んでいた。
時間が午前零時になろうとしている。神部は深呼吸を二回した後、モニター付き電話の受話器をとった。
すぐさま直通で自宅に繋がるようになっている。
「私だ。夜分すまないが酒井君を呼び出してくれないか」
向こうで受話器を取った相手は執事の角田であった。酒井夫婦達の世話を角田と三人のメイドに頼んである。
「かしこまりました。しばらく」そう言って角田はモニターから消えた。
昭子は不安そうな顔で夫を見守った。受話器からはエリーゼのためのメロデェイが無味乾燥に聞こえてくる。メロデェイが消え、慌てふためいた角田の顔がモニターに現れた。
受話器から震える声が聞こえる。
「……酒井が倒れた?」
神戸は呆然とした表情で呟いた。
「どうして外出させたんだ。あれほど外に出すなと言っておいたのに」神部は目の色を変え叫んだ。
「何、外出していない。じゃあ一体何処で…倒れたんだ」神部は瞬きを何度も繰り返した。
「露天風呂?風呂場で倒れただと」神部の目は宙を彷徨った。
「で、どうなんだ。医者を呼んだのか。救急車を呼んだ?馬鹿もん!そのビルには救急指定病院が入っているだろう。そこの医者を大至急呼び出せ。どんなことがあっても助けろ!私もすぐに引き返す」
神部は、肩を落としながら受話器を置いた。
「あなたどうしたの?」
「酒井が露天風呂で倒れた。」
「露天風呂で?」
「そうだ」
「どうして風呂場なの」
「こっちが聞きたい。とにかく引き返す」
神部はヘリの窓に目をやった。
突然、流れ星が暗い空を引き裂くようにまばゆいぐらいの銀色の光芒を描いた。
神部はその光景に目を奪われた。
突然過去の一場面が蘇った。 あの時と同じだ。
あの時と。
神部の目に、あの時の流れ星の残像が鮮やかに蘇った。