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婚約破棄された聖女は、滅びゆく世界で愛を囁く

作者: だんよ
掲載日:2026/05/06

煌びやかなシャンデリアが、広間を埋め尽くす貴族たちの視線を反射して、痛いほどに輝いています。

王立学園の卒業パーティー。

本来ならば人生で最も華やかな門出となるはずのその場所で、私は予定通りの言葉を待っていました。

「リリアーナ・ヴァン・ベルシュタイン! 貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する!」

第一王子、エドワードの朗々とした声がホールに響き渡ります。


彼の傍らには、可憐に震える男爵令嬢、ミナが寄り添っていました。

彼女はこの世界のヒロインであり、私は彼女をいじめたとされる悪役令嬢の役割を、今日この時まで完璧に演じきったのです。

ああ、ようやく終わるのね。

私は静かに頭を垂れました。


私の前世は、東京の片隅で誰にも気づかれずに死んだ、ただの事務員でした。

常に誰かの顔色を窺い、穴埋めのように働き、深夜のコンビニ弁当を食べて眠るだけの毎日。

この世界に転生し、公爵令嬢という地位と、強大な聖女の力を授かったとき、私は今度こそ誰かに必要とされたいと願いました。

だから、寝る間も惜しんで、血の滲むような努力を重ねました。


王子の婚約者として完璧なマナーを身につけ、聖女として国中の結界を維持し、泥に塗れながら民の病を癒やしました。

けれど、その献身の果てに待っていたのは、この冷たい断罪の声でした。

「リリアーナ、何か言い訳はあるか? 貴様がミナに対して行った陰湿な嫌がらせの数々、証拠は揃っているのだぞ!」

エドワード王子の瞳には、私への嫌悪だけが宿っています。


かつて彼に、聖女の力は国の宝だ、君を一生守ると言われたとき、私は愚かにも涙を流して喜びました。

けれど、彼が欲しかったのは私ではなく、私の持つ聖女のスキルという便利な機能だけだったのです。

ミナという新しい光を見つけた今、出力の安定しない古い魔導具である私は、彼にとって邪魔なゴミでしかありません。

「……いいえ、殿下。何もございません。すべて、あなたの仰せの通りに」

私は微笑みました。


それは、彼らが期待していた絶望の表情ではありませんでした。

ただ、すべてを諦め、投げ出した者だけが浮かべる、空っぽの微笑です。

「な……貴様、反省の色もないのか! 衛兵、この女を直ちに地下牢へ――」

エドワードの言葉を遮るように、私は自分の胸元に手を当てました。

そこには、この国の命脈とも言える大結界の核が埋め込まれています。


聖女だけがその身に宿す、神の心臓です。

「殿下、あなたは仰いましたね。私のような心の汚れた女は、聖女にふさわしくないと。……その通りです。私は、もう疲れました」


☆☆☆☆☆☆☆☆☆


私は地下牢ではなく、王都の端にある、忘れられた塔へと自ら歩を進めました。

王子たちは私の力を無理やり奪い取ろうとしましたが、聖女の力は本人の強い意志がなければ譲渡も消滅もできないのです。

彼らは私を説得するために、一時的にこの塔へ監禁し、心を折ることを選んだのです。

窓の外では、王都がかつてないほどに浮き立っています。


邪悪な聖女が追放され、新たな真実の聖女であるミナが誕生したことを祝う祭りの火が、あちこちで灯っています。

その光を見るたびに、私の心は少しずつ、砂のように崩れていきました。

入ってきたのは、唯一私についてきた老従者のハンスだけでした。

「ハンス、あなたも逃げればいいのに。もう、私には何も残っていないわよ」


「……お嬢様。私は、あなたがどれほど夜を徹して祈りを捧げていたかを知っております。世界があなたを忘れても、私はここにいますよ」

その言葉は、冷え切った私の心に少しだけ触れました。

けれど、もう手遅れだったのです。

私の内側にある聖女の器は、長年の献身と、それに対する裏切りによって、どす黒いひび割れが走っていました。


この世界には、残酷な一つの法則があります。

聖女が愛を注げば世界は輝き、聖女が絶望すれば世界は闇に包まれるのです。

私は今まで、自分の絶望を押し殺して世界を輝かせてきました。

けれど、もうその理由が見つかりません。

日本にいた頃も、そうでした。


頑張っても、頑張っても、それは当然の義務だと思われる。

少しでも綻びを見せれば、袋叩きに遭う。

誰も、私自身を見てはいない。

その事実は、異世界に来ても何一つ変わりませんでした。

「ねえ、ハンス。もし世界が明日終わるとしたら、あなたはどうする?」


「……お嬢様とお茶を飲みましょう。最高の茶葉を用意して」

「ふふ、素敵ね」

私は空を見上げました。

空に浮かぶ月の色が、少しずつ、不吉な赤に染まり始めていました。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆


一週間後、王都の賑わいは、耳を突き刺すような悲鳴へと変わりました。

私が維持していた大結界が弱まったことで、外縁の魔物たちが一斉に街へと押し寄せたのです。

エドワード王子や教会の人間たちが、なりふり構わず塔へと駆け込んできました。

「リリアーナ! 遊びは終わりだ! 今すぐ結界を元に戻せ! 民が死んでいるのがわからないのか!」


エドワードの顔は怒りと、醜い恐怖で激しく歪んでいます。

その後ろでは、ミナが地面に伏して泣きじゃくっていました。

彼女には、結界を修復するほどの力はありませんでした。

ただ少しだけ周囲を明るくする程度の、飾り物のような力しかなかったのです。

「民が死んでいる……。ええ、そうですね。でも、それが私と何の関係があるのですか?」


「何……!? 貴様、正気か!」

「私はもう、あなたの婚約者ではありません。この国の聖女でもありません。私を捨てたのは、あなたたちでしょう?」

私の声は、自分でも驚くほど平坦で、冷え切っていました。

憎しみすら、もう摩耗して消え去っていました。


ただ、静かにこの喜劇の幕を引きたい。

それだけだったのです。

「この役立たずの女め! 殺してでも力を奪い取ってやる!」

エドワードが怒り狂い、剣を抜き放とうとした、その時でした。

「――やかましいな。彼女の安眠を妨げるなと言ったはずだ」


塔の空間が、古びた紙を破るように音を立てて裂けました。

そこから溢れ出したのは、すべてを飲み込む底知れない闇。

現れたのは、漆黒の外套を纏った、この世のものとは思えないほど美しい男でした。

「……冥府の王……」

誰かが恐怖に震えながら呟きました。


神話の時代に封印されたとされる、災厄の化身。

彼は音もなく私の隣に立つと、細く冷たい指先で私の頬を優しく撫でました。

「ようやく、器が満ちたな。リリアーナ」

「あなたは……?」

「お前が捨ててきた、負の感情の受け皿だ。お前が世界を愛そうとするたびに、無理やり切り捨ててきた悲しみの残滓が、私という形を成した」


彼は私を抱き寄せました。

驚くほど冷たいはずなのに、今まで誰から受けた抱擁よりも温かく感じられました。

彼は、私のすべてを知っていた。

私がどれほど孤独だったか。

どれほど、誰かに強く抱きしめてほしかったか。


「リリアーナ、契約しよう。お前を愛さぬこの世界を、私がすべて灰にしてやろう。その代わりに、お前は永遠に私だけのものになる。……いいだろう?」

私は、エドワード王子の顔を見ました。

彼は腰を抜かし、情けなく後退りしながら震えています。

ミナは、すでに恐怖のあまり気絶していました。


彼らが守りたかったのは世界でも民でもなく、自分たちの居心地の良い椅子だけだったのです。

「……ええ。いいわ」

私は、冥王の首に細い手を回しました。

「世界なんて、いらない。私を一人にする世界なんて、全部壊して」


☆☆☆☆☆☆☆☆☆


その日から、世界は灰の時代へと突入しました。

冥王の力によって、空は常に灰色の雲に覆われ、雪のように白い灰が降り注ぐようになりました。

魔物が地上を蹂躙し、華やかだった王都は見る影もない瓦礫の山へと変わりました。

エドワード王子も、ミナも、私を嘲笑った貴族たちも、今では逃げ惑う家畜のような境遇に堕ちました。


けれど、私は今、かつての塔の最上階を改装した、豪華絢爛な温室の中にいます。

ここは世界の終わりから切り離された、唯一の、そして最後の楽園。

外では人々が飢えと恐怖に震えているというのに、ここには最高級の絹、絶品の実り、そして私を狂おしいほどに愛する王がいます。

「リリアーナ、今日はこの花を持ってきた。お前の瞳と同じ、深い闇の色をした薔薇だ」


冥王アズライールが差し出した薔薇を受け取り、私は彼の厚い胸に寄り添います。

彼は私に食事を与え、私を美しく飾り立て、私が眠るまで甘い愛の言葉を囁き続けます。

ここでは、私はもう誰の期待に応える必要もありません。

聖女である必要も、完璧な令嬢である必要もありません。


ただ、アズライールの愛を一方的に受け取るだけの、壊れた人形であればいい。

「……リリアーナ、幸せか?」

アズライールが私の髪に、愛おしそうに唇を寄せます。

私は、窓の外を見ました。

灰に埋もれていくかつての祖国。


ゆっくりと滅びゆく人類。

そこには、私の知っているハンスの姿もあったかもしれません。

けれど、私の心は、かつてないほどに満たされていました。

世界を犠牲にして、私はようやく、誰かにとっての「一番」になったのです。

私という存在を、呼吸するように求めてくれる、たった一人の存在。


誰にも理解されず、誰にも顧みられなかった事務員だった私も、重責に押し潰されそうになっていた聖女の私も、ようやく救われたのです。

「ええ、とても幸せよ。アズライール」

私は彼の唇に応えます。

甘い、毒のような沈黙が二人を静かに包みます。


外では、絶望した人々の叫び声が風に乗って、微かに聞こえてくるかもしれません。

けれど、この温室の壁は、それらをすべて祝福の歌に変えてしまいます。

ごめんなさい、お父様、お母様。

ハンス、そして、名もなき民たち。

……でも、私はもう、誰かのために無理をして笑うのは嫌なのです。


私はゆっくりと目を閉じます。

降り注ぐ灰は、まるで世界を弔う美しい花吹雪のようでした。

これは、世界にとっての最悪の終焉。

そして私にとっての、永遠に続く、甘い、甘いハッピーエンド。

「愛しているよ、リリアーナ」


「私も。……私だけの、神様」

灰色の空の下、二人の笑い声だけが、静かに溶けて消えていきました。

崩壊の果てに掴んだのは、血と灰の匂いがする、けれどこの上なく純粋な、二人きりの楽園でした。

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