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戦国昆虫戦記 ―浅井家の長男は、脳内の【昆虫研究家 時任】と乱世を歩む。~名は万福(まんぷく)なのに、知識の代償は「はらぺこ」でした~  作者: つんしー
第二章 逃避と出会い

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第十三話 南へ落ちる

 夜が明け、湿った闇を黄金色の陽光が切り裂いていく。

 琵琶湖の北端、浅井の加護が色濃く残る「湖北」の地が、背後でゆっくりと朝霞の中に消えていく。三人は一晩中歩き続け、高島郡へと足を踏み入れていた。

 夜通しの行軍で鬱蒼とした山々の冷気は抜け、代わりに乾いた土と、どこかえた生活の匂いが鼻をつくようになる。道は細くなり、代わりに人の気配が劇的に増えた。遠くに霞む小さないちからは、風に乗って喧騒が流れてくる。


「……聞いたか。浅井の残党がこの辺りまで逃げてきているらしい」

「ああ。見つけて陣屋へ突き出しゃあ、一生遊んで暮らせる褒美が出るってよ。織田の殿様も、よっぽどあの小僧の首が欲しいとみえる」


 往来ですれ違った市井の者たちの、卑俗で軽い笑い声。それは万福丸たちにとって、自分たちが途方もない高値のついた「極上の獲物」へと成り下がったことを告げる、無慈悲な宣告だった。


「……腹が減ったのう」

 万福丸が、拍子抜けするほど軽い声で零した。

 不意に、その足が止まった。九歳の肉体にとって、昨夜からの不眠不休の行軍と空腹は、精神論でねじ伏せられる限界をとうに超えていた。


 ――おい万福丸、笑い事じゃないぞ。

 脳内で時任が、頭を抱えるような声を出した。

 ――市が近い。ここから先は人口密度が跳ね上がるんだ。人間の群れというのは、同種であっても『異物』をすぐに見つけ出して排除しようとする本能がある。泥にまみれているとはいえ、お前のその上等な絹の着物は、捕食者の群れに『私が極上の獲物です』と宣伝して歩いているようなものだ。


「銭がありません」

 高虎が、冷徹な事実を告げた。

「手持ちの兵糧は尽きました。あるのは、奥方様から託された、そのかんざしのみ」


 万福丸は、懐の奥で冷たく光る母の形見にそっと触れた。一瞬だけ、その小さな指先が止まる。

「……これは、売らん」

 万福丸は静かに手を離すと、高虎を見上げた。

「高虎、わしの着物を見ろ」


「……目立ちますな」

 泥と血にまみれてはいるが、その絹の光沢、緻密な織りは、どれほど隠そうとしても「貴人の子」であることを雄弁に物語っている。


「売るか」

 万福丸が、あっさりと言い放った。

「若様! それは……!」

 喜三郎が、弾かれたように声を上げた。

「それは浅井の、長政公より受け継がれた御身分の証にございます! それを泥棒の如く脱ぎ捨てるなど、あまりに、あまりに無念……! 某が、某の鎧を売り払いますゆえ!」

 喜三郎の大きな瞳から、みるみるうちに涙が溢れ出す。


 ――いや喜三郎。あいつの頭の中じゃ、もはや身分よりカロリー(飯)の方が上なんだよ。

 時任が呆れたようにツッコミを入れるが、万福丸には届かない。


「では、ここで捨てる」

 万福丸は笑いながら帯を解いた。

 迷いは微塵もない。高価な小袖を脱ぎ捨て、襦袢じゅばん一枚になった九歳の体躯に、朝の風が吹き抜ける。

「おお、なかなかよい風じゃ。軽くなったのう」

 万福丸は、雑に畳んだ小袖を高虎へ放り投げた。

「これを市で売ってこい。ついでに、誰も見向きもせぬような、薄汚れた古着を見繕い、余った銭で握り飯を買ってこい。一石三鳥じゃ。最後に、西へ向かう振りをして戻って来い」


 高虎は、手の中にある絹の重みと、目の前で無防備に笑っている幼子を交互に見た。

(……戻る気がないのだ、この御方は)

 高虎の胸に、鋭い戦慄が走る。

 かつての栄光を象徴する衣を、生きるための「糧」として躊躇なく換金する。まるで昆虫が成長のために古い殻を脱ぎ捨てるかのような、その冷徹なまでの合理性と過去への未練のなさは、十八歳の高虎から見ても異常だった。


「……承知いたしました」

 高虎が市へ向けて歩き出す。


 残された万福丸は、道端の切り株にどっかと腰を下ろした。

 ――正気か、万福丸。

 時任の声が、脳内で低く、酷薄に響く。

 ――あんな極上の絹をこんな田舎の市に流せば、必ず商人の間で噂になる。足跡を残すのと同じだ。生態学的に言えば、自ら匂いをつけて追手を呼び込むような愚行だぞ。


「おぬしの理屈は、いつも正しいのう」

 万福丸は、空を見上げた。高い、どこまでも逃げ場のない空だ。

「じゃが、つまらぬ。……わしの顔は、どう足掻いても隠れきれるものではなかろう。ならば、わざと波を立てるまでじゃ」


 ――波を立てる?

「水面を激しく叩けば、底を泳ぐ魚の姿は見えなくなるものよ。……『良い着物を売った奴がいる』。その噂が立てば、織田の犬どもは必ずそこに群がる」

 万福丸は、くつ、と喉の奥で笑った。

「それが『西(朽木・若狭方面)へ向かった。海を渡る気だ』と別の波を起こせばどうなる? 奴らの包囲網は、見当違いの西の山中へと勝手に流れていくわ」


 ――……。

 時任は、絶句した。

 ――(こいつ、ただ逃げているだけじゃない。追手の目を欺く『デコイ』を意図的に作り出そうとしているのか……? この極限状態の中で、信長の包囲網を盤面に見立てて、自ら操作しようってのか!)


「元より、わしは泥をすする身よ。これ以上、落ちる場所などどこにもないわ」


 やがて、高虎が戻ってきた。

 手には、使い込まれて色が褪せ、所々すり切れた粗末な麻の着物と、竹の皮に包まれた握り飯。

「売れはしました。かなり、足元を見られましたが。あと、西へ向かう振りをして、後にしました」

 渡された飯を、万福丸は無造作に受け取った。


 麻の衣に袖を通す。ゴワついた、肌を刺すような粗悪な手触り。だが、万福丸は握り飯を頬張りながら、満足げに笑った。

「軽いのう! これでようやく、それらしくなったか」


「……若様……!」

 そのボロを纏った姿を見て、喜三郎が再び号泣した。

「浅井の再興のために、これほどの屈辱に耐え、自ら下賤の衣を纏われるとは……某、一生ついて参りまする!」

 ――いや、だから、本人は気楽に着替えて飯食ってるだけだって。

 時任のツッコミを他所に、万福丸は立ち上がった。


 遠く、市の方で、先ほどよりも大きなざわめきが起きている。

「……動いたな」

 高虎が、低い声で言った。

「『極上の小袖を売った奴がいる』と。網にかかった織田の犬どもが、血眼になって嗅ぎ回っております」


「よし。これで京への『足がかり』は手に入れたな」

 万福丸は、南へと続く道を見据えた。

 身分を捨て、姿を変え。だが、その瞳に宿る輝きは、小谷城にいた頃よりも凄絶なまでに爛々としている。


「さて、京へ行くぞ。……織田の喉元が、どれほど面白いか見に行こうではないか」


 万福丸は、弾むような足取りで歩き出す。

 その後ろを、心酔しきった喜三郎と、底知れぬ主への畏怖を深めた高虎が、静かに、だが力強く追った。


 南へ落ちる。

 それは、ただ単に京へと向かう地理的な逃避行という意味だけではない。名門浅井の若君という誇り高い皮殻を捨て去り、名もなき泥ネズミへと身をやつす、完全なる没落(身を落とすこと)を意味していた。

 だが、そのボロを纏って南へと歩み出す万福丸の背中は、城の奥座敷で守られていた頃よりも、はるかに王としての威厳に満ちていた。


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