第十九話 虚報と、地竜
翌朝。一行は京の喧騒を背に、逃亡の足を南へと向けていた。
目指すは近江の南端、信楽の山中に広がる甲賀の郷。近江へ入るには琵琶湖の南端に架かる「瀬田の唐橋」を渡るのが最も早いが、交通の要衝であるあそこは織田の監視が最も厳しい。高虎と冴衣の判断により、一行は宇治から山を越え、信楽へと抜ける迂回ルートを選択していた。
「……前方に、関所です」
険しい山道を歩き始めて半日。先頭を行く高虎が足を止め、低く鋭い声を張った。
山越えを監視するために急造された柵と、数人の足軽が槍を手に退屈そうに立っている。
喜三郎が顔を強張らせて刀の柄を握るが、冴衣がそれを鼻で笑って制止し、堂々と歩み出た。
「おい、そこの四人。どこへ行く。近頃は浅井の残党狩りで物騒だ。笠を取って顔を見せろ」
足軽の一人が面倒そうに片手を上げた。張り詰めた空気が流れ、高虎の親指が刀の鍔を押し上げる。
だが、別の足軽があくびを噛み殺しながら同僚の肩を叩いた。
「おいおい、真面目にやるだけ無駄だって。浅井のガキなら、とっくに西の海を渡って唐の国へ逃げたって噂じゃねえか。こんな近江の山奥にいるわけがねえよ」
「それもそうだな。……よし、通れ通れ」
足軽たちは万福丸の笠の奥を確かめることもなく、あっさりと道を空けた。
関所を抜け、声が聞こえない距離まで歩いたところで、冴衣が肩を揺らして笑い出した。
「……傑作だね。あんたが村の婆さんに吹き込んだ『西へ逃げた』って嘘が、足軽の末端にまで完璧に行き渡ってる。見事な流言の種まきだ」
「人は、面白い噂ほど声高に語りたくなるものよ」
万福丸は笠の縁を直し、涼しい顔で答えた。
だが、その涼しい顔も長くは続かなかった。
昼を過ぎた頃から、冷たい秋雨が降り始めたのだ。九月の山中は、陽が落ちると急激に熱を奪う。これまでの過酷な逃避行の疲労と冷えが限界を超え、九歳の小さな体はついに悲鳴を上げた。
「若様……ッ! お体が、火のように熱い!」
岩陰で雨を凌ぐ中、万福丸が糸が切れたように倒れ込んだ。喜三郎が慌てて抱き起こすが、その顔は異常なほど赤く、荒い息を吐いている。
「冷えと過労だ。九つのガキが、休まず山を歩き続けたんだから当然さ。……けど、薬なんてないよ」
冴衣が冷徹に状況を告げる。
――万福丸、意識を保て。足元の泥を見ろ。雨で地中から這い出してきた奴らがいる。
脳内で、時任の無機質で熱を帯びた声が響く。
――ミミズ(蚯蚓)だ。漢方では『地竜』と呼ばれる立派な解熱薬だ。泥を扱き出して生で啜れば、必須アミノ酸の塊にして極上のタンパク源にもなる。
その瞬間だった。
万福丸の視界が、ぐらりと激しく歪んだ。時任が未来の『医学・栄養学の知識』を脳内で精密に展開したことによる代償――急激な糖分消費だ。
高熱で焼けるような身体の奥底から、胃袋を雑巾のように力一杯絞り上げられるような、猛烈な飢餓感が襲いかかってくる。
(――ぐっ、あぁっ……!?)
――熱を下げ、この飢餓を満たしたければ、あれを食うしかないぞ。
(――ひっ……! 黙れ時任! あんな、のたうち回る泥の紐を食うくらいなら、熱で死んだ方がマシじゃ……!)
熱と空腹の二重苦の中、万福丸の脳内で王の威厳など欠片もない剥き出しの悲鳴が上がる。
その時、冴衣がふらりと歩み寄り、泥濘から極太のミミズを二、三匹、素手で無造作に摘み上げた。
「おや、立派なのがいるじゃないか。ほら、お坊ちゃん。山の連中は、熱が出たらこれを刻んで飲むんだ。あたしが口に突っ込んでやろうか?」
冴衣はニヤニヤと意地悪く笑いながら、蠢くミミズを万福丸の顔の前にぶら下げた。
(――ひぃぃぃッ! 近づけるな! やめろ!!)
――ほう? 妹たちを残して熱で死ぬ気か? お前のちっぽけな誇りと、茶々たちの命、どっちが重いんだ?
(――ぐ、ぬぅぅ……ッ! 卑怯な、おのれ時任……ッ!)
万福丸は蒼白な顔にうっすらと涙を浮かべ、空腹で小刻みに震える指で、冴衣の手からミミズをひったくった。
「……よかろう。わしが、自ら食う」
震えながら泥を扱き出し、決死の覚悟でそれを口に放り込み、咀嚼せずに丸呑みする。
その悲壮なまでの姿を、少し離れた場所から見ていた高虎の瞳が、鋭く細められた。
(……一切の躊躇がない。己の身分を鼻にかけることもなく、ただ生存の『理』のみに従っておられる。震えておられるのは、這い虫を前にしてなお己を律している証拠……この御方、底が知れん)
「……流石にございます、若様。ただ生き残るため、自ら進んで泥を啜るその御覚悟。ならば、俺も熱病の予防として相伴にあずかろう」
高虎は深く頭を下げ、冷徹な顔のままミミズを拾い上げ、真顔で咀嚼し始めた。
「おおお、若様ぁっ!」
その隣で、喜三郎が滝のような涙を流して地面に突っ伏した。
「浅井の御血筋であられるお方が、あのような泥の虫を食らわねばならぬとは……! 若様は、我ら家臣に生き抜く強さを示すため、自ら率先して……! ああ、お労しや! ここは某が! 某がすべて平らげてご覧に入れまするっ!」
喜三郎は号泣しながら、泥を掘り返してはミミズを乱獲し、次々と口に放り込み始めた。
「…………」
冴衣は、その地獄のような光景を、心底ドン引きしたような顔で見ていた。
(……なんだ、この集団。ガキは涙目で震えながら悟ったような顔してるし、岩みたいなデカい男は泣き叫んでるし、蛇みたいな目つきの男は一人で感心してやがるし……。しかも、家臣どもは熱もないのにミミズを貪り食うなんて……)
冴衣は自身の首に巻いた紗を引き上げ、深々とため息をついた。
「……あんたら、本当に浅井の生き残りか? どっか頭のネジが吹っ飛んでないか?」
「わしは……正常じゃ……」
涙目の万福丸が、カサカサの唇で精一杯の虚勢を張った。
「すべては、盤上の理よ。……(時任、次あんなものを『食え』と強要したら、本当に腹を切るからな!)」
翌朝。
地竜の効能と凄まじい執念か、万福丸の熱は引き、一行はついに信楽の山中へと足を踏み入れていた。
野洲川のせせらぎが遠のき、足元は険しい岩場と、光を遮るほどに生い茂った常緑樹の森へと変わっていく。
一歩踏み込むごとに、肌を刺すような視線を感じる。織田の兵が放つ殺気とは異なり、森そのものが意思を持って侵入者を拒絶しているような、湿り気を帯びた圧迫感。
「……ここから先は、信楽の山だ」
ミミズの余韻で少し引き気味の冴衣が、気を引き締めるように声を落とした。
「歓迎されていないね。……来るよ」
深い森の奥深く。甲賀五十三家の「聖域」が、ついにその口を開けて彼らを待ち構えていた。
【時任昆虫教室:其の九 ― 泥底の救世主・地竜 ―】
万福丸、熱で視界が歪むか? 腹が鳴って動けぬか? ならばその震える指で、足元の泥を抉れ。雨上がりの腐葉土の下に蠢く「泥の主」こそ、お前の命を繋ぐ最後の糸だ。
• 再生の理:漢方では「地竜」と呼ばれ、古来より高熱を吹き飛ばす解熱の特効薬として重宝されてきた。泥を扱き出し、その身を飲み込めば、豊富に含まれるアミノ酸と酵素がお前の枯れ果てた細胞を内側から叩き起こす。
• 循環の理:こいつらは不浄な土を喰らい、黄金の土へと変える「大地の耕作者」だ。昭和の私の研究室でも、土壌の健康を測る指標は常にこの「泥の紐」の密度にあった。
高貴な血筋も誇りも、飢えと病の前では塵に等しい。泥を啜り、この「のたうち回る生命」を血肉に変えて生き延びろ。地の底を這いずり回った者だけが、いつか天を仰ぐ資格を得るのだ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




