ショウ
神部は『予言の書』のページを開いた。
このページに書いてある、ある言葉が俺の人生を変えたのだ。
神部の人生を変えた予言の言葉の一つ。
神部はそのページを見渡した。
神部の顔色が少しづつ変わり始めた。
「おかしい…」
神部は次のページを開いた。
「なんで…だろう?」
次のページもめくった。
「どうなってんだ」神部は思わず呟き、早めくりで次々と頁を眺めた。
「ない、書いてない。どうなってるんだ」
神部は茫然として天井を仰いだ。
「どうしたの?」
昭子は、ソファーにもたれ天井を見上げたままの神部に尋ねた。
「この、『予言の書』を今見ていたんだ」
昭子は神部の隣に座り皺だらけのわら半紙を見つめた。
「おかしいんだよ。書いてないんだ」
神部は『予言の書』を昭子に渡した。
「何が書いてないの?」
そのぶ厚いわら半紙の束をめくりながら昭子は訊いた。
「酒井は大の馬好きだったろう、無類の競馬ファンだった。昭和四十四年から競馬の勝ち馬をこの予言の書に書き記していた。一着から三着までの勝ち馬の名前をね。それが消えてるんだ」
「へえ、そんなこと初めて聞くわ。酒井さん、馬好きだったの?」
「何言ってるんだ。忘れたのか。馬券で大穴を開け奥さんを泣かせたことがあったじゃないか。その為に会社の給料を前借したことも」
「前借?そんなことまでしていたの?」
「何を言ってる。恭子さんがお前に泣きついてきて、競馬で生活費を使い込んでしまった、と言って離婚話まで持ち上がっただろう。見かねて俺達のポケットマネーで生活費を渡した事、忘れたのか…」
「初めてよ、そんなこと聞くのは」
「アキ、どうしたんだ。健忘症にでもかかったのか」
「あなた、逆に尋ねていい?」
「なんだ」
「アキ、アキって私の事言うけど…そのアキって誰の事?」
「アキって言うのはお前の事じゃないか。昭子のアキだろう。何を言ってるんだ」
神部はアキが健忘症ではなく痴呆症にかかっているのかと疑い始めた。
神部の脳裏にその不安がよぎり血の気が引きはじめた。
酒井の葬儀をおえたら直ぐアキを病院に連れて行こう。
神部はアキの顔をやさしく見つめなおした。
「あなた、私は昭子。し、よ、う、こ。亜紀子は、私の姉さんの名前よ。亜紀子姉さんは、三十年以上前に亡くなっているわ。私は妹の昭子よ。自分の妻の名前を忘れたの?」
「何を言ってるんだ。アキしっかりしてくれよ。アキに姉がいたなんて聞いたことがない。弟はいたが姉がいたなんて…」
「あなたこそしっかりしてよ。亜紀子姉さんと私は一卵性双生児。姉の亜紀子姉さんとあなたが付き合っていたのは知っているけど。でも、自動車事故で全身に大やけどを負いそれを苦に自殺したの。忘れたの…。初めて私たちが出合ったのは姉が入院してた病院…」
神部は信じられない気持ちになった。
アキは自分が昭子、と思い込んでしまっているようだ。しかも物語まで作ってしまうなんて。痴呆症の一つの症状なのだろうか。とにかくこの場はあまりアキを興奮させない方がいいかもしれない。
「そうだったね。確かにそうだった。ショウコ。僕の勘違いだった」
「ホントに大丈夫なの」
「もちろん、少し疲れたんだ。今日は早めに休むよ」
昭子は神部の様子を心配そうに見つめながら言った。
「主治医の先生に一度診てもらったら」
「ああ、明日にでも診てもらうよ」
「今から、予約の電話を入れましょうか」
「いや、自分で連絡するよ。ショウコはもういいから休みなさい」
昭子は部屋を出ようとしたとき振り返り神部に言った。
「ショウコじゃなく、いつもの呼び名で言ってよ」
「いつもの呼び名?」
「ええ」昭子の眼に笑みはなかった。
とっさに神部は思いつきの呼び名を言った。
「おやすみ、ショウ」
神部のその言葉を聞き昭子は一安心したかのように笑みを浮かべ部屋を去った。
「アキ、一体どうなっちゃたんだ」