三億円事件
青ざめた表情で昭子が部屋に入ってきた。
その顔色を見て神部の心に嫌な予感がよぎった。
「どうした、慌てて」
昭子は声を震わせながら言った。
「酒井さんが亡くなられた」
神部はそれを聞いて崩れるようにソファーに座りこんだ。
「結局、酒井の運命を変えられなかった」
神部は肩を落とし大きなため息を吐いた。
酒井の葬式はこのビルの中にある葬祭場で行われる事になった。
揺り籠から墓場までという謳い文句のこの巨大ビルにはすべてが備わっている。
このビル自体が一つの都市を形成していた。
葬式は社葬にすると神部は妻に告げた。
「社葬?どうしてまた」
昭子は尋ねた。
「酒井はこの会社の第一の功労者だからさ。俺の部下にどれだけ酒井がこの会社の発展に寄与したかを話してやるつもりだ」
「酒井さんが残したあのわら半紙を皆に見せるわけ」
「まさか」
「だったら、私達が過去に酒井さんに会って未来の全てを教えてもらったなんて言うの?」
「そんなことは言わないよ。酒井はいかに能力があったかを部下に知らしめてやるのさ。全てのアイデアは酒井が発案したものだと知らせてやるんだ。会社の連中は酒井の事を無能呼ばわりしてたからな。酒井が有能な社員だったという事を彼らに教えてやるのさ。それが俺にできる最後の恩返しだ」
「だったら、酒井さんが生きていた時に言ってあげればよかったのに」
「そんな事、まず酒井自身が信じないだろう。自分が有能で、この会社の貢献者だって言ったら目を丸くして、あいつの事だ。登社拒否するぜ」
そう言った後、神部は居間を出た。
特別な場所、隠し扉のある部屋に向かった。
そこには鋼鉄の隠し金庫がある。
神戸夫婦しか知らない秘密の金庫だ。
神戸は書棚に向かった。何百冊ある本棚から秘密の扉という分厚い本を取り出し、本を開くこともせず再び本棚に押し込んだ。次に未来への鍵という本を取り出し、そしてこれも同じように棚に再び入れた。数秒経ったころに本棚の中心が縦に裂けるように別れ、回転した。そこに現れたのは半円状のいかにも頑丈そうな金庫だった。
金庫の指紋暗唱のタッチキーに人差し指をかざした。
金庫の扉が開いた。
金庫の中には、手垢で薄汚れ、ところどころテープで修復してある、わら半紙の束が一冊だけ置いてあった。
神部はそのわら半紙の束を大事そうに手に取った。
その表紙には予言の書と書かれてある。
「この予言の書が俺の成功の秘密。今となってはただの紙屑になってしまったが」
神部が住む巨大ビルの四十四階に葬儀場、ひかり会館はある。
四十四階の全フロアーが、葬議場となっていて、酒井の葬儀は明後日に行われることになった。
社葬と言う連絡を受け光会館の重役達が神部の下に急遽集まった。
元々光会館の創業者は神部自身だ。彼の一声は、神託が下るに等しい。
重役連は一時間内で神部の下に集まった。
「酒井の葬儀を社葬にする」と、神部は皆が集まった席で告げた。
誰もその意見に反論はしない。
その場ですぐ段取りが始まった。
全国のおもだった神部の部下がこの葬儀場に集まるのだ。部下だけではない、政治や経済界の国内外の中心人物も出席する。
総勢何人集まるのか想像すらできない。
光会館の幹部連は、葬儀の準備のため慌ただしく神部の部屋を後にした。
そんな部下を尻目に神部は、一人ソファーに座り古ぼけたわら半紙を取り出した。
手垢で汚れたその紙はボールペンの文字が滲み、多少読みづらくなってきている。
酒井が自動車事故を起こした日付までの出来事が事細かに記されている。
神部は改めて酒井の記憶力のすごさに舌を巻いた。
最初は半信半疑だった。
この予言の書が事実であると確信したのはところどころに書いてある文章だった。
ほとんど、暗記するぐらい読み込んだ予言の書の一ページを神部は開いた。
まず最初に書かれてあるのは、あの有名な事件だ。
昭和四十三年十二月十日。午前九時半。三億円事件が起きる。
たったその一行。
その事件からこの書は始まっている。
確か、爺さんからこの未来の書を受け取った二か月後に実際に起きた事件だ。
この事件は日本中で話題になった。
この事件が起きてからだ、あの夢を見始めたのは。
自分が借りている小屋で見ず知らずの男が、黒バイクを白に塗り替えている。
その男に声をかけ、振り向いた男の目と目が合った途端、夢から覚める。
そして目覚めた途端その男の顔の記憶が消えてしまう。
精神科に診てもらったが、よくあることだ。気にするなという答えだ。
出される薬は睡眠導入剤と精神安定剤。
三億円事件が起きた時から始まった悪夢。
きっかけは三億円事件、この事件と、夢のあの男、何か関連があるのではないか、と思ってもみたが、その関連性が何なのか見当もつかない。
三億円事件は確かに日本中を騒がせた事件だ。強奪犯をヒーロー扱いでマスコミは取り上げた。
誰も人を殺さず、鮮やかな手口で犯行が行われた。
あるメンタルクリニックのドクターは、俺自身がその事件に特に興味、関心があるのではないかと尋ねられた。
関心が嵩じて夢の中で犯人をヒーローに作り上げてしまった。
要するに、自己逃避なのだと、言うのだ。
仕事へのプレッシャーからくるものだとも。
じゃあ、あの小屋にいた見知らぬ男は俺が勝手につくりあげた三億円犯人なのか・・・、?
だが、俺にとって三億円事件はただの事件だ。
興味は多少あるが、なんて言ったらいいか、うまくやったな!って思うぐらいの事件に過ぎない。しかもすでに遠い過去の事件だ。
忘れったっていいぐらいの過去の出来事に過ぎない。
なのに今でも時折、いや、頻繁にみるようになった。
何かおかしい。と、神部は思うのだが…。