第二十二話 糞尿の山と、蠢く救世主
鼻を突く悪臭が、脳の芯を痺れさせる。
甲賀の里の北端、窪地に設けられた巨大な肥溜めは、里中の糞尿と生ゴミが腐り落ち、どす黒い泥濘と化していた。頭上では無数のハエが黒い雲のように唸りを上げ、足元の泥の中では、数え切れぬほどの「何か」が蠢いている。
十数日前まで小谷城の嫡男として、絹の衣に包まれていた万福丸にとって、ここは文字通りの地獄であった。
「……時任。ここが『黄金の山』だと申したか。わしには、地獄の釜の底にしか見えぬぞ」
万福丸は鼻を布で覆い、涙目で肥溜めを見つめる。期待していた「救世主」の姿はどこにもない。
脳内の時任は、これまでにないほど激しく狼狽していた。
――「……計算違いだ! アメリカミズアブがいない! 奴らは外来種……十六世紀の日本に定着しているはずがなかった! 俺としたことが、分布の時代考証を誤るとは……! 昆虫研究家として、あってはならない痛恨のミスだ!」
(何を喚いておる。救世主とやらはどこだ。おぬしの能書きがただの虚言なら、わしはおぬしを二度と信じぬぞ)
万福丸が心の中で冷たく突き放すと、それが時任のプライドに火をつけた。
――「……うるさい! いないなら、今ここにある『在来種』を最大活用するまでだ! いいか万福丸、そこら中に湧いている『蛆』と『センチコガネ』をかき集めろ。ミズアブほどの効率は出なくとも、俺の知識があれば、ここを『資源の生産工場』に変えてやる!」
時任が、戦国の常識を超越した「生命の循環を促す理」の知見を詳細に授けた、その瞬間だった。
「……っ、が……あ……!」
万福丸は激しい眩暈に襲われ、泥濘の中に膝をついた。身体中の芯が消え失せ、骨の髄までが空洞になったかのような虚脱。同時に、全活力が一瞬で強奪されたかのような、耐え難い空腹と渇きが彼を襲った。時任の高度な思考を理解するための対価――身体的代償が、九歳の小さな身体を容赦なく蝕んでいく。
「若様!? いかがされました!」
喜三郎が駆け寄るが、万福丸は泥を掴んだまま、荒い息を吐き、首を振るのが精一杯だった。
「精々そこで泥にまみれて、あたしが里に戻るための『手土産』としての価値を証明しなよ。」
冴衣の突き放すような言葉が飛ぶ。その瞬間、作業をしていた高虎と喜三郎の動きが止まった。
高虎は、糞を汲む手桶を静かに置くと、無機質な視線を冴衣に向けた。
「……冴衣。そこへなおれ、斬ってやる。若様の不快を長引かせるくらいなら、お前を消すほうがよほど早い」
高虎の手が、泥に汚れていない刀の柄にそっとかかる。それは、邪魔者を排除しようとする冷徹な殺意だった。
「冴衣! お主、よくもそのような口を!」
喜三郎も、怒りで顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「若様は浅井の誇りを背負っておられるのだぞ! 泥にまみれてもお主のような小娘に侮られる筋合いはない!」
一触即発の空気。だが、万福丸は胃を抉るような飢餓感に耐え、泥を支えに立ち上がった。
「やめよ……。……っ、…………」
万福丸の声は、掠れて消え入りそうだった。喉の奥から漏れるのは、言葉にならない湿った呻き。内側から空洞になった身体を必死に支え、胃を握りつぶされるような痛みに耐えるその姿は、端から見れば「死の淵」に立っているようにしか見えない。
「高虎、喜三郎、あいつを責めるな。あいつはあいつで、生きるために必死なだけだ。利用価値があるなら利用すれば良い。わしがそれ以上の価値を見せれば済む話だ」
(……それより時任、次の指示を。わしは一刻も早く、この場を片付けたい。胃が、引き千切れそうだ……)
――「……いいか、ただ虫を湧かせるだけじゃない。泥に空気を入れて適度な水分を保ち、『発酵』の熱を促すんだ。悪臭を放つ腐敗を止め、虫と菌の力でこの糞尿を極上の『肥料』へと変成させる。温度と湿度の管理を怠るな。種の増殖、つまりブリーディングを始めるぞ」
万福丸は、全身に鳥肌を立て、意識を失いそうなほどの疲弊の中で泥の中に手を突っ込んだ。
(……母上、茶々、初、江。見ておれ、わしは地獄の泥を啜ってでも、おぬしたちの笑える場所を創ってみせる)
万福丸は時任から授かった理を正確に指先へと写し、泥と幼虫を選別していった。
その一部始終を、遥か頭上の杉の樹上から、呼吸すら周囲の葉擦れに同化させて見下ろす影があった。
影は音もなく、泥に塗れる稚児の狂行をただ静かに見つめ続けている。
それから数週間の時が流れた。
冴衣が鼻を摘まみながら様子を見に来ると、そこには異様な光景が広がっていた。
あれほど酷かった悪臭が劇的に和らぎ、肥溜めの中に、丸々と太った数え切れぬほどの「蛆」が湧き、それが一箇所に集められていた。さらに、分解された汚泥は、明らかに周囲とは異なる豊かな土の兆候を見せ始めている。
喜三郎がその虫を鶏の群れに投げ込むと、鶏たちは狂ったようにそれを突き、見る間に丸々と肥えていった。
冴衣の打算的な瞳が、初めて大きく揺れた。
「……気味が悪いね。だが、この『仕組み』は、金になるかもしれない」
冴衣は、万福丸を単なる「手土産」ではなく、不浄を富に変える、得体の知れない「利を生む化け物」として、その認識を改めざるを得なかった。
万福丸は、凄絶な不浄の業と、あの日の代償による深い消耗から、未だ青白い顔をしていた。喜三郎に支えられ、ようやく自力で立っている有様でありながらも、脳内で勝ち誇る昆虫研究家に毒づく。
(……時任。この虫、煎じて食えば精がつくなどと、二度と申すなよ。わしは、絶対に、食わんぞ……)
不浄の泥底から、甲賀を揺るがす「虫の革命」が静かに産声を上げた。
【時任昆虫教室:其の十 ― 幻の分解者・アメリカミズアブ ―】
万福丸、済まない。私の計算違いだ。昭和の研究室では「廃棄物処理の主役」だったが、この時代の日本にはまだ影も形もないらしい。だが、その失われた「理」だけは叩き込んでやる。
・分解の理:本来、この幼虫は糞尿や死骸、生ゴミを爆速で分解し、自らの血肉へ組み替える最強の掃除屋だ。その処理能力は他の虫を圧倒し、昭和の農学界でも「魔法の分解装置」と呼ばれていた。
今はまだ日本におらぬ救世主だが、その「分解効率」を理想として泥を捏ねろ。不浄をただのゴミとして放置する者は滅び、それを分解し、円環へ引き戻す者だけが、真に大地を支配するのだ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




