第十六話 流言
翌朝。
過酷な比良の山中を抜け、視界が劇的に開けた。
黄金色の朝陽が斜面に降り注ぎ、風に乗って土と獣、誠に懐かしい「人の生活」の匂いが鼻をつく。
「……出たのう」
万福丸は足を止め、目を細めた。遠くに見える家々の煙、手入れされた畑、細く続く道。そこは紛れもなく、人の法が支配する世界だった。
「ここから先は京の圏内。……同時に、織田の目が増える場所でもあります」
高虎が短く、鋭く告げる。
喜三郎は「見られる、か」と低く呟き、慌てて農民のふりをしようと道端の草をむしって自分の頭に突き刺した。だが、隠しきれない武人の殺気が、逆に周囲の風景から完全に浮き上がっていた。
万福丸は、くつと笑った。
「よい。隠れきるつもりもないわ。……隠れるよりも、紛れる方が楽でな」
――いやいや、万福丸!
脳内で時任が声を荒らげる。
――お前、自分が今「賞金首」だって自覚があるのか。普通は顔を隠して夜陰に乗ずるもんだろう!
(黙れ時任。逃げる鼠は追われるが、紛れる雀は誰も見ぬものよ)
万福丸は時任の小言を涼しく受け流すと、泥だらけの襤褸を纏いながらも、あえて人通りのある小さな村へと足を踏み入れた。
畑の脇。井戸端で水を汲んでいた老婆が、見慣れぬ四人連れに気づき、警戒の視線を向けた。
だが、万福丸は逃げない。むしろ、堂々と歩み寄った。
その瞬間、老婆の息が止まった。
万福丸の顔は、泥にまみれていても隠しきれぬほどに整っていた。戦国一の美女と謳われる母・お市の方の面影を色濃く継いだその美貌は、幼子ながらに神々しさすら漂わせている。大きな瞳に宿る理知的な光が、老婆の硬い心を一瞬で溶かした。
「ばあさま、水、もらえるかのう。喉が焼けるようでの」
その声は、驚くほど澄んでいた。老婆は毒気を抜かれたように瞬きをし、やがてポッと頬を赤らめて桶を差し出した。
「ああ……ああ、いいとも。坊や、なんて綺麗な顔をして……山の向こうから来たのかい?」
「かたじけない」
万福丸が冷たい水を美味そうに飲み干す中、脳内で時任が感心したように声を上げた。
――ほう、お前、なかなかの美形なんだな。脳内からは確かめられんがな。
万福丸は桶から口を離し、得意げに小さく呟いた。
(当たり前だろ、あの母の血を継いでおるからな)
――ふん、九歳の子供ってのは大抵可愛いもんだよ、いい気になるな。
俺だってな、子供の頃は、…………まあ、……普通だった。
(……なんだそれは。おぬし、そんな退屈な顔で生きておったのか? 可哀想に……想像もつかぬぞ)
――「おい、憐れむな! 鏡のない時代だからって好き放題言いやがって……!」
「……おい、喜三郎。何をしている」
高虎が頭痛を堪えるように声を落とした。
見れば、頭に草を刺した喜三郎が、中腰のまま滝のような涙を流して震えていた。
(あああ、若様が……あの汚れた共同の柄杓で……! あのような素朴な民草と同じ水を……! 何という慈悲! 我が主の尊さ、某、涙が止まりませぬ!)
喜三郎は号泣しながら、怪しさ満載の笑顔を老婆に向けた。老婆が「ひっ」と短く悲鳴を上げる。
――喜三郎、お前が一番の不審者だよ!
時任のツッコミを他所に、万福丸は自然な所作で老婆に世間話を振った。
「近頃、道が騒がしいのう。何かあったのか?」
「あんたら、知らんのかい。浅井の……あの裏切り者の嫡男が、この近くまで逃げてきたって噂だよ。見つかれば一生遊んで暮らせる褒美が出るって、村の若い衆が色めき立っててねえ」
一瞬、背後の左衛門の空気が凍りついた。
彼女は万福丸の横顔を、言葉を失って凝視した。
(浅井の……嫡男……? 没落した武家のガキだとは思ったが、まさか、こいつがその……!?)
だが、当の万福丸は「ほう」と、まるで他人事のように驚いて見せた。
「それは恐ろしい。……じゃがばあさま、わしが聞いた噂じゃと、その子はもう西の海を渡って、唐の国へ逃げたそうじゃぞ?」
「ええっ、本当かい!?」
「うむ。なんでも、織田の目を欺くために、影武者を山へ放ったとかなんとか……。わしらも山道で、その影武者らしき立派な身なりの一行を見たような気がするのう」
万福丸は、さも「今見てきたばかり」といった風情で、出鱈目な虚報を老婆の耳に流し込んだ。
――おい、息を吐くように大嘘をつくな!
時任が呆れる中、左衛門は震える声を押し殺して笑った。
(……嘘だろ。このガキ、自分の正体を疑われる前に、自ら噂を塗り潰しやがった。あたしら泥棒が一生かけて磨く『化かし』の技を、呼吸するように……)
左衛門は戦慄した。この九歳の子供は、ただの逃亡者ではない。流言を操り、世の流れそのものを弄ぼうとする、底知れぬ化け物だ。
村を離れ、再び林の影に入った。四人だけになると、高虎が深く嘆息した。
「……流しましたな。西、あるいは唐。そして偽の影武者。噂の起点を散らすことで、追手の包囲網を内側から崩されるとは。流石は我が主君」
「偶然じゃ」
万福丸は楽しそうに笑う。
「人は信じたいものを信じる。北へ寄せておる流れに、少しだけ『西』の妙味を混ぜたのじゃ。迷えば迷うほど、わしらの道は広くなる」
「追われるだけでは、つまらぬ。少しは、遊ばんとな」
万福丸の一歩が、心なしか軽やかになる。
――やるな、万福丸。お前の「美貌を餌にした民衆工作」と「流言蜚語の散布」、もはや詐欺師の親玉だな……。
時任が半分呆れ、半分感心して呟く。
「であろう?」
万福丸は小さく答え、前を見据えた。
京は、もう近い。織田の支配する、最も美しく残酷な魔窟。
逃げるだけではない。返し始めた。その一歩はまだ小さいが、確かに流れは変わり始めていた。
「さて、京では誰を化かしてやろうかのう」
お市の方譲りの美少年の背中を、畏怖する家臣と、驚愕に震える少女が、吸い寄せられるように追っていく。




