第八話 光と泥
第八話 光と泥
城の一角、家族が眠る奥御殿へと続く廊下。
万福丸は、暗がりに足を止めていた。
『――急げ。もう時間はない』
脳内で、時任の声が低く響く。一切の猶予を許さない、氷のような響きだった。
『高虎と喜三郎が、抜け道で待っている。今すぐこの城を出るんだ。……いいな、寄り道は死に直結するぞ』
「……待て」
万福丸は、動かない。
「その前に――どうしても会わねばならぬ」
『……無駄だ。会いに行けば、お前の決心が鈍るだけだ』
時任が、冷たく切り捨てる。
「わかっておる。だが、これをせねば、わしは前に進めぬ。母上も、茶々たちも……わしが連れて逃げる。わしが守るのだ」
その言葉を聞いた瞬間、時任の気配が、かつてなく重く、残酷なものに変わった。
『……馬鹿を言うな。お前が連れ出せば、お市の方も妹たちも、全員が野垂れ死ぬぞ』
「……なに?」
『歴史の事実だ。この落城の後、お市の方と三人の妹たちは織田信長に手厚く保護され、生き延びる。彼女たちは、日の当たる光の道を歩むことが確定しているんだ。……だが、お前がその余計な情で彼女たちを暗い泥道へ引きずり込めば、その「生存確定ルート」は消滅する』
万福丸の足が、床に縫い付けられたように止まった。
『わかるか、万福丸。彼女たちにとって、織田の兵は「保護者」だが、お前にとっては「死神」だ。お前という「呪い」の種がそばにいるだけで、彼女たちまで確実に殺される。お前は今、家族を捨てるんじゃない。家族を光の中で生かすために、お前自身を切り離さなきゃならないんだよ』
万福丸は、拳を激しく握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
自分だけが生き延びるためではない。母たちを生かすために、あえて自分という「死」を切り離す。それが、九歳の子供に突きつけられた、あまりにも残酷な「選別」の理屈だった。
万福丸は、ゆっくりと息を吐き、意を決して襖を開けた。
灯りに照らされた部屋の中には、いつもと変わらぬ穏やかな光景があった。
お市の方が座し、その傍らには茶々と初が寄り添っている。茶々の腕の中では、まだ何も知らぬ幼い江が、安らかな寝息を立てていた。
その光景を目にした瞬間、万福丸の胸の奥が悲鳴を上げた。
(これを、失うのか。わしの手で、切り離すのか)
「……万福丸?」
お市の方の声は、いつも通り優しく、透き通っていた。その一言で、喉の奥が熱くなる。
「母上。わしは――城を出ます。父上の命により、数名の者と北へ逃れます」
万福丸は一歩進み、母の前に正座した。時任と企てた「闇の逃亡ルート」のことは伏せ、父の用意した偽りの道を告げた。
茶々と初の顔に、動揺が走る。しかし、お市の方はただ静かに頷いた。
「そうですか。……行きなさい、万福丸」
「母上!」
茶々が、真っ直ぐな瞳で万福丸にすがりついた。
「一緒に行けばよいではありませんか! なぜ、兄上だけが……! 兄上、私たちも連れて行ってくださいませ!」
万福丸は、息を呑んだ。
連れていきたい。その小さな手を引いて、共に逃げたい。それが子供としての、偽らざる本音だった。だが、脳裏に時任の残酷な宣告が木魂する。
(わしが側にいれば、お前たちは死ぬのだ、茶々)
万福丸は、膝の上の拳を震わせながら、言葉にならない悔しさを飲み込んだ。
「……すまぬ。……すまぬ、茶々。わしは、一人で行かねばならぬ」
お市の方は、涙を堪える茶々の肩を優しく抱き寄せると、そっと自らの髪に差していた美しい「かんざし」を外した。月明かりを浴びて、それは冷たく光る。
「万福丸。これを持っていきなさい」
お市の方は、それを万福丸の手の上に置いた。
「もし……万が一、織田の兵に捕まるようなことがあれば、これを見せて『お市の子である』と名乗りなさい。兄上(信長)は非情な御方ですが、私の血を分けた子を、無碍には殺さぬはず。これが、お前の命を守ってくれるでしょう」
万福丸の手の中に、かんざしの冷たさが伝わる。
それは、母が息子の命を案じて託した、悲痛な「お守り」だった。
だが、万福丸は知っている。時任の宣告によれば、織田信長は「浅井の男児」という理由だけで、自分を確実に関ヶ原で串刺しにする。このかんざしを見せて名乗ることは、命乞いどころか、自ら死刑台に上るための切符に過ぎないということを。
母の愛が込められたこのお守りは、現実には、何の意味もなさないガラクタなのだ。
(ああ……)
万福丸は、泣き出しそうになるのを必死で堪え、顔を上げた。
そして、これまでで一番の、無邪気で力強い笑顔を作って見せた。
「ありがたき幸せ! これがあれば、わしは無敵にございますね。母上、茶々、初、江……どうか、お健やかで」
それは、母を安心させるためについた、最初で最後の、心優しい嘘だった。
万福丸は立ち上がり、母と妹たちの温かい姿を、一人ひとり魂に刻みつけるように見つめると、深く頭を下げて背を向けた。
襖を開ける。冷たい夜気が流れ込み、部屋の灯りを揺らす。
一歩、踏み出す。襖が、静かに閉ざされた。
その瞬間、足が止まった。
(戻れ。戻れ。戻れ!)
心が狂ったように叫ぶ。今ならまだ間に合う。振り返れば、あの温もりの中へ戻れる。汚名を着る屈辱も、すべて忘れて、家族と共に死ねる。
全身が、激しく震えた。
「……むりだ……」
九歳の子供の心が、限界を超えて決壊した。声が漏れるのを防ぐことすらできず、嗚咽を漏らす。
「いやだ……! 一緒に行きたい! 母上……茶々……! 皆といたい……!」
闇に向かって、ただの子供としての悲鳴が漏れる。
背後には、愛する者たちがいる。扉一枚隔てた向こうに、光がある。
『――振り返るな』
時任の声が、鋭い刃となって万福丸の背を打った。
『今戻れば、長政の死も、お前がついた嘘も、すべて無駄になる。お前が泥をかぶることで、彼女たちは光の道を歩けるんだ。……歩け、万福丸』
万福丸は、歯を食いしばった。
涙が止まらない。視界が滲んで、足元すら見えない。
それでも、彼は一歩、前へ足を出した。
「……生きる……」
掠れた声が、闇に溶ける。
「わしは……泥をすすってでも、生きる……!」
振り返らない。振り返れば、すべてが終わる。
万福丸は、泣きながら歩き続けた。
背後の温かい光を完全に切り捨て、冷たく、暗い、地獄のような「生存」の泥道へ。
その一歩一歩が、子供が自らの手で甘えを切り捨て、一人の残酷な武将へと脱皮していく音だった。
夜の小谷城に、九歳の子供の慟哭が、静かに消えていった。




