第二十一話 評定・甲賀五十三家
野洲川のせせらぎが遠のき、一行の足元は険しい岩場と、昼間であっても光を遮るほどに生い茂った常緑樹の森へと変わった。近江の南端に位置する信楽の山中。そこは古来より独自の掟で動く「甲賀五十三家」の聖域である。
無言の忍びたちに前後を挟まれながら一歩踏み込むごとに、肌を刺すような視線がまとわりついてくる。
――「おい万福丸、気づいているか? さっきから右前方の杉の木で鳴いているシジュウカラ、あれは鳥じゃないぞ。発声の諧調が一定すぎて、生物特有の『揺らぎ』が欠落している。まるで判で押したように同じ音を繰り返しているぞ。おそらく合図だな」
脳内で時任が、冷や汗をかきながらも冷静極まる分析を口にする。
(……ほう。鳥の声で人を操るか。面白いな)
――「感心してる場合か。これは一種の『音響的な哨戒網』だ。侵入者が通るたびに、鳴き声の変調で位置を特定し、奥へ伝達している。自然の音を利用した隠密の通信術……。帝国陸軍の暗号班に見せてやりたいね。野蛮な時代だと思っていたが、音響学の応用に関しては、昭和の学士よりよほど筋がいい」
時任の感心したような、それでいてどこか怯えたような声を聞きながら、万福丸は湿り気を帯びた土の匂いを深く吸い込んだ。案内役の冴衣の背中も、里の深奥に近づくにつれて強張っているのが分かった。
案内されたのは、切り立った岩肌をくり抜くようにして建てられた、巨大で無骨な寄合所であった。
薄暗い座敷には、松明の脂の匂いと、拭い切れない古い血の匂いが染み付いている。上座を囲むのは、甲賀の筆頭格である望月吉棟をはじめとする、各家の当主たちであった。彼らは互いに座を譲る気配すらなく、抜き身の刀のような鋭い視線を万福丸へと突きつけている。その傲岸な座り方一つで、ここが誰か一人の主に従う場所ではなく、油断すれば身内すら食い破る「野獣の群れ」の会合であることを物語っていた。
「……浅井の遺児だと。冴衣、よくぞ連れて参った。これぞ織田を討つための天の配剤。大いに利用してくれようぞ」
当主の一人である美濃部茂濃が、ひどく虚勢を張った声で言い放つ。
だが、望月吉棟が、冴衣を睨みつけ、低い、地を這うような声で遮った。
「織田の怒りを買うだけの『毒薬』など、今の甲賀には不要。冴衣、鵜飼の復権を望むなら、もっとマシな手土産を持て」
座敷の空気が一段と張り詰める中、三雲成持が太い腕を組み、万福丸を値踏みするように鼻を鳴らした。
「……だが望月殿、浅井の嫡男を見殺しにしたとなれば、甲賀の武名は地に堕ちるぞ。この小僧、泥にまみれてなお、その眼光だけは死んでおらん」
その言葉を引き継ぐように、山中長俊が静かに口を開いた。
「三雲殿の仰る通り。だが、情けだけでは飯は食えぬ。この稚児に、織田の手を逃れ、この山を生き抜くだけの『価値』があるのかどうか……。まずはそれを見極めるのが先決であろうな」
「いかにも。この小僧が、ただの食い詰め浪人の種ではないと見極めるまで、褒美などくれてやらぬ」
望月の言葉は冷淡だった。冴衣は短く「ちっ……」と舌打ちをする。自身の計算では、万福丸という超弩級の切り札を差し出せば、即座に地位の回復が叶うはずだった。だが、目の前の当主たちは、新たな火種を歓迎する余裕などとうに失っていたのだ。
座敷の空気が一段と冷え込み、当主たちの手がそれぞれの得物に掛かろうとした、その時だった。
「ぶふっ、あはははは!」
座敷の中央で、泥まみれの九歳の少年・万福丸が、突如として腹を抱えて笑い出した。
――「おい万福丸! 笑うなと言ってるだろ! 相手は殺しのプロだぞ、一太刀で細切れにされるわ!」
時任の悲鳴に近い忠告を、万福丸は心地よい音楽のように聞き流した。
「いや、済まぬ。あまりに滑稽でな」
万福丸は笑い涙を指で拭いながら、望月たちを見据えた。
「おぬしら、未だに六角の威光に縋っておるのか? 鯰江城で足掻く承禎・義治父子が、いつまでも甲賀の盾になるとでも?」
その言葉に、当主たちの顔色が一変した。
「断言してやろう。鯰江は間もなく落ちる。石部も続こう。いずれ六角は敗残の徒として、この山へ逃げ込んでくる。その時、おぬしらは死に体の旧主を抱え、織田の何万という大軍を相手にするのだぞ」
万福丸は一歩前へ出た。その瞳には、未来の地獄を幻視させるような昏い炎が宿っている。
「わしという『猛毒』を値踏みしている余裕など、おぬしらには既に無いのだ。わしを使いこなすか、六角とともに泥の中で野垂れ死ぬか。……選ぶが良い」
座敷の空気が完全に凍りついた。九歳の童が放つには、あまりにも異常な覇気と、冷徹すぎる戦局の看破。
背後で控える高虎は、わずかに顎を引き、周囲の殺気の密度を測っていた。
(……距離、三間。抜刀からあの望月の喉笛を裂くまで、二呼吸。若様は笑いながら、甲賀の当主たちに『真の理はどこにあるか』を突きつけておられる。なんと恐ろしい、神算鬼謀か)
高虎は、万福丸の「ただの爆笑」を、高度な心理戦の序曲だと深読みし、冷徹な顔のまま己の刀の鯉口を密かに切る。
一方で、喜三郎はすでに感極まっていた。
(おお……若様は、浅井の滅亡という地獄を見て、もはや生死を超越されたのだ! あの笑みは、救えぬ者たちへの慈悲……! 父上、某は今、真の武士の姿を見ております! 某も、某も共に笑いとうございます!)
喜三郎は刀の柄を握りしめながら、滝のような涙を流し、震える唇で万福丸の背中を見守っていた。
冴衣は、当主たちを震え上がらせる万福丸と、その後ろで殺気を放つ大男、そして号泣する男を交互に見比べ、心底ドン引きしたような顔でため息をついた。
(……なんだ、この集団。ガキは笑いながら予言めいたことを吐いてるし、岩みたいな男は泣き叫んでるし、蛇みたいな目つきの男は一人で感心してやがるし……。どっか頭のネジが吹っ飛んでないか?)
望月吉棟は微かに目を細め、底知れぬ胆力を見せる少年を値踏みするように睨みつけた。
「……面白いガキだ。だが、口先だけで生き残れるほど、甲賀の山は甘くない。冴衣、お前が持ち込んだ厄介事だ。……明日からこいつらを、里の最底辺、『汚物処理』へ回せ。死ぬまで糞尿の山を這いずり回らせてやれ。そこでなお、その笑い顔が崩れねば、改めて話を聞いてやる」
「はぁ!? なんであたしまで! 冗談じゃないよ、あたしは鵜飼の――」
冴衣が血相を変えて抗議の声を上げるが、万福丸は底抜けの笑顔で力強く頷いた。
「おお、汚物処理か! 面白そうではないか。案内いたせ!」
万福丸は威風堂々と座敷を後にした。廊下に出るなり、彼は誰にも聞こえぬほどの小声で吐き捨てた。
(……時任。汚物処理とは何だ。わしは虫だけでなく、不潔なものも嫌いなのだが)
――「……お前、それは俺に聞くなよ。だが、待て。汚物、人糞、死骸……。昭和の生物学から言わせれば、そこはただの不浄の場じゃない。帝国大学で研究されていた、最先端の『生命循環の理』を戦国に持ち込む絶好の実験場だ。いいか万福丸、そこにあるのはゴミじゃない。俺たちの再起を支える、富と食糧の山だ」
(――断る! わしは絶対に、不潔な泥や不気味な虫など触らんぞ!)
――「ほう? なら死ぬか? お前のちっぽけなプライドと、茶々たちの命、どっちが重いんだ? 嫌なら肥溜めに飛び込んで死ね。俺は一向に構わんぞ」
(――ぐ、ぬぅぅ……ッ! 卑怯な、おのれ時任……ッ!)
脳内での激しい抵抗の末、天正元年九月。浅井の嫡男は、甲賀の最も深い泥底から、歴史を塗り替える一歩を踏み出したのである。




