第十八話 月下の慟哭
冴衣の瞳の奥に一瞬だけ宿った、獲物を値踏みするようなぎらついた光。万福丸はそれを見逃さなかった。だが、彼女を拒絶するどころか、その毒をあえて飲み込もうとする主君の気配を察し、高虎が鋭く声を上げた。
「若様、正気ですか! この女、自ら『追放者』だと言いました。里の掟を破るような不届き者を信じ、その案内で懐に飛び込むなど……。もしこの女が己の保身のために我らを売れば、その瞬間に我らの命運は尽きます!」
高虎の叫びに呼応するように、万福丸の脳内でも時任の怒声が爆発した。
――おい、万福丸! お前、まさか本気であいつを案内役にするつもりじゃないよな?
時任の声は、もはや警告を通り越して悲鳴に近い。
――正体をバラしただけでも最悪なのに、その上、命まであいつに預けるってのか? 火薬庫の中で焚き火するようなもんだぞ! あいつのあの顔、見たろ? 完全に「こいつを手土産にすれば起死回生だ」って顔をしていたじゃないか!
(……時任、落ち着け。あやつを案内役にする。それも、今すぐにな)
万福丸は心の中で、静かに、しかし鋼のような冷徹さで応じた。
――は!? お前、正気かよ! 裏切られたら、そこでお前の「歴史」は終わりなんだぞ!
(時任よ。裏切りとは、売る相手がいなければ成立せぬ。そして、売る時期を間違えれば、売った本人もただでは済まぬのだ。……冴衣は「甲賀での居場所を取り戻したい」と腹の底で考えておる。ならば、わしらは彼女にとって『最も高価な通行証』よ。あやつが自分を最も高く売りつけるために、わしらを最高の状態で里の深奥へ送り届ける。その計算を逆手に取って使いこなすのが、人の上に立つ者の業だと思わぬか?)
――……理屈はそうかもしれないが、危うい橋すぎる。そんなの、ただの狂気だ。
(狂気でなくては、この乱世、信長という怪物を超えることなどできぬ。案ずるな。あやつの『野心』は、わしが乗りこなしてやる)
万福丸は脳内の会話を断ち切り、自分を凝視する高虎へと視線を向けた。
「高虎、案ずるな。……裏切りとは、利がなければ生まれぬ。冴衣にとって、わしを今ここで織田に突き出すより、甲賀の当主たちの元へ連れて行く方が、得るものが大きい。そうであろう、冴衣?」
突然話を振られた冴衣は、不敵に肩をすくめた。
「……へえ。九つのガキが、随分と冷めたことを言うじゃないか。あたしの腹の中、全部見透かしたつもりかい?」
「おぬしの打算、まるごと飲み込んでやろうと言ったはずだ。案内せよ、冴衣。わしを、甲賀の深奥へと導け」
万福丸のその言葉には、一切の迷いも、甘えもなかった。そのあまりの果断さに、慎重派の高虎も、情熱派の喜三郎も、ただ圧倒されて言葉を失うしかなかった。
夜。交代で夜番に立ち、部屋には万福丸と時任の意識だけが残された。
窓の外、月明かりに照らされた京の街は、静まり返っている。だが、その静寂の下で、昼間出会ったあの男――明智光秀が、今もどこかで息を潜めている。
「……時任。昼間の男のことだが」
万福丸が低い声で語りかけると、ようやく時任のトーンが落ち着きを取り戻した。
――……ああ。明智十兵衛光秀だ。将来、本能寺で信長を焼き殺す男。……お前にとっては、自分の代わりに仇を討ってくれる死神みたいなもんだな。
「光秀……あやつが、信長を討つのか。このわしが本来、この手で討つべき仇を……ッ」
万福丸は言葉を切り、膝の上でギリッと拳を握りしめた。暗い部屋の中に、荒い息遣いだけが響く。己のすべてを奪った男の首を、他人が刎ねる。その歴史の理不尽さを飲み込もうとする凄絶な葛藤が、小さな体を震わせていた。
――……悔しいか。
時任が静かに問う。
「……悔しくなど、あるものか」
万福丸は血が滲むほど唇を噛み締め、吐き捨てるように言った。
「今のわしには、あ奴の寝首を掻く牙すらない。ただの無力な子供じゃ。……ならば、わしの代わりに魔王を葬ってくれるあの男に、今は泥を舐めてでも感謝せねばならぬ。……何がなんでも生き延びて、いつか必ず盤面をひっくり返す。それが今のわしにできる、最大の復讐じゃ」
それは、王であろうとして無理矢理に己を納得させる、血を吐くような強がりだった。
――……万福丸。お前、少し大人になったな。小谷城にいた頃は、現実も直視できずに『父上を助けるんだ』って、そればかり繰り返して泣いてばかりの子供だったのに。
その瞬間、万福丸の肩が、不意に、激しく揺れた。
彼は顔を伏せ、膝の上で拳を血が滲むほど握りしめる。
「……それは。……家族の安否のこと、ゆえ。当たり前で、あろう……!」
その声は、これまで見せてきた王者の仮面が剥がれ落ちた、九歳の子供としての、剥き出しの悲鳴だった。震える背中。こらえきれない嗚咽が、暗い部屋に漏れ出す。
――……すまん。俺が悪かった。お前は、九歳で背負うべきじゃないものを、全部背負わされてるんだもんな。
時任の声が、今までになく柔らかく、万福丸を包み込む。
――泣くな。お前は十分、戦ってる。……あんな地獄を見て、今こうして京で不敵に笑って、したたかな泥棒の野心すら使いこなそうとしている。……それだけで、お前はもう立派な『武将』だよ。
「……ふん。時任に褒められても、何の足しにもならぬわ」
万福丸は乱暴に袖で目を拭い、再び不敵な笑みを作った。
「行くぞ、時任。甲賀か。……あそこをわしの根城とし、いつか必ず……天下の喉笛を食い破る『牙』を育ててやるわ。奪われたすべてを取り戻すためにな」
翌朝、京の朝焼けは血のように赤かった。
一行は、冴衣の案内のもと、一路「甲賀」を目指し、再び動き出す。




