第一章~世界の大規模な変化~
冒頭に残酷な描写ありです。ご注意ください。
少女が横たわっている。
ごみ溜めのような汚い場所だ。人気のない場所。
虚ろに開いた瞳はすでに光がなく濁りきっていて、色褪せ汚れたワンピースから、骨と皮ばかりの枯れ枝のような手足がのぞいていた。ごわごわとした黒い髪はざんばら、靴はない。もしかしたら僅かに息が残っているかもしれないが、それはどうでもいいことだ。
手が伸ばされる。少女を動かすと僅かに蝿がブーンと唸る。死臭が鼻につくが手を止めることはない。
密やかに笑う声がする。
ねぇ――。
アン姉ってば――。
「起きろぉっ!」
揺り返し、繰り返し、その声と身体の動きで夢から現実に戻ったアン・ハーネットは顔を顰めた。
余り良い夢ではない。
ただ、覗き込むレモンイエローの瞳に笑顔を向ける余裕はあった。
「おはよう、キーラ」
子供は短い金茶色の髪を振って溜め息をついた。
「……おはよう、じゃないよ。遅刻するよ、アン姉」
そのどうしようもないというような態度に即座に状況を把握し、アンは飛び起きた。
――今何時!?
窓のカーテンはわずかに開けられ、そこから日が差し込んでいるものの、ビル群に囲まれたここではそれが朝の何時頃なのか正確に把握出来ない。
「……四時五八分、遅刻まであと三十二分だよ」
あたふたと服を着替える彼女にキーラは時刻を正確に告げて、動線を刺激しないように脇に退く。
部屋を右往左往し、首にID――NGH法によって指定されている姓名及びNGHナンバーの記載された非金属プラスチック性のプレート型ペンダント――と父親の形見のネックレスをかけ玄関に突進したアンはふと立ち止まり、子供を振り返った。
「鍵かけて、誰か来ても開けてはだめだし、外も出てはいけないわよ! カーテンも――」
「閉める。わかってるから早く行った方がいいって――行ってらっしゃい」
妙に釈然としないまでも、アンは自分が遅刻しそうなことを思い出し慌てて家を出た。
――間に合った!
ほっ、と息を吐いて、開店の音楽に合わせ息を整えていると、客が入店する。
黄緑の髪を会社員らしく七三に分け、銀縁眼鏡の奥は淡い水色。スーツは味も素っ気もない濃紺シングルボタン。にこやかに応対し、いくつかのボタンを押したアンは、機械から出されたプレートを渡す。
朝靄も消えない時間だが客は途切れない。すぐに次の客が前に並ぶ。女の青緑の髪は見事に巻かれ、綺麗にはかれた口紅が燃えるようなオレンジの瞳に負けていない。
「モーニングセット、コーヒーで」
「かしこまりました」
マネーカードをシステムに翳した女に、やはりにこやかにアンは対応する。湯気の立つオムレツの載ったプレートを渡し、女が踵を返した瞬間だけ、張り付かせた笑顔を引っ込めた。
仕事はまだまだ始まったばかりで、次々とやって来る緑の髪をした客に心中で溜め息をつく。笑顔を固定したまま、アンは昼過ぎを心待ちにしていた。
西暦二一二七年、環境は最悪だった。
世界規模へと広がったオゾン層の破壊。
二酸化炭素濃度上昇と緑地伐採や砂漠化における地球温暖化現象の激化。
極地付近の氷や山岳氷河の融解による海面上昇と低地の水没、海流の変化。それに伴う数々の異常気象。
二十世紀末から危惧され続けてきた地球の様々な環境破壊――それが現実のものになったのだ。
特に、二酸化炭素濃度の上昇は、地球の存続すら困難になるのではないか――と方々で懸念されていた。
被害を受けたのは植物である。
伐採され、人の手が加わった森など、すでに機能しないといっても過言ではない。環境保全が叫ばれてから僅か百数十年――地球上の植物は激減、絶滅してしまった種は多数となった。
数え上げればきりがない程。
二十世紀以前のような楽観的な考えを持つ者は少なくなり、皆大なり小なり不安を抱えていた頃。太平洋に浮かぶ水没間近の島国の、ある博士が造り出したものは画期的だった。
それで地球は生き返る。
まだ繁栄を謳歌出来る。
そう、誰もが期待した彼の研究。拍手と喝采と高揚感を持って迎えられた彼の発明品。
それは――遺伝子工学と植物生理学の結晶たる、ヒトと植物の細胞を融合させた、光合成の可能な生物。
Green-Humanoid。
その通称をGHと言う。
形はヒトと変わらない。違いはその髪の色。地球上で幻となりつつある、鮮やかな――緑。
その特異な毛髪の色は細胞内に光合成色素――葉緑素を持つ為で、太陽光や一定以上の光源により光合成を行い、通常の植物と同じく二酸化炭素を取り込み酸素に還元する。紅や桃色、橙や黄色、白と、ヒトのようにメラニン色素量で決定するわけではない様々な虹彩は元になった植物の花弁に由来する極彩色。
決して、純粋なヒトにはないもの。
それから、地球上には爆発的に『緑』が増えた。
環境悪化を阻止しようとしていた世界政府は公然と倫理を無視。地球議会公認の元、莫大な研究費を費やしその発明の数は増加した。
当初、ヒトは自らをPure‐HumanもしくはPHと呼びGHを蔑視していたが、その数が無視出来ないものになるにつれ、脅威を覚える。
発明から百年も経つと地球議会も様変わりし、GHの代表議員が過半数を超えた。
これらヒトの衰退については、婚姻等のGHとの融合説や、AI化された社会に適合し弱化したことが原因である、と諸説あるものの、減り続けた彼らを守る事は地球議会では議論されず、隠れた絶滅危惧種となる。
その地球議会で始めて議論されたヒトに関する法律がNon‐Green‐Human法――所謂NGH法であった。
施行後、ヒトの生活は一変する。
わかるだろうか?
何をするにも、どこへ行くにも、管理課の許可を要し、いわゆる人権などというものは、ヒトには認められなくなった。ヒトは驚愕する。が、抗おうにもヒトは力弱く、数も少ない。
……ただ従うしかなかった。
古い法である。
今、この地球はGHによって歴史を紡いでいる。法は何度か改定されたが、基本理念は変わらない。
いくらヒトが神の真似事をして造り出した人類の亜種とはいえ、優れた種が生き残ることは、進化の歴史を鑑みても当然のことで。ヒトよりGHが優れていることは、能力の上でも地球にしたことを考えても、一目瞭然で。
だが、それをわかっていてもヒトは呪った――木坂健二郎を。
GHの創造主、遺伝子工学と植物生理学の権威であった博士は、彼自身最大の発明をもって地球を救い、同族を見捨てた裏切り者だと言われている。
西暦二三〇八年、地球は変わっていた。