第十四話 比良の野良犬
高島から南へ。琵琶湖の西岸にそびえる比良山系は、人を拒むような険しい顔つきをしていた。
翌日の真昼に差し掛かろうとしているが、木々は鬱蒼と茂り、獣道すら途切れがちな斜面を、三人の影が這うように進んでいく。
高島の市で買った握り飯は、過酷な山歩きの中であっという間に底をついていた。
万福丸の足取りが、再び重くなる。
――おい万福丸。顔色が悪いぞ。血糖値が落ちている。
時任の容赦ない声が、脳内に響いた。
――昨夜からの強行軍だ。そろそろカロリーを入れないと、また視界が白黒になるぞ。
「……んなことは、わかっておるわ。だが、食うものが……」
――あるじゃないか。お前のすぐ横、その白く立ち枯れたクヌギの木だ。
時任の声が、獲物を見つけた狩人のように弾んだ。
――木の根元に、木屑が落ちているだろう。その樹皮を剥がせば、中にカミキリムシの幼虫……いわゆる『テッポウムシ』が冬ごもりしているはずだ。丸々と太って、上質なタンパク質と脂質の塊だぞ!
「なっ……ッ!?」
万福丸の顔から、スッと血の気が引いた。
(――き、貴様ッ! また虫か! よりによって、あんな白くてブヨブヨしたものを食えと申すか!)
――文句を言うな。それが一番手っ取り早くて効率がいいんだ。嫌なら死ぬか? お前がここで飢え死にすれば、茶々たちも終わりだぞ。
「ぐ、ぬぅぅ……ッ!」
家族の命を盾に取られ、万福丸は涙目で震えながら、立ち枯れた木に手をかけた。
メリッ、と樹皮を剥がす。するとそこには、時任の言葉通り、大人の親指ほどもある白く肥え太った幼虫が、身をよじらせて現れた。
「ひっ……!」
万福丸は小さく悲鳴を上げ、全身に粟立つような鳥肌を立てながら、震える二本指でその幼虫を摘み上げた。
「わ、わしは……なんという……っ」
口元まで運ぶが、その顔はもはや絶望に染まり、今にも泣き出しそうだった。
その悲壮な姿を、少し後方から見ていた藤堂高虎は、鋭い感嘆の息を漏らした。六尺二寸(約百九十センチ)にも及ぶ巨躯が、静かに震えている。
(……なんと恐ろしい御方だ。毒を疑うこともなく、己の身分を捨てることにも一切の躊躇がない。ただ『生存』という絶対の理のみに従い、あの忌まわしい虫を前にしても、己を律して震えておられる。……やはり、王の器よ)
「……流石にございます、若様。俺も、その理に従いましょう」
高虎は冷徹な顔のまま、別の樹皮を剥がしにかかった。
「おおおお、若様ぁっ!」
その横で、遠藤喜三郎が突然、滝のような涙を流して地面に膝をついた。
「高貴な御血筋であられるお方が、あのようなゲテモノを食らわねばならぬとは……! 我らを飢えさせぬため、自ら率先して毒見を……! ああ、お労しや! ここは某が丸呑みにいたしまするっ!」
喜三郎は号泣しながら、万福丸の手から幼虫をひったくろうと身を乗り出した。
「うるさいぞ、おのれら……! これは、わしの……わしの戦じゃあ!」
万福丸が半泣きで怒鳴り散らしている、まさにその時だった。
「――ぷっ、あははははっ! なんだあんたら、腹痛え!」
頭上から、場違いなほど明るい声が降ってきた。
音もなく、頭上の枝からひとつの影がふわりと舞い降りる。まるで猫のような、完璧な身のこなしだった。
だが、その影が着地した瞬間。
少女の鼻先に、冷たい鋼の刃がピタリと突きつけられていた。
「っ……!」
着地と同時、一歩も動かずに抜刀の構えを完了させていた高虎の神速に、少女の目が微かに見開かれる。
「……隠れても無駄だと分かって、自ら姿を現したか」
見上げるほどの巨躯から、高虎が冷徹な声で言い放った。
「先ほどから、息の音が風の音を汚していたぞ。枝葉の隙間から、右手の指先も見えていた」
「……驚いたね。飛び降りる場所を完全に読まれてたか。相当に鼻が利く奴がいるねえ」
少女は両手を軽く上げ、不敵に笑った。
ボロボロの男物を纏い、男の子のように髪を短く結い上げている。だが、首に巻かれた紗の布の隙間から、月光のような白くきめの細かい肌が覗いていた。
刀の冷たい光に照らされたその顔は、吸い込まれるように端正だった。一文字に結ばれた凛々しい唇。何より、自分を貫こうとする殺気を真正面から受け止めながら、面白がるように光る双眸。それは、戦国という泥を啜ってなお濁ることのない、夜空に輝く星のように鋭く、瑞々しい瞳だった。
紛れもない、見目麗しい少女の姿が、そこにあった。
「おぬしが、下手なのじゃ。わしの連れは、そこいらの侍とは格が違うてな」
万福丸が、急いで幼虫を放り捨てて涙目を拭いながら、強がって笑う。少女はその鋭い瞳で、彼らを舐めるように観察した。
「言うねえ。……だが、あんたら。いいもん持ってたろ。高島の市だよ。上物の着物を流して、銭に替えた。……で、今はそのボロを纏ってるわけだ」
「ほう。わしの銭を盗みに尾行してきたのか」
「あたしは京で少しやらかしてね、ほとぼりが冷めるまで北陸へ逃げようとしてたんだ。だが、浅井と朝倉が滅びちまったせいで、北はドンパチの真っ最中だ。厄介な戦火に突っ込む義理はねえから、仕方なくまた京へ戻って潜伏しようとしてたのさ。そこへ、あんたらの噂を聞きつけた」
少女は一歩踏み出し、万福丸を見た。
「名のある家のガキが落ちぶれたんだろうが、忠義じゃお腹は膨れないからね。……隙はあると思ったんだが、割に合わない。泣きながら虫食ってるガキに、大声で泣き喚いてる従者だ。それに、そこの蛇みたいな目つきのデカい奴。こいつは厄介だ。手を出せば、あたしの首も飛ぶ」
――おい、万福丸。
脳内で時任の声が、警戒心を露わにした。
――こいつ、ただの子供じゃないぞ。殺気の抜き方も身のこなしも、完全に裏社会のプロだ。こんな山奥にいること自体が不自然すぎる。胡散臭い、絶対に関わるな!
「……若様。こ奴、生かしておけば誰に口を滑らせるやも知れませぬ」
高虎が、冷徹な声と共に刀の柄を握り直す。踏み込み、少女の首を刎ねようと重心を沈めた、その瞬間。
「やめておけ、高虎」
万福丸は、喜三郎の腕から抜け出すと、少女の目の前まで平然と歩み寄った。高虎の喉元から小さく警告の唸りが漏れるが、刀はぴたりと止まる。
「おぬしが狙うような銭は、もう持っておらぬ。わしが今持っておるのは、銭より重い『毒』だけじゃ。……わしらは南へ、京へ抜けねばならぬ」
「お前ら、京へ行くのに、なぜわざわざこのような山道を選ぶのだ。……まあ、訳ありってことか。でも、そのまま山に入る気か。……死ぬぞ。比良の『道』は死んでる。素人が踏み込めば、一刻も持たずに崖の底だ」
「やってみねば分からぬ」
「ふーん、決心は固いようだね。死ぬのを見るのも退屈しのぎにはなるが、案内してやろうか?」
「……ただの野良犬が、比良の『道』を知っているとでもいうのか。」
高虎が冷たく斬り捨てる。
「ただの野良犬なら、あんたのその神速の抜刀の前に、今頃首と胴体が泣き別れさ」
「……」
「あたしは、ある忍びの里の出なんだけど、一族を追走された『放たれ』さ。比良の裏道、つまり、織田の兵が把握していない抜け道……全部、この頭に入ってる」
少女は自分のこめかみをトントンと叩き、不敵に笑った。
「あたしなら、誰にも気づかれずにあんたらを京まで連れて行ける。あんたらだけで行けば、この先、京へたどり着く前に、織田の検問に捕まるか、野盗の毒牙にかかって、そのガキも終わりだ。あたしの案内があれば、そのすべてを回避できる」
「……見返りは」
高虎が即座に問う。その冷徹な双眸は、少女の言葉の「理」を測り終えていた。
「京に入るんだろ? あたしも少し『顔』が割れててね。あんたらの身内として紛れさせてくれりゃ、色々と好都合でね。互いに利用し合おうってわけさ。それに、あんたらの『毒』が本物かどうか、特等席で見せてもらうおまけ付きだ」
その理にかなった取引に、万福丸は満足げに頷いた。
「よい。おぬしの名は」
「……左衛門でいい。今のところはね」
――おいおい正気か! こんな胡散臭い野良犬を連れて行く気か!?
時任の抗議を綺麗に無視し、万福丸は弾むような足取りで歩き出す。
高虎が少女の背中に「隙あらば殺す」という殺意を刺したまま続き、喜三郎が武士としての誇りと戸惑いを抱えながらしんがりを務める。
四人は、比良の山へ入る。
戻らぬ道へ、歴史の表舞台から零れ落ちた者たちの物語へと、その一歩を踏み出した。
【時任昆虫教室:其の七 ― 森の脂身、鉄の顎を持つテッポウムシ ―】
万福丸、空腹か? ならばクヌギの樹皮を剥げ。そこに潜むカミキリムシの幼虫、通称テッポウムシが森のご馳走だ。
・蓄えの理:成虫として飛び出すまでの数年、木の栄養をその身に凝縮させている。炙れば皮が弾け、マグロのトロにも勝る「濃厚な脂の甘み」が溢れ出す。
・至高の評価:保存食に過ぎない他の虫とは格が違う。昭和の林業が盛んな地域でも、薪を割る際に出てくるこれは、誰もが競って囲炉裏の灰に突っ込む「単体で完成された美味」だった。
敵の死角でこの「白き脂身」を食らい、血肉とせよ。いつかその鉄の顎で、時代そのものを食い破って飛び立つためにな。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




