第二十話 覇道の味は、泥の味
一歩、また一歩と踏み込むごとに、肌を刺すような視線がまとわりついてくる。
信楽の山中は、昼間であっても光を遮るほどに常緑樹が生い茂り、濃密な湿気を孕んでいた。だが、万福丸の心の内は、それとは別の「地獄」で埋め尽くされていた。
(――時任……。わしは、もう終わりだ。武士としての名誉も、人としての矜持も、あの泥まみれの蠢く紐と一緒に胃の腑へ流し込んでしまった。……ああ、思い出すだけで吐き気がする。口の中にまだ、あのぬちゃりとした感触が残っておるぞ……)
――「いつまでもウジウジ言うなよ。おかげで熱も引いて空腹も落ち着いただろ? ミミズのアミノ酸様々だ。お前は今、歴史上最も栄養状態の良い九歳の落ち武者なんだぞ」
(――黙れ! 栄養など知るか! わしは一生、自分を許せぬ気がする。母上や妹たちに会った時、この口で安否を問うことすら憚られるわ! 汚らわしい、汚らわしいぞ自分……っ! …………ところで時任。おぬし、あのように効能を語るからには、当然ミミズを食ったことがあるのだよな?)
――「…………」
(……おい。なぜ無言になる)
――「い、いや! 俺の時代にはもっと衛生的で近代的な解熱薬があったからな! 生物学の知識としては完璧だが、わざわざ生で実食する機会は……その……」
(――おのれ貴様ぁぁっ! わしに泥ごと丸呑みさせておいて、己は食ったことがないだと!? 許さん、いつか必ずあの蠢く紐を、おぬしの口にねじ込んでやるからな!)
そんな情けない脳内会議で腹が煮えくり返り、半泣きになりながらも、万福丸は表面上、氷のように無機質な表情を保って歩き続けていた。
その後ろ姿を見つめる藤堂高虎は、戦慄に近い敬意を抱いていた。
(……ミミズを食らってなお、一切の動揺も見せず、ただ前方のみを見据えておられる。あれはもはや、人としての情動を切り捨て、生存の理のみに従う覇王。……生涯を懸けるに足る主とは、まさにこのような御仁を指すのだな)
不意に、風が止まった。
木々の隙間から、音もなく数人の影が滑り落ちるように現れた。鎖帷子の擦れる微かな音さえさせず、道を塞ぐように立ちふさがった彼らの目は、感情の一切を削ぎ落とした刃のようであった。
「……止まれ。ここは『放たれ(追放者)』が、汚い足で踏み入る場所ではない」
影の一人が、蔑むような声で冴衣を射抜いた。
「禁じられた外仕事で小銭を稼ぎ、泥棒の真似事までしていると聞いたが……。没落した家の末路とは、哀れなものだな」
冴衣は動じず、不敵に鼻で笑った。彼女は首に巻いた「紗」をゆっくりと解き、それを指先で弄ぶ。
「相変わらずだね、信楽の番犬共は。……だが、あたしはもう小銭稼ぎの泥棒じゃない。今日は、没落した『鵜飼』の氏を買い戻しに来たんだ」
冴衣は親指で、背後の万福丸を無造作に指し示した。
「この、織田信長が血眼になって探している『北近江の亡霊』。浅井の血を引く最後の一人という、極上の手土産を連れてな」
ピリッ、と空気が凍りついた。
高虎は抜刀せず、鯉口を切って親指で鍔を押し上げるに留めた。喜三郎もまた、怒りで顔を真っ赤にしながらも、腰の刀に手をかけ、主君の合図を待っている。……京の宿で、万福丸に諭された通り、「この女の裏切りこそが甲賀への入場券」であることを、彼らもまた理解しているからだ。
――「ひ、ひぃぃぃ……ッ! やっぱり始まった! 万福丸、完全に囲まれてるぞ! 前後左右、樹上にも気配がある。今の状況で助かる道理なんて、万に一つもありゃしない! おしまいだ、ミミズを食ってまで生き延びた結果がこれかよ!」
(……時任、うるさいわ。一つあれば十分よ。……それより、おぬしが言っていた『甲賀の弱点』とやらを教えよ。くそっ、喋るたびに、喉の奥からさっきの土の味がするわ)
――「わ、分かった、落ち着け! 甲賀は独立した家々の連合体、『郡中惣』という合議制で動いている。連中の存立の根底にあるのは『誰にも支配されない自由』だ。信長という絶対的な支配者が、それを許すはずがない……そこを、突くんだ!」
「控えよ、高虎、喜三郎。……今は、わしが喋る」
万福丸の静かだが、絶対の服従を強いる冷徹な声が、家臣たちの殺気をピタリと縫い止めた。
驚愕する忍びたちの間を割って、泥と熱の余韻にまみれた九歳の少年が、ゆっくりと前へ歩み出る。
「よく言った、冴衣。おぬしのその強欲さ、見事な案内であった」
万福丸は冴衣の裏切りに微塵も驚くことなく、むしろ「待っていた」とばかりに不敵に笑った。そして、己の頭を覆っていた汚れた笠を、自らの手でかなぐり捨てる。
晒されたその眼光が、熟練の忍びたちの直感を強烈に逆撫でした。
「浅井長政が嫡男、万福丸である。……わしをただのガキと侮るなよ」
小谷城の炎を潜り抜け、信長という巨悪と対峙し、極限の泥を啜って生き延びてきた瞳。そこには、九歳の童にはあり得ない、修羅の如き光が宿っていた。
「甲賀の忍びよ。わしの首を信長に差し出せば、冴衣の言う通り、莫大な恩賞が手に入ろう。……だが、その後はどうなる?」
万福丸は一歩、また一歩と忍びたちへ距離を詰める。
「おぬしらが守り抜いてきた『郡中惣』……その自治の掟を、信長という怪物が許すとでも思うのか? あの男は、己以外のいかなる理も認めぬ。わしを売れば、次にすり潰されるのは、この甲賀の山よ」
忍びたちの足が、無意識のうちに半歩、後ろへ退がった。
彼らが相対しているのは、保護を求める亡命者ではない。自分たちの存立を脅かす「未来の絶望」を突きつけに来た、若き王であった。
「わしを今すぐ信長に売り渡して自らの首を絞めるか。それとも……わしを『猛毒』として懐に飼い、織田の理を根底から覆すための反撃の牙を研ぐか。選べ! 甲賀五十三家、郡中惣の度量を、わしに見せてみよ!」
森を揺るがすような、万福丸の一喝。
静寂が、森を完全に支配した。
手練れの忍びたちは顔を見合わせ、やがて、その中の一人がゆっくりと片膝を突いた。
「……童の放つ覇気とは思えぬ。それに、その恐ろしいまでの舌鋒の鋭さ……」
影の男が、短く、しかし明確な敬意を込めて告げた。
「……案内いたそう。当主たちの待つ、寄合所へ。ただし、生きて戻れるかは己の器次第だ。……鵜飼の娘、おぬしも来い」
霧の向こうに、甲賀の深奥へと続く道が開かれた。
冴衣は己の想定すら超えていく万福丸の器に一瞬だけ息を呑み、不敵な笑みを返しつつ後を追う。
――「た、助かった……。心臓が止まるかと思ったぞ。お前、よくあんなハッタリが言えるな。……俺は、やっぱりお前みたいな奴の脳内にいるのが一番安全な気がしてきたよ」
時任が、安堵の溜息を漏らしながら情けなく呟いた。
九月の冷たい風が、甲賀の山々を吹き抜けていく。
浅井万福丸、逆襲の序章が、今ここに幕を開けた。




