第三十五話 一虫両利の蚕
天正四年(一五七六年)二月
浅井万福丸は、数えで十二歳になった。
甲賀の山々にはまだ固い残雪が這い、梅の蕾がようやくほころび始めた頃合いであったが、万福丸の屋敷に流れる空気は、それ以上に熱を帯びていた。
美濃部の物流網を接収し、鵜飼一族を配下に加えたことで、甲賀はもはや単なる忍びの隠れ里ではなくなっていた。だが、組織の急激な拡大は、底なしの「銭」と「兵糧」の消費を意味する。信長が本格的な山狩りを開始するその時までに、甲賀を不落の要塞へと作り変えるには、今の稼ぎではまだ足りない。
「泣いても笑っても、信長は来る。ならば、奴が手出しを躊躇うほどの『価値』をこの地に生み出すまでよ。……ぬ、時任。何を笑っておる」
万福丸が脳内の同居人に問いかけると、時任はいつになく厳かで、しかし隠しきれない高揚を孕んだ声で答えた。
――「(万福丸君。ようやく、我が帝国大学が誇る最高効率の知見を導入するときが来たようだ。更なる銭と兵糧、その両面においてこの未開な時代を啓蒙する、究極の二重利用体系を私が君に提示しよう。……この策の肝は、蚕だ)」
「……蚕か。あの、桑を食う白い芋虫だな」
万福丸の眉が、ピクリと跳ねる。脳内に、数千、数万という白い幼虫が、ザリザリと音を立てて桑を食む光景が強制的に投影された。全身に凄まじい鳥肌が立ち、胃の底からせり上がるものがあったが、万福丸は「不屈のポジティブ」でそれを強引に押し戻した。
(……やめろ、時任。想像させるな。だが、あれは絹を生む宝の虫。銭になるのは分かっておる。それがどうして兵糧になるのだ。まさか、あの蠢くものを……)
――「(察しが良いな。当時の常識では絹を取るだけだが、それは資源の浪費だ。生糸を取った後に残る『蛹』。これこそが、君たちが喉から手が出るほど欲しがっている、兵の血肉を作る魔法のタンパク源となる。乾燥させれば保存も利く。捨てるところが一切ないこの仕組みこそ、合理性の極致と言えるだろう)」
万福丸は一瞬、眩暈を覚えた。あの蠢く塊を、食えというのか。しかし、次の瞬間には彼の強烈な前向き思考が、その嫌悪を「勝利への鍵」へと塗り替えていた。
「……なるほど。絹を売って鉄砲を買い、中の肉を食って兵を鍛える。一石三鳥の策か。よかろう、時任! その芋虫ども、わしが甲賀の山を埋め尽くすほどの富と力に変えてやるわ!」
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数日後。万福丸の屋敷の広間には、異様な熱気が立ち込めていた。
そこには、六助が「若様のために!」と里中から集めてきた、大量の蚕の卵と、すでに孵化し始めた無数の幼虫が詰まった籠が並んでいた。
「おいらだよ、万福丸様! 冴衣に聞いて、最高の蚕の種を探してきたよ! ほら、元気いっぱいで可愛いだろう?」
六助が満面の笑みで、数匹の白い幼虫が這い回る手を差し出す。
万福丸の顔面は、かつてないほど蒼白に引きつっていた。腰が砕けそうになり、悲鳴が喉元まで出かかっている。だが、彼は逃げなかった。
「……ぬ、ぬぅ。よ、よくやった六助。その……勇猛な姿、頼もしい限りじゃ。さあ、それを早く……あちらの棚へ移せ。一分一秒を争う大事な軍需物資ゆえな。……近づけるなよ、絶対に近づけるなよ!」
「若様はすごいなぁ! こんなにたくさんの虫を前にして、もう次の戦法を考えておられるんだ!」
六助が感銘に打たれる横で、藤堂高虎は万福丸の「引きつった笑顔」を、鋭い観察眼で見つめていた。
(……流石にございます。あの忌まわしき虫の群れを前に、吐き気すらも意志の力で抑え込み、富への変換のみを思考しておられる。これほどの克己心、これほどの強欲なまでの合理性……。この主君、やはり人の域を超えておられる。あえて嫌悪するものを傍らに置くことで、常に己を律しておられるのか)
高虎は一人、その「鉄の意志」に戦慄し、深く頭を下げた。
一方、遠藤喜三郎はすでに膝をつき、畳を濡らすほど号泣していた。
「おおお……万福丸様ぁっ! お労しやぁぁ!! 里の民が飢えぬよう、兵たちが力を付けられるよう、生理的な嫌悪をなぎ倒して、自らその不気味な虫の群れを慈しもうとされるとは……! なんと海より深い慈悲! 某、一生ついて参りますぞぉ!!」
「……喜三郎、うるさい。泣く暇があるなら、桑の葉を一枚でも多く取ってこい。……いや待て、六助! 籠を傾けるな! 一匹でも床に落ちたら、わしは……わしはお主を一生許さぬぞ!」
万福丸は冷たく、しかし必死の形相で言い放ちつつ、脳内で時任へ叫んでいた。
(時任! この変態どもをどうにかしろ! わしの威厳が、また奇怪な方向へ爆上がりしておるではないか!)
――「(いいじゃないか。注目すべきは、この佐助君の仕事だ。見たまえ、この湿度管理の完璧さを。彼は実に見込みがある)」
いつの間にか現れた三雲佐助は、時任が万福丸を通じて指示した「蚕室の最適温度と湿度」を、忍びの道具と気象観測の知識で完璧に再現していた。
「主。この環境ならば、蚕の成長速度は従来の三割増しとなります。絹の質も安定しましょう。……冴衣、お前の連れてきた男たちの火薬技術も、この乾燥工程に応用させてもらうぞ。湿気を嫌うのは火薬も蚕も同じだ」
「けっ、スカしたガキだね。……でも万福丸、あんた本当に大丈夫かい? さっきから声が裏返ってるよ?」
冴衣がニヤニヤしながら、一匹の蚕をつまみ上げて万福丸の目の前に差し出した。
「ほら、こいつが将来の金と肉だ。今のうちに仲良くしといたらどうだい?」
「……や、やめぬかぁぁ!! 仲良くなどせぬ! わしはただ、こいつらの生み出す『価値』を認めておるだけじゃ! 物理的に近づけるな、叩っ斬るぞ!!」
万福丸の絶叫が屋敷に響き渡る。だが、その瞳には恐怖だけでなく、確かな「勝機」が宿っていた。
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数週間後、甲賀の一角には巨大な蚕室が立ち並び、里の女たちが忙しく立ち働く「養蚕特区」が形成されていた。
時任の知識による「病害の防除」と「精密な温度管理」により、甲賀の蚕はかつてない生存率を記録した。
得られた絹は美濃部の物流網を通じて京へ運ばれ、堺から買い付ける最新の鉄砲や、硝石丘では補いきれない鉛や硫黄へと姿を変えた。そして、残された大量の蛹は、時任の指導で特殊な処理を施され、貴重な「高栄養兵糧(団子)」へと加工された。
それを口にした喜三郎や佐助ら兵たちは、驚くべき速度で肉体を作り上げ、厳しい山中修行にも耐えうる体力を手に入れていった。
「……食え。嫌でも食え。これが織田を討つための血肉となる。泣く時間は、奴の首を獲った後でいくらでも作ってやるわ!」
万福丸は、自分自身もその「肉(蛹)」を一切れ口に放り込み、涙目で、しかし不敵に笑ってみせた。
そのポジティブすぎる狂気こそが、甲賀を「魔王すら飲み込む泥の沼」へと変質させていく。
山に吹く早春の風は、もはや母の香りだけを運ぶものではなかった。
そこには、絹のざわめきと、力強く脈打つ戦士たちの鼓動。そして、信長という嵐を迎え撃つための、鉄と血の匂いが混じり始めていた。
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