第三話 戦国一の美女
翌日の昼下がり。
万福丸は約束通り、母・お市の方のいる奥御殿へと足を運んでいた。
縁側では、お市の方がうららかな初夏の陽差しを浴びながら、庭に咲く牡丹の手入れをしている。その傍らでは茶々と初が鞠をつき、乳母に抱かれた江がそれを見て無邪気に笑っていた。
「母上、ご機嫌麗しゅう」
万福丸が声をかけると、お市の方は振り返り、ふわりと微笑んだ。
「万福丸。今日は随分と大人しいのですね。また初たちと庭を駆け回るのかと思っておりましたよ」
「いえ、今日は少し、母上の美しいお顔を拝見しに来ただけでございます」
万福丸が冗談めかして言うと、お市の方は「おかしな子」と上品に笑い、再び牡丹へと視線を戻した。
その間、万福丸の脳内は奇妙なほど静まり返っていた。
いつもなら「あの花にはどんな虫がつく」だの「土の湿度がどうだの」とやかましい時任が、一言も発しない。ただ、万福丸の視覚を通して、お市の方の骨格、佇まい、一挙手一投足から城の構造に至るまで、穴の開くような鋭さで観察している気配だけが伝わってくる。
(……どうした、時任。すっかり黙り込んで。やはり見惚れて声も出ぬか)
万福丸が内心でからかっても、返事はない。
ただ、時任の抱いている「重苦しい感情」だけが、じわりと万福丸の胸の奥に波及してくるのを感じていた。それは昨日見せたミーハーな興奮とはまるで違う、得体の知れない暗い感情だった。
⸻
その夜。
自室の布団の上で胡座をかいた万福丸は、暗闇に向かって口を開いた。
「さて、時任。昼間はずいぶんと静かだったではないか。おぬしの言う『最終確認』とやらは済んだのか?」
しばしの沈黙の後、脳内の声が、ひどく低く、冷えたトーンで響いた。
『……ああ。済んだ。そして、最悪の事実が確定した』
「最悪、だと?」
『あの人の骨格から声帯の響き、この城の構造まで……俺の知る後世の文献や記述と完全に一致した。俺の脳が見せている幻覚でも、並行世界でもない。ここは間違いなく、史実通りの一五七三年の小谷城だ。……だからこそ、残酷な未来も確定した。万福丸、お前は数ヶ月以内に死ぬ』
あまりに唐突な宣告に、万福丸は鼻で笑った。
「馬鹿なことを。わしが死ぬ? 誰に殺されるというのだ。わしは浅井の若君ぞ」
『織田信長だ。今年の夏から秋にかけて、この小谷城は織田の軍勢に完全に包囲される。朝倉からの援軍は来ない。兵糧は尽き、城は落ちる。お前の父、浅井長政は切腹する』
万福丸の顔から、笑みが消えた。時任の言葉には、冗談や脅しの色が一切ない。ただ、冷徹な「事実」だけを読み上げる響きがあった。
「……待て。父上が死ぬ? ならば、母上は、茶々たちはどうなる! 城と運命を共にするというのか!」
『いや、お市の方様と三人の妹たちは助かる。長政が城を落ちる前に織田の陣へ送り届け、信長も妹たちを手厚く保護する。彼女たちは、織田の庇護下で生き延びる』
「そう、か……」
万福丸は無意識に安堵の息を吐いた。母と妹たちが生き残る。それならば――。
『だが、お前は違う』
時任の声が、刃のように万福丸の安堵を切り裂いた。
『男児であるお前は、禍根を絶つために生かしてはおかれない。お前は城を抜け出して逃げるが、やがて捕まり、関ヶ原で処刑される。串刺しだ。……九歳の子供が、だ』
万福丸の心臓が、早鐘のように打ち始めた。
自分が、殺される。冷たい鉄の槍で体を貫かれ、血を流して死ぬ。その生々しい想像が、幼い心を恐怖で締め付ける。
『……胸糞が悪い』
時任が、吐き捨てるように言った。
『俺は、昭和二十年三月十日の東京大空襲で死んだ。燃え盛る帝大の校舎から逃げ惑う中で、ただ生きたいだけの子供たちが、大人が始めた戦争の炎に巻かれてゴミのように死んでいくのを、この目で見てきたんだ。……戦国だから? 家の存続のため? 冗談じゃない。どんな時代だろうが、九歳の子供が串刺しにされていい理由なんて、一つもあってたまるか』
時任の言葉には、時代を超えた、命を弄ぶ者への凄まじい怒りと憎悪が込められていた。
『万福丸。歴史通りなら、お前は死ぬ。……だが、俺はもう、子供が理不尽に殺されるのを見たくない。生きろ。歴史をねじ曲げてでも、這いつくばってでも、お前は生き残れ』
恐怖で震えていた万福丸は、暗闇の中で拳を固く握りしめた。
父が死に、自分だけが処刑され、母たちは敵に飼われる。そんな未来を、ただ受け入れて死ぬなど絶対に御免だった。
「……死なぬ」
万福丸の瞳に、九歳の子供らしからぬ暗い炎が宿る。
「わしは死なぬ! 織田が来るというなら、逃げてやる。泥をすすってでも生き延びて、いつか必ずその理不尽の喉元を食い破ってやる! おぬし、わしを生き残らせることができるのだな!?」
『ああ。俺の頭脳をお前に貸す。……ただし、俺は近代兵器も、鉄砲の作り方も、気の利いた軍略も知らない。俺が持っているのは、徹底的な「虫の知識」だけだ。それを使って生き残る覚悟があるか?』
「ある! 虫の知識だろうが何だろうが、すべてわしに寄越せ! 手足となって使ってやる!」
万福丸が力強く叫んだ、その時だった。
『言ったな。よし、ならば明日からの脱出準備だ。……まずは、追手を足止めし、自らを麻酔・覚醒させるための強力な神経毒を精製する』
時任の声が、突如として冷徹な「学者」のものに切り替わった。
『明日、裏山へ行きオオスズメバチの巣を探せ。そして特定のトビズムカデを百匹集めるんだ。それらの毒腺を生きたまま抽出し、ヨウシュヤマゴボウの根のアルカロイド成分と特定の比率で調合することで、この時代には存在しない局所麻痺剤と強心剤を作り出す。抽出の際、蜂の顎の筋肉構造と毒針の――』
――どきゅんっ!!
「……っ!?」
万福丸の視界が、唐突にぐにゃりと歪んだ。
先ほどまでの怒りも決意も吹き飛ぶほどの、すさまじい眩暈。そして、胃袋が裏返るような、内臓を直接鷲掴みにされたかのような「耐え難い空腹」が、唐突に万福丸を襲った。
ただのウンチクではない。戦国時代には早すぎる、具体的で高度な『特殊防衛・医療の昆虫活用法』。そのオーバーテクノロジーのロジックを万福丸の脳に強制的にインストールした瞬間、凄まじいエネルギーが「代償」として脳内で消費されたのだ。
「ぐ、が……っ、あ……っ!?」
万福丸は畳の上でのたうち回り、腹を抱えた。餓死寸前の獣のような音を立てて、腹の虫が鳴り狂う。
『おっと、すまん。具体的な精製手順を叩き込むと、お前の脳が激しく糖を消費するんだったな。おい、しっかりしろ。明日からお前は、素手で蜂とムカデを解体するんだからな』
「な、何を……言って……!? 腹が、腹が減って死ぬ! それに、素手で蜂だと!? 狂っておるのか!」
涙目になりながら抗議する万福丸に、時任は容赦なく告げた。
『お前が手足となって使うと言ったんだろうが。串刺しにされるのと、蜂の巣に手を突っ込むの、どっちがいい?』
「……っ、両方嫌だぁぁぁ!」
九歳の若君の悲痛な叫びが、夜の小谷城に空しく響き渡った。
だが、運命の歯車はすでに狂い始めている。虫嫌いの少年と昆虫学者の、泥にまみれた生存戦略が、今ここに幕を開けた。
【時任昆虫教室:其のニ ― 琥珀色の処刑人、オオスズメバチ ―】
万福丸、空を見ろ。あの低く重い羽音……。
世界最強の蜂、オオスズメバチだ。この琥珀色と漆黒の縞模様は、自然界が発する「死の警告灯」だよ。
こいつの恐ろしさは、単なる毒針ではない。その「組織力」と「執着心」だ。
一度敵と見なせば、特殊なフェロモンを振り撒き、仲間を呼び寄せて波状攻撃を仕掛ける。時速40キロで追いすがり、強力な毒液を打ち込む。まさに空飛ぶ重装騎兵だね。
だが、彼らもまた一族を守るために命を懸けているに過ぎない。
その圧倒的な武力と統制された動き……戦国大名たちが喉から手が出るほど欲しがった「最強の軍隊」の縮図が、あの小さな体に詰まっているんだ。
万福丸、強大な力は時に理不尽だ。だが、その理不尽な力を味方につける術を、我々は昆虫から学ばなければならない。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)
おい作者、気持ちの悪い虫の説明なんてするな。まあ、でもそこそこ読めると思って頂けたら、ぜひ応援(★やブクマ)してもらえると励みになります!
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