第一章~かくれんぼの鬼~
――どうして!?
いるべきはずの子供がいない。
キーラは生まれた時から彼らに近い環境にいた為か、GHに対する警戒心が希薄だ。
もしも、管理課に見咎められたら――そう思うと、アンはいてもたってもいられなかった。
仕事から帰ってきて、部屋の鍵が開いていたことを不審に思って、それでもまさかキーラが中にいないとは考えられなかった。けれど子供はどこにも姿がない。
先程から大声で呼んでいるが、反応は全くなかった。
以前、やはり姿が見えなくなった時、キーラは一人『隠れ鬼』をしたまま戸棚の中で眠っていたのだが、そのどこを捜してもいない。腕が通るか通らないかの隙間すら捜し、アンはやっとそれに気付いた。
ちょうど外が覗ける幅に、カーテンは開いていた。そこは一日を通してぴっちりと閉めてあるはずだ。
廃墟となったホテルを利用した賃貸住宅の、窓にかかった所々が破れたカーテンのその隙間から、中天を越え西に沈もうとしている橙色の光が差し込んでいる。
アンは隙間から外を覗いた。
雑多に並んだ、色の煤けたビル群――それはとうにGHにとって役目を終えた建築物の墓場で、その上に午後の眩しい太陽が陣取る。視線を下に動かすと、もう本来の機能はなしてはいないだろう、錆びた転落防止の柵が腰の高さまで。その先、ほぼ真下、ビルの狭間の暗い場所に目的のものを発見し――次いで目を見張った。
小柄な、金茶色のふわふわ揺れる短い髪。捜していた子供の横に、人の姿がある。
四階からでも間違えようがない。
あれは、黒や茶色の髪ではない。
濃い緑――ビル群が作り出す日陰でも保てる強い色彩。
GHの、木坂健二郎の造り出したヒトの変異種の、その人工的な色。
――キーラ!?
上から覗く限りはそのGH、子供に危害を加えている様子はない。
だが、彼――彼女でなく彼だろう――彼が、管理課の者ではないという保証はない。
――いいえ、多分違うはず。
アンはすぐに己の考えを否定する。
管理課は一目でそれとわかるような、味も素っ気もない濃紺のスーツを着ている。対して眼下のGHが身に着けている物は明るい水色のシャツで、そのカジュアルな服装から鑑みるに、恐らくこの廃墟群――NGH居住地区――に入り込んでしまったGHだ。
最悪の事態――キーラの収容を免れたことで、アンはふっと息をつく。
ただ通報される可能性は捨てきれなかった。今でもヒトを苛めて喜ぶようなGHは沢山いるし、通報はせずとも売り飛ばされてしまう子供は少なくないのだ。
見過ごすことも、見捨てることも出来ない。
キーラは、血は繋がらなくとも、アンにとって唯一の家族だから――彼女は踵を返した。
非常用階段を一足飛びに駆け下りる。
途中、同じようにここに身を寄せる住人と擦れ違う。平素は気になるそのしかめられた眉も、今はどうでもいい。
古い、鈍く光る細い鎖がカチャカチャと鳴くネックレスがもどかしい。先についているチャームは丸いコイン型、九枚の細く長い葉が刻印された彼女の唯一の装飾品とIDが速さと衝撃で肌にぶつかる。微妙な不快感に服の上からそれを握り締め、アンは全力で駆けた。
最後の三段を飛んで、一階の踊り場に勢いよく着地する。
体勢だけは既に走り出していた為か、膝は衝撃を吸収しきれずに嫌な音を立てる。けれど、痛みはちらと頭をかすめただけで、すぐにキーラの無事を祈った。
踊り場からはぐるりと九十度廻らねば外の様子――キーラのいる位置は見えない。
どうかまだそこにいるように、と祈りながら、その角度を前方を確認せずに曲がった。
速度と、遠心力と、逸る気持ちが相まって、壁にでもぶつかったかのような衝撃を受け、転ぶ! ――と思った瞬間、強い力で引き戻される。
濃厚な香りが広がる。
馥郁たる匂い。
ダイレクトにそれを感じて一瞬がとても長く感じた。
アンの視界が揺れ、世界が不安定になる。
それでも何とか自分を取り戻し、最初にピントが合ったのは、少し先でレモンイエローの瞳をまんまるに見開いたキーラ。
次いで、視界の端に彩る真紅。
それは、赤よりなお濃い、紅の虹彩だった。
自分の二の腕を掴んでいる存在。濃緑色の髪、それは夏の木漏れ日の下で見る葉の色。
眉間に一筋入ったしわと盛大にしかめられた眉。だが、それらを補って余りある印象的な顔立ち。年の頃は二十歳をいくつか越えたくらいか。女にしては長身のアンより頭一つ分高い。
「……誰だ?」
声も出ないまま、まじまじと見上げる彼女に、GHが口を開く。
「彼女がそうか?」
キーラが言葉を発することなく、まだ驚いたように瞳を見開いたまま、こくこくと頷く。
途端に、アンは妙な動悸がした。
「あなた……誰?」
それは喧騒の中では消されてしまうようなか細い声だったが、この静かなビル群の狭間ではやけに大きく響いた。その反響になぜか少しだけ勇気付けてもらって、今度はしっかりと声が出る。
「何をしているのキーラに!」
掴まれた腕が炎にでも炙られたかのように熱い。飛びのくように振り払ってGHを睨んだ。髪がビル風に煽られて鬱陶しい。翻る黒い糸束と、慌てたようなキーラの仕草が視界の隅に入る。
GHが瞬きを一度してキーラとアンを交互に見た。
「……その子には、キーラには何もしていないさ。俺はただ、捜し物をしていただけだ」
彼女の剣幕に、何にもされてないよ、と遠慮がちにキーラが告げる。アンはそれでも青年から目を離さない。
「俺はレニー・アルソン――君は?」
にこりと笑った顔は眩しいくらい邪気がない。
声も穏やかで、それが逆に怖かった。
――名前を明かす必要があるの!?
徐々に眉間にしわが寄る。その射るような視線にレニーが苦笑した。
「そんなにカリカリするようなことじゃないだろう。別にIDを見せろって言ってるわけじゃない。ちょっと聞いただけだ……君がキーラの保護者なのか?」
ギクリ、と動揺する。
その動揺がさらに動揺を呼んだ。恐れていたことが起こるかもしれない。
頭のどこかで警鐘が鳴る。
キーラと共にいたGHの、アンに投げかけるその意味ありげな視線と問い。
レモンイエローの、何故か双方を気遣う瞳。
どうやら、彼女のいない間に交わされた会話がある。それが何なのかわからないけれど、少なくとも好ましい話ではないとアンは思う。
GHの質問から簡単に導き出せる答えに愕然とした。
――キーラの父親!?
キーラは混血だ。
レモンイエローの明るい瞳とそれよりも濃く暗い色をした金茶の髪。
その子供がNGHの母親を探している事は重々承知していた。だが彼からGHの父親の話は聞いたことがない。話をするつもりがないのか、それとも知らないのか、アンには判別できなかったが、GHが髪に葉緑素を持たない混血の子を迎えに来るなど考えてもみなかった。
そこに一瞬で至ったアンは、それはないか、と自分の考えを否定する。二十代前半と思われる青年が、七つを越えたばかりのキーラの父親であるとは思えない。それに――瞳の色がまるで違う。明るいレモンイエローの瞳とは相容れない、真紅。
父親でなくとも血縁者なのだろうか。その花に多数の色がある場合、そういったことも考えられる。だが、本来一親等である親は大抵が同じ色をしているものだし、近しい親戚だってそうだ。
けれど保護者の確認など、他になんの為に聞く?
管理課のGHがもしも私服で捜査するならば、IDを提示させNGHナンバーを確認すればいいだけの話だ。
レニーの言った、捜し物、という言葉が胸をえぐる。それがキーラでない保証はない。
「あなた何者?」
彼を直視出来ず視線を逸らした。唇を噛んで、下を向く。
「俺はBRC――」
「レニー、アン姉を苛めたらだめだぞ」
彼の言葉を遮って、キーラがアンを庇うように前に出た。
ところがその声は真剣なものではなく、むしろ悪戯をした兄弟に対するような響きであり、レニーとの間の柔らかい空気をかえってアンに見せ付けただけだった。
キーラが人懐こい子供であるとはいえ、アンは確信を深める。十中八九、捜し物はキーラだ。多分、レニーはキーラの父親の血縁者か、知人か、または探偵か何かその類の職業だろう。
けれど――キーラを渡すわけにはいかない。
「帰って!」
バチンッ――と耳に痛そうな音が狭間に響き、真紅を見開いて青年は頬を抑える。
彼の頬はゆるゆると赤くなり、しまった、とアンは恐怖から一歩退いた。
「俺は何故叩かれたのか聞いていいか?」
しかし、彼はどうしたことか怒った表情はない。声音もそのままだ。
普通、よく知らぬ相手に叩かれて――ましてや見下しているNGHに危害を加えられて――こうも冷静でいられるものだろうか? すぐさま管理課を呼ばれても仕方ないこの状況で。
アンは不安からキーラを抱き寄せ、彼を見上げた。その顔に少しだけ後悔が現れる。
「レニー、だいじょぶか?」
キーラが自分の腕の中で、彼を親しそうに心配した。
「ああ、大丈夫」
――なんでGHを心配するの!?
アンは彼を見つめたまま、ぎゅっとキーラを抱きしめた。
レニーはそんなアンとキーラを交互に見て、一瞬首をかしげるような仕草を見せた後、踵を返す。彼がビルの隙間から見えなくなるまで、視線を外さなかった。いつこちらに駆け戻ってきてキーラを連れて行ってしまうかもしれないと思うと。
だが、レニーは何度かこちらを振り返ったものの、戻ってくることはなかった。
次回の更新は来週の土日を予定しています。ここまでお付き合いしていただきありがとうございました。