第十五話 比良の月
比良の山中は、陽が落ちる前からすでに夜の底のように暗かった。
だが、先頭を行く小柄な影――左衛門と名乗った少女の足取りに、迷いは一切なかった。
「ほら、そこ。根っこが腐ってるから踏むなよ。……デカい奴(高虎)は右の岩を回れ。その重さじゃ地盤が崩れる」
左衛門は、獣すら通らぬような断崖や、苔むした岩肌を、まるで平地を歩くように軽々と跳び越えていく。ある忍びの里の出だという、重力を感じさせない無音の歩法だ。
――おい万福丸、あいつの足運びを見ろ。
脳内で時任が、感心したように声を上げた。
――重心の移動が完璧だ。それに、歩きながら周囲の植生や土の湿り気を見て、即座にルートを計算している。確かに『裏道』を熟知しているプロだ。……胡散臭いが、利用価値はあるぞ。
(……分かっておる。だが、少し早すぎる。足が……)
万福丸は息を切らしながら、必死に左衛門の背中を追っていた。九歳の子供の体力では、彼女の身のこなしについていくだけでも限界に近い。
だが、万福丸は決して泣き言を言わなかった。
少しでも足を踏み外せば谷底へ落ちる恐怖よりも、立ち止まって時任に「じゃあ虫を食って体力を回復しろ」と言われる恐怖の方が、何倍も勝っていたからだ。
その背中を、見上げるほどの巨躯を持つ高虎と、頑強な喜三郎が油断なく護衛しながら続いている。
「……今日はこの辺にしとこう。これ以上進むと、あいつらの哨戒網に引っかかる可能性がある」
岩がせり出し、天然の屋根のようになった窪地で、左衛門が足を止めた。
万福丸がその場に座り込んだ瞬間、左衛門はどこから取り出したのか、二匹の太いアオダイショウ(蛇)の首を掴んで放り投げた。
すでに首の骨を折られ、絶命している。
「ほらよ。晩飯だ。あたしが皮を剥いでやるから、火を起こしな」
左衛門が平然と言い放った瞬間、万福丸の顔からスッと血の気が引いた。
「ひっ……!」
蛇。虫ではないが、地を這う鱗の生き物だ。万福丸の最も忌み嫌う部類である。
――おお! 蛇肉か! 素晴らしい!
脳内の時任が、狂喜乱舞した。
――高タンパクで脂質も豊富、おまけに精もつく。こんな山奥で最高の御馳走じゃないか! さあ万福丸、ありがたく頂け!
(……き、貴様ッ! またか! なぜこんなゲテモノばかり……っ)
――嫌なら死ぬか? 家族を残して。
(……ぐ、ぬぅぅ……ッ!)
万福丸が涙目で震えながら蛇を見つめていると、横から喜三郎が滝のような涙を流して突進してきた。
「おおおお! 若様! またしてもこのような下賤な肉を前に、顔色を変えずに……っ! 我らを飢えさせぬためのその御覚悟、某、この喜三郎が、毒見として骨ごと丸呑みにいたしまするっ!」
「……見事な決断にございます、若様」
高虎もまた、冷徹な顔で蛇の尻尾を掴み、ナイフで腹を裂き始めた。
やがて、集めた枯れ枝に火打石で火が移された。
小さくパチパチとはぜる炎の向こうで、高虎がふと、夜空を見上げた。
「……月が、出ましたな」
高虎の低い声に誘われ、万福丸も顔を上げる。
頭上を覆っていた厚い雲が切れ、比良の稜線に、冷たく冴え渡るような半月が姿を現していた。
青白い月光が、鬱蒼とした木々の隙間から細い糸のように差し込み、彼らの潜む窪地を照らし出す。
月明かりは、残酷なまでに彼らの姿を浮き彫りにした。ボロを纏い、土に汚れ、血の滴る蛇肉を前にした惨めな姿を。
だが同時に、その光は、万福丸の瞳の奥に宿る「決して消えない執念の炎」と、男装の少女・左衛門の「吸い込まれるような端正な横顔」を、夜の闇の中で美しく際立たせていた。
「…………」
左衛門は、焚き火の準備を終え、その異様な光景を心底ドン引きした顔で見つめていた。
(……やっぱり、この集団はおかしい。ガキはただ蛇が怖くて泣きそうになってるだけなのに、デカい奴は一人で感心してるし、もう一人の大男は号泣しながら生の蛇肉をかじろうとしてる……。どっか頭のネジが吹っ飛んでる)
だが、左衛門の目には、同時に別の感情も浮かんでいた。
(……こいつら、ただの落ちぶれた貴族じゃない。これだけの異常な狂信を集めるこのガキ……一体、何者だ?)
やがて、小さな焚き火が起こされ、蛇の肉が串に刺して炙られた。
万福丸は、時任の脅迫(正論)に屈し、涙目で震えながら白身の肉を口に運んでいた。
その様子を、左衛門は紗の布越しにじっと観察しながら、口を開いた。
「……なあ。あんたら、京へ向かってどうするつもりだ?」
パチパチと爆ぜる火の粉越しに、左衛門の鋭い声が響く。
「落ちぶれた名家のガキが、京の都で再起でも図るつもりか? 悪いことは言わない。やめとけ。今の京は、あいつらの完全な庭だ。あんたらの顔が割れてなくても、その異様な空気感だけで、すぐに目をつけられるぞ」
高虎が、冷たい視線で左衛門を射抜く。
「……案内役が、口を挟むことではない」
「いや、あたしの身の安全にも関わる問題だからね」
左衛門は肩をすくめた。
「あんた、さっき言ってたよな。『銭より重い毒』を持ってるって。……その毒を、京でどうする気だ?」
万福丸は、口の中の蛇肉を無理やり飲み込むと、涙目を袖で乱暴に拭った。
そして、炎に照らされた顔を上げ、九歳の子供とは思えない凄惨なまでの執念を瞳に宿した。
「……地の底へ、潜るのじゃ」
「潜る? なんだ、ただ逃げて隠れるだけか」
「馬鹿め。この体とわずかな手勢で、今すぐわしからすべてを奪った者たちに牙を剥くなど犬死にじゃ。わしが死ねば、残された家族が地獄を見る。……ゆえに、何がなんでも生き延びる」
万福丸の言葉には、一切の虚勢がなかった。
「京は天下の人が集まる場所。死人が身を隠し、紛れるには最良の隠れ蓑じゃ。そこで息を潜め、いずれ再起を図るための『地(根城)』を見定める。……わしがこの世で息をしておるという事実そのものが、いずれ仇の腹を食い破る『毒』なのじゃ」
――そうだ。まずは生き残る。そして俺の知識で、お前を必ず盤面へ戻してやる。
脳内で時任の声が、静かに、だが確かな熱を持って万福丸の決意を肯定した。
「…………」
左衛門は、息を呑んだ。
このガキは、本気だ。大言壮語で天下を獲ると叫ぶような子供ではない。己の非力さと絶望的な状況を完全に理解した上で、名のある血筋の誇りすら捨てて泥を這いずり、生き延びようとする恐るべき現実主義者。
(……こいつら、ただの落ちぶれた貴族じゃない。名前も明かさねえが、こいつの持ってる『毒』ってのは、生存への異常な執着だ……)
左衛門の唇が、自然と吊り上がった。
「……正気かよ。名家の跡取りが、これから一生、泥すする覚悟ってわけか。……いいぜ。その毒がどう回るか、特等席で見物させてもらう。京のど真ん中まで、あたしが運んでやるよ」
「頼むぞ」
万福丸は、残った蛇の肉を震える手で掴み、再び口に放り込んだ。
「わしは、家族を取り戻すまで、絶対に死なぬ」
夜の帳が、四人を完全に包み込んでいた。
彼らが次に目指すのは、絶対の権力者が支配する都、京である。
【時任昆虫教室:其の八 ― 山の守り神・アオダイショウ ―】
万福丸、今日は昆虫の話は休みだ。だが、目の前で鎌首をもたげるこの「山の住人」については教えねばなるまい。
・清廉な理:皮を剥ぎ、その桜色の身を炙ってみろ。脂は少なく、鶏のササミをより力強くしたような「清廉な肉の味」がする。昭和の私の調査地でも、身の厚みと食べ応えではこれが随一だった。
・生存の理:鹿や猪を追えぬ落ち武者にとって、この音も立てず忍び寄る命こそが最高の糧だ。守り神だろうと何だろうと、生き延びるためならその肉を食らい尽くせ。
蛇を喰らう冷徹さと、何度でも脱皮して生まれ変わるしぶとさ。この執念を己の血肉とせよ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




