第一章~澱のような不安~
「キーラ……部屋に戻るよ」
幾分低いアンの声に、腕の中でキーラが身を竦める。
「ねぇ、やっぱりオレのこと怒ってる?」
子供の手を握る。促すように足を出し、彼女たちは踊り場をぐるりと迂回して階段を昇り始める。見上げてくるそのレモンイエローの瞳が不安に揺れていた。
「ごめん」
――どうして外に出たの? 一年も約束を守っているのに。
外で遊びたい年頃だろう、とは思っていたが。傍らの子供に視線を落して、眉尻を下げる。
アンの視線を正確に受け取ったのか、ポツリとキーラが呟いた。
「カーテンを開けて外を見てたんだ。どこかに見覚えのあるビルとか見えないかと思って。そしたら、下にレニーがいて。オレの顔を見て驚いてるから声をかけたら――」
「声をかけたっ?」
思わず出た大きな声は非常階段に小気味良いほど響いた。キーラがそれに首を竦める。
アンは浅くため息をついた。だとしたら、部屋の位置も覚えられている可能性がある。
「……引っ越そうか?」
「嫌だっ!」
突然の声と供に、キーラが手を振り払う。その声は何度かこだました後、反響を残して収束する。その予想していた答えに今度は深くため息をついた。
「あのGHが通報したらどうするの?」
「オレがこのあたりから違うところへ行っちゃったら、母さんがオレのこと見つけられないかもしれないじゃないかっ!」
「通報されちゃったら終わりなんだよ!」
アンは少年の目線の高さまで腰を屈め、噛んで言い聞かせる。それで、キーラが納得してくれるものとは彼女も思っていなかったが――案の定。
自信満々に笑うキーラ。不敵に煌めく瞳が実に子供らしい。
「大丈夫っ! ――レニーは管理課に通報しないって言ってたし、口止めもしたよ」
それ、信用出来ないんじゃ――という言葉を飲み込んで、アンは身体を起こした。その様子にキーラが慌てる。
「ホントだってば! レニーに聞いたんだ、通報するかって。アン姉、いつも気にしてるから……そしたら言わないって言ってくれた」
見上げるそのレモンイエローに先程までの不安な色は見当たらない。確信の色、レニーを信頼する気持ちが溢れていた。
結局、アンはキーラに弱いのだ。子供の望みなら叶えてあげたいと思う。だから。
「……わかった」
「ホントかっ!?」
小さく頷いたアンに、キーラは嬉しそうに階段を駆け上がる。汚れて、ツギの当てられた膝丈の半ズボンが視界に映った。その子供の動きを強い言葉で引きとめる。
「でも! 知らない人には――GHでもNGHでも、気をつけないといけないからね!」
――誰も信用出来ないんだから。
一瞬首を傾げたキーラが神妙に頷くのを見て、アンはやっと憂い顔を解いた。そうして再び跳ねるように階段を昇るキーラの後を追う。
くるくると廊下を廻りながらキーラは『五〇二号室』とプレートがついた部屋の扉を開く。
嬉しそうな子供の様子に、アンは薄く嗤って一抹の不安を押し殺した。
「昨日みたいに誰かが来ても外に出ないでね。窓から手も振っちゃいけないよ?」
軋む扉のチェーンの下から覗くキーラにそう声をかけた。
子供が頷く。もう一度だけ念を押し、行ってきますと言って扉を閉めた。
くるりと体勢を入れかえて、うーん――と伸びをする。
――さて……仕事、仕事。
階段の前には二人の人影がある。
彼らはアンを見るとあからさまに嫌悪の表情を浮かべ、視線を外した。
いつものことだ。
アンは二人の横を通り過ぎる。ぼそぼそと囁く声は聞こえるが、聴いて良い気分になった試しがないのでこれも無視した。しかめられた眉も視界に映るが、いちいち深く気にしていては身が持たないことをこれまでの人生で学んでいる。
カン、カン、カン、といかにも金属的な音を立てて階段を降る。職場までは徒歩で二十分程。まだ宵闇の視界の悪い中、明けていく空を眺めながらてくてく歩く。
廃墟の町並みが公共施設のそれに変わったところで、アンは下を向いた。いち、に、と交互に視野に入る自分のつま先を数えながら店に向かう。
目立っても何の特にもならない。同じように向かう人々はGHもいるし、NGHもいる。だが、背筋を伸ばし思い思いに挨拶を交わしたりして足早に駅に向かうGHとは対照的に、NGHは皆大抵が下を向いてとぼとぼと歩いていく。
九割以上機械が働く職場の従業員は少ないが、人件費の関係かNGHが多かった。
そんな中でもアンは必要事項以外は誰とも好んで話さない。
NGHは彼女の存在を忌み嫌っていて嫌がらせ以外では側にすら寄ってこないのだ。それは彼女の容姿が多分昔で言うアジア系であるからなのだろう。GHも必要以外はNGHに話しかけはしないから、職場でほとんど口を開くことはない。
そういえばGHと仕事以外で話した事は久しぶりだ、と彼女は忙しなく手を動かし、笑顔を張り付けたまま頭の隅で考える。
レニー・アルソンと名乗った青年――緑の髪は短く濃かった。露を纏った大輪の花を思わせる印象的な真紅の瞳。細身の身体に、着崩したラフな格好――水色のシャツに黒のジーンズ、一体いつの時代のものか、博物館にしかないようなレトロなスニーカーを履いていた。優しそうな雰囲気も、粗野ではない所作も、いかにも女子供受けしそうな青年。
けれど愛想の良い話し方も人懐こい笑顔も、アンには警戒心を抱かせた。自分にとって、周囲は――GHもNGHも――牙を向くだけの存在だったし、警戒せずに話すことが出来るのはキーラだけだ。
脳裏に、何度も振り返りながら去っていった彼が鮮やかに浮かぶ。昨日はつい、キーラを連れて行かれるのではないかと逆上し、頬を叩いてしまった。
――彼はあそこに何の為にいたの?
捜し物とはやはりキーラなのだろうか。
もう少し落ち着いて話を聞けば、今こんな風に悩むことなく済んだかもしれない。
――まさかまた来ないよね?
不安が胸をよぎる。あれだけ念を押したのだ。キーラもまさか今日は外には出ないだろう。
普段は客がいない場合、暇をもてあまし気味だがこういう時には都合がいい。誰も話しかけてこないから、考える時間はたっぷりとある。
ピーと機械音が響き、スープの残量がゼロに近づいたことを知って、補充のためにアンはカウンターの裏手に回った。裏側には、機械の機動部分がある。そのいくつかのチューブを外しては接続し、スイッチを入れ替えた。ガチン、ヴーン……と極かすかなモーター音と共に、アンの目の前にある太いチューブの中を液体が降下していく。
それを上の空で見つめながら、アンの意識は再び考えに没頭する。
――何者だったんだろう、彼は。
管理課のGHではない、絶対に。彼らはまず間違いなく最初にNGHナンバーを確認して、携帯端末から情報を引き出し照合する。だが彼は二人のIDに興味を示すことはなかった。
――BRCって、あのBRC……?
BRCは言わずと知れた巨大な財閥だ。けれど、その社員には見えなかった。サラリーマンならあの時分ラフな格好をしているとは思えない。
かといって、迷い込んだわけでもなさそうだ。
二人に注がれた含みのある視線。探している物の行方を、確実にあの周辺に当たりをつけてやってきたのだろう。とすると――やはりキーラの父親関連なのだろうか。
勝手に追い返したりして悪かったかな、とふと考えた。
アンは家族だが、キーラの幸せは自分と共に暮らすことかと問われると素直に頷けないものはある。時折鳴る子供の腹の虫が満腹に程遠いことをいつもアンに教えていた。
少なくとも、自分といるよりは満足に食べさせてあげることが出来るはずだ、GHなら。
ゴウン――とその時、音がした。一瞬、それに気をとられ思考が拡散する。どうやら第二段階に入ったらしく、次のエリアの機械に液体は吸い込まれていく。アンはそれを見上げ、機械の液晶部分の数値をチェックした。
ほぅっと息をついて、再び流れてくるスープに目を運び、思考していたものを手繰り寄せる。そして手繰り寄せて早々、己の考えを打ち消した。
――キーラはお母さんを探しているんだもの! あんなGHの、ましてや身重のお母さんを放っておくような薄情な父親の元になんか行かないほうがいいわ!
やっぱり断固拒否しよう、と一人ごちて、アンはカウンターに戻る――はずだった。
ドンッと肩を押されなければ。
――何するのよっ!?
一瞬怒りが先に立ったが剣呑な気配を経験から隠し、乱暴を働いた相手を見据えた。
「アタシはね――嫌いなのよ、黒髪」
小突いたのは同僚のジェシカだった。
彼女はカールした長い金髪を細い指先で弄びながら、もう片方の手に持ったエプロンをくるくる回した。立ち姿は堂々としていて、女でも惚れ惚れするほどのプロポーション。灰青の瞳が酷薄な色を浮かべている。
店の者には大抵無視をされるか、あっても陰口を叩かれるかぐらいで、その中でジェシカだけがアンに突っかかってきてはいたけれど、それでも小突かれたことは初めてだった。
だが、またか、とアンは軽く息を吐く。
「辞めなさいって何度も言ってるでしょ? こりないね、あんた」
――そんな脅し、慣れっこだもの。
まだ両親が存命だった頃もその後も、アンは血筋と容姿で虐げられてきた。無視や陰口だけではなく、小突かれることなど日常茶飯事で生ごみを投げつけられたことも一度や二度じゃない。友達と呼べる相手もいたことはなかった。数年前は月に一度口を開けばいいほうで、今でも話すことは得意ではない。
だから、絵に描いたような典型的なNGHにアンは溜息を吐いたのだ。それを耳聡く聞きつけて、ジェシカの眉間にしわが幾筋も寄る。
「……あんたの見た目がみんな嫌だから、アタシが代表して言ってあげてるんじゃない! ――その黒い髪、若い頃のあいつにそっくりの色。それだけじゃない、その真っ黒で気味悪い瞳。あいつと一緒で見るのも嫌っ!」
――馬鹿みたい。
世界にアジア人の容姿を持つNGHは少なくない。それら全部に威嚇するつもりなのだろうか。噴飯ものだが、しかしそういうNGHが多いのも事実で、アンは天井を仰ぐ。
「……この店を辞めるつもりはないから」
ゆっくりとジェシカを見つめる。金の髪に灰青い瞳。整った顔立ちで、GHなら女優かモデルにでもなれるだろう。でも彼女はNGHだ。
「この髪も目もあたしが望んだものじゃない……あんたは違うの、ジェシカ?」
それに怯んだジェシカをもう振り返りもせず、アンはカウンターに戻った。
一週間ぶりです。今週は時間の都合で一話のみですが、来週は金曜日にお会い出来ると思います。次話もよろしくお願いします。