第十三話 南へ落ちる
夜が明け、湿った闇を黄金色の陽光が切り裂いていく。
琵琶湖の北端、浅井の加護が色濃く残る「湖北」の地が、背後でゆっくりと朝霞の中に消えていく。三人は一晩中歩き続け、高島郡へと足を踏み入れていた。
夜通しの行軍で鬱蒼とした山々の冷気は抜け、代わりに乾いた土と、どこか饐えた生活の匂いが鼻をつくようになる。道は細くなり、代わりに人の気配が劇的に増えた。遠くに霞む小さな市からは、風に乗って喧騒が流れてくる。
「……聞いたか。浅井の残党がこの辺りまで逃げてきているらしい」
「ああ。見つけて陣屋へ突き出しゃあ、一生遊んで暮らせる褒美が出るってよ。織田の殿様も、よっぽどあの小僧の首が欲しいとみえる」
往来ですれ違った市井の者たちの、卑俗で軽い笑い声。それは万福丸たちにとって、自分たちが途方もない高値のついた「極上の獲物」へと成り下がったことを告げる、無慈悲な宣告だった。
「……腹が減ったのう」
万福丸が、拍子抜けするほど軽い声で零した。
不意に、その足が止まった。九歳の肉体にとって、昨夜からの不眠不休の行軍と空腹は、精神論でねじ伏せられる限界をとうに超えていた。
――おい万福丸、笑い事じゃないぞ。
脳内で時任が、頭を抱えるような声を出した。
――市が近い。ここから先は人口密度が跳ね上がるんだ。人間の群れというのは、同種であっても『異物』をすぐに見つけ出して排除しようとする本能がある。泥にまみれているとはいえ、お前のその上等な絹の着物は、捕食者の群れに『私が極上の獲物です』と宣伝して歩いているようなものだ。
「銭がありません」
高虎が、冷徹な事実を告げた。
「手持ちの兵糧は尽きました。あるのは、奥方様から託された、その簪のみ」
万福丸は、懐の奥で冷たく光る母の形見にそっと触れた。一瞬だけ、その小さな指先が止まる。
「……これは、売らん」
万福丸は静かに手を離すと、高虎を見上げた。
「高虎、わしの着物を見ろ」
「……目立ちますな」
泥と血にまみれてはいるが、その絹の光沢、緻密な織りは、どれほど隠そうとしても「貴人の子」であることを雄弁に物語っている。
「売るか」
万福丸が、あっさりと言い放った。
「若様! それは……!」
喜三郎が、弾かれたように声を上げた。
「それは浅井の、長政公より受け継がれた御身分の証にございます! それを泥棒の如く脱ぎ捨てるなど、あまりに、あまりに無念……! 某が、某の鎧を売り払いますゆえ!」
喜三郎の大きな瞳から、みるみるうちに涙が溢れ出す。
――いや喜三郎。あいつの頭の中じゃ、もはや身分よりカロリー(飯)の方が上なんだよ。
時任が呆れたようにツッコミを入れるが、万福丸には届かない。
「では、ここで捨てる」
万福丸は笑いながら帯を解いた。
迷いは微塵もない。高価な小袖を脱ぎ捨て、襦袢一枚になった九歳の体躯に、朝の風が吹き抜ける。
「おお、なかなかよい風じゃ。軽くなったのう」
万福丸は、雑に畳んだ小袖を高虎へ放り投げた。
「これを市で売ってこい。ついでに、誰も見向きもせぬような、薄汚れた古着を見繕い、余った銭で握り飯を買ってこい。一石三鳥じゃ。最後に、西へ向かう振りをして戻って来い」
高虎は、手の中にある絹の重みと、目の前で無防備に笑っている幼子を交互に見た。
(……戻る気がないのだ、この御方は)
高虎の胸に、鋭い戦慄が走る。
かつての栄光を象徴する衣を、生きるための「糧」として躊躇なく換金する。まるで昆虫が成長のために古い殻を脱ぎ捨てるかのような、その冷徹なまでの合理性と過去への未練のなさは、十八歳の高虎から見ても異常だった。
「……承知いたしました」
高虎が市へ向けて歩き出す。
残された万福丸は、道端の切り株にどっかと腰を下ろした。
――正気か、万福丸。
時任の声が、脳内で低く、酷薄に響く。
――あんな極上の絹をこんな田舎の市に流せば、必ず商人の間で噂になる。足跡を残すのと同じだ。生態学的に言えば、自ら匂いをつけて追手を呼び込むような愚行だぞ。
「おぬしの理屈は、いつも正しいのう」
万福丸は、空を見上げた。高い、どこまでも逃げ場のない空だ。
「じゃが、つまらぬ。……わしの顔は、どう足掻いても隠れきれるものではなかろう。ならば、わざと波を立てるまでじゃ」
――波を立てる?
「水面を激しく叩けば、底を泳ぐ魚の姿は見えなくなるものよ。……『良い着物を売った奴がいる』。その噂が立てば、織田の犬どもは必ずそこに群がる」
万福丸は、くつ、と喉の奥で笑った。
「それが『西(朽木・若狭方面)へ向かった。海を渡る気だ』と別の波を起こせばどうなる? 奴らの包囲網は、見当違いの西の山中へと勝手に流れていくわ」
――……。
時任は、絶句した。
――(こいつ、ただ逃げているだけじゃない。追手の目を欺く『囮』を意図的に作り出そうとしているのか……? この極限状態の中で、信長の包囲網を盤面に見立てて、自ら操作しようってのか!)
「元より、わしは泥をすする身よ。これ以上、落ちる場所などどこにもないわ」
やがて、高虎が戻ってきた。
手には、使い込まれて色が褪せ、所々すり切れた粗末な麻の着物と、竹の皮に包まれた握り飯。
「売れはしました。かなり、足元を見られましたが。あと、西へ向かう振りをして、後にしました」
渡された飯を、万福丸は無造作に受け取った。
麻の衣に袖を通す。ゴワついた、肌を刺すような粗悪な手触り。だが、万福丸は握り飯を頬張りながら、満足げに笑った。
「軽いのう! これでようやく、それらしくなったか」
「……若様……!」
そのボロを纏った姿を見て、喜三郎が再び号泣した。
「浅井の再興のために、これほどの屈辱に耐え、自ら下賤の衣を纏われるとは……某、一生ついて参りまする!」
――いや、だから、本人は気楽に着替えて飯食ってるだけだって。
時任のツッコミを他所に、万福丸は立ち上がった。
遠く、市の方で、先ほどよりも大きなざわめきが起きている。
「……動いたな」
高虎が、低い声で言った。
「『極上の小袖を売った奴がいる』と。網にかかった織田の犬どもが、血眼になって嗅ぎ回っております」
「よし。これで京への『足がかり』は手に入れたな」
万福丸は、南へと続く道を見据えた。
身分を捨て、姿を変え。だが、その瞳に宿る輝きは、小谷城にいた頃よりも凄絶なまでに爛々としている。
「さて、京へ行くぞ。……織田の喉元が、どれほど面白いか見に行こうではないか」
万福丸は、弾むような足取りで歩き出す。
その後ろを、心酔しきった喜三郎と、底知れぬ主への畏怖を深めた高虎が、静かに、だが力強く追った。
南へ落ちる。
それは、ただ単に京へと向かう地理的な逃避行という意味だけではない。名門浅井の若君という誇り高い皮殻を捨て去り、名もなき泥ネズミへと身をやつす、完全なる没落(身を落とすこと)を意味していた。
だが、そのボロを纏って南へと歩み出す万福丸の背中は、城の奥座敷で守られていた頃よりも、はるかに王としての威厳に満ちていた。




