第十七話 魔窟の都
鴨川のせせらぎが、遠く喧騒に紛れていく。
比良の静寂とは対極にある、熱を孕んだ人の海。元亀から天正へと移ろうこの時代の京は、織田信長という巨大な心臓によって、かつてないほど激しく、そして残酷に脈動していた。
「……ここが、京か」
万福丸は笠の縁をわずかに持ち上げ、視線を流した。
往来には色鮮やかな小袖が溢れ、南蛮渡りの珍品を並べる商人の威勢の良い声が響く。だが、その華やかさの裏側には、常に研ぎ澄まされた刃物のような緊張感が張り付いている。角々に立つ織田の足軽たちの目は、獲物を探す鷹のように鋭く、通行人の背中を値踏みしていた。
万福丸の顔には泥を塗り、笠を深く被せてはいた。しかし、それでも隠しきれぬ品がある。母・お市の方の面影を宿したその輪郭や、育ちの良さを感じさせる瑞々しい肌の質感は、雑多な民草の中に混じれば、かえって異質な存在として浮き上がってしまう。道ゆく者がふと足を止め、その笠の奥を覗き込もうとするたびに、高虎が音もなくその視線を遮った。
四人が四条の辻を通りかかった、その時だった。
向かいから、整然とした一隊が歩いてくる。先頭を行くのは、水色の直垂に浅葱色の袴を纏った、一人の武士であった。
「十兵衛様、こちらへ」
傍らを歩く家臣が、恭しくそう声をかけた。
――え。
脳内で、時任の思考が完全に止まった。
――十兵衛……? それに、あの直垂にある紋……『水色桔梗』……!
――嘘だろ。待て、待て待て待て! 万福丸、伏せろ! 目を合わせるな!
(……時任? どうした、何をそんなに――)
万福丸が戸惑う暇もなかった。時任の叫びは、悲鳴に近い濁流となって脳内に溢れ出した。
――間違いない、明智十兵衛光秀だ! 本物だ、将来本能寺で……うわ、こっち見た! 終わった、絶対にバレる!
時任のパニックに呼応するように、万福丸の心臓が早鐘を打つ。
すれ違いざま、その男――光秀がふと足を止めた。
凛とした、涼しげな風貌。しかしその瞳の奥には、底の見えない深い霧のような「業」が渦巻いている。光秀の視線が、万福丸の笠の奥をじっと射抜いた。
万福丸は、全身の血が凍りつくような感覚に陥った。
(……市様に酷似した面差しの童……まさか)
光秀の目に、微かな驚愕と、何かを推し量るような冷徹な光が過る。その口元に、慈悲とも冷笑とも取れる微かな笑みが浮かんだ。
数秒の沈黙。それは永遠にも感じられた。光秀は何も言わず、ただ一度だけ深く頷くと、そのまま吸い込まれるように雑踏へ消えていった。
「……誰だ、今の男は」
万福丸の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「……分かりませぬが、織田の重臣クラスでしょうな。あの桔梗の家紋……ただならぬ気配でした」
高虎が、冷や汗を拭いながら応じた。喜三郎はといえば、刀の柄を握りしめたまま、金縛りにあったように硬直していた。
一行は、左衛門の導きで下京の片隅にある看板のない古びた旅籠へと逃げ込んだ。二階の薄暗い一室。外の喧騒が遠のく中で、万福丸は泥のついた草鞋を脱ぎ、ようやく人心地ついた。
「ところでさ。……あんた、本当に何者だい」
部屋の隅、柱に寄りかかっていた左衛門が、探るような目で切り出した。
「先ほどの村で、あんたは『浅井のガキが西へ逃げた』と噂を流した。そしてさっき、織田の重臣らしき男に見られて、顔を強張らせた。……点と線が繋がったよ。あんたが、その世界で一番高く売れる首だろ?」
左衛門に突きつけられ、万福丸は無言で彼女を見つめ、それから静かに口角を上げた。
「いかにも。わしは浅井長政が嫡男、万福丸。……おぬしはどうする。わしの首を持って、信長の元へ走るか?」
静寂が部屋を支配した。左衛門は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに鼻を鳴らした。
「……最悪の『当たり』だね。だが、あんたみたいな面白い劇薬、小銭で手放すのは勿体ない。あたしは、まだ賭けを降りないよ」
その不遜な物言いに、高虎の目が剣呑に細められる。得体の知れぬ泥棒と、滅びた名家の嫡男。薄暗い部屋に、互いの腹を探り合うようなヒリヒリとした沈黙が落ちた。
「……若様!」
その空気を強引に断ち割ったのは、喜三郎だった。身を乗り出し、悲痛な顔で畳を拳で叩く。
「このような輩の『賭け』に付き合い、これ以上、野山を這いずり回る必要はございませぬ! 某は、このまま京に留まるべきかと存じます!」
喜三郎は左衛門を鋭く睨みつけ、再び万福丸へ向き直った。
「京こそが天下の耳目。ここに潜み、織田の内情を掴むことこそが再起への近道。何より、若様をこれ以上、泥を啜るような獣の生活で苦しませたくはございませぬ!」
「黙れ、喜三郎。うぬのその短慮が若様を殺すのだ」
高虎が氷のような声で遮った。二人の視線が火花を散らす。
「京は織田の庭だ。さっきの桔梗の男のような化け物が道端を歩いている場所で、どうやって若様を隠し通す? ここは潜伏地ではない。逃げ場のない巨大な檻だと言っているのだ!」
二人の怒声が狭い一室に響き渡る。その時、万福丸の脳内に時任の冷徹な声が響いた。
――万福丸、高虎が正しい。京は今の信長にとって『完成された要塞』だ。一度でも顔を晒せば、その瞬間に詰む。潜むなら、織田の法が及ばず、物理的にも軍を動かしにくい独立した要害……『甲賀』だ。歴史的にもあそこは不落の潜伏地なんだよ。
万福丸はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「……喜三郎、高虎。控えよ。騒がしいわ」
少年の威厳に、二人が口を閉ざす。
「高虎の申す通りじゃ。京は檻よ。……わしらは甲賀へ行く。まずはあの山深い要害を、わしの反撃の礎とする」
「……へえ、甲賀かい。いい選択だけど、素人には無理だよ。あたしが案内してやろうか。」
壁の花を決め込んでいた左衛門が、ふらりと中心へ歩み出た。
「あそこは道そのものが『嘘』でできてる。迷い込めば、里の連中に首を撥ねられるのがオチだ。……あたしは、没落した甲賀五十三家の一族、その生き残りさ。わけあって里を追放された身だけどね」
左衛門は、自らの首に巻いた「紗」を指で弄りながら、隠していた素性を晒した。
「なぜ我らをそこへ案内する? 貴様に何の利がある」
高虎が即座に疑いの刃を向ける。
「一緒に歩いてたあたしまで、織田に捕まるのは御免だからね。それに……あんたが本当に浅井の跡取りで、いつか盤面をひっくり返して返り咲くってんなら、その時に山ほどの金と権力をあたしに寄越してよ。これは泥棒としての、でっかい『先行投資』ってやつさ」
彼女はニヤリと、いかにも強欲な泥棒らしい笑みを浮かべた。
(……馬鹿め。こいつという特上の『政治的爆弾』を手土産にすれば、あたしの追放は解かれる。それどころか、五十三家の当主たちもひれ伏さざるを得ない。あたしの本当の目的は、甲賀の権力を取り戻すことだ……)
彼女の腹の底には、どす黒い打算が渦巻いていた。
万福丸はその不敵な瞳を真っ向から見据え、頷いた。
「……よい。その先行投資、乗ってやろう。おぬしの本当の名は?」
「里を追放された時、氏を名乗ることを禁じられてね。『石川左衛門』なんて適当な偽名を騙ってたが……あたしの本名は、鵜飼冴衣だ。今日からそう呼びな」
万福丸という猛毒を、自らの野心という器に注ぎ込み、冴衣は冷徹に微笑んだ。




