第十二話 死角の道
小谷の北西、余呉へと続く山道は、生きる意志を削り取るための砥石のようだった。
すでに日は高く昇り、見晴らしは良くなっていた。
城を焼いた雨は止んでいたが、湿り気を帯びた重い空気が肺にまとわりつく。足元は粘土質の泥が深く、一歩踏み出すたびに、九歳の幼子の細い脚から容赦なく熱量を奪い去っていった。
万福丸の意識は、薄氷の上を歩くように危うかった。
視界の端から色が抜け落ちていく。音が遠ざかり、代わりに耳の奥で、低い唸り音が響き始めた。
――おい、万福丸! 意識を手放すな! 倒れたら致命傷になるぞ!
脳内で時任が、神経を逆なでするような叫びを上げている。
――体内の糖分が完全に枯渇しているんだ。お前の脳が、生命維持のために末端の感覚を次々に切り捨てている。死にたくなければ、何でもいいから口に入れろ!
「……時任。景色が、白黒になった。……雪でも、降っておるのか」
万福丸のカサカサの呟きが、高虎の肩越しに漏れた。背負っている高虎の身体が、一瞬強張る。
――九月の近江で雪が降るか! それは脳が限界を迎えて見せている錯覚だ!
三人の前に、山から余呉湖へと注ぐ細い急流が立ち塞がった。
連日の雨で増水し、茶色く濁った水が牙を剥くように岩を噛んでいる。橋などない。渡るには、この激流に足を踏み入れるしかなかった。
「……若様。ここは某が担いで渡ります」
喜三郎が、悲壮な顔で前に出た。
「高虎、お前は若様を落とさぬよう支えろ。某が……某の命に代えても、対岸へ……!」
――待て、喜三郎! そのまま入れば深い泥に足を取られて動けなくなるぞ。もがいて濁った水や岸辺に足跡を残せば、追っ手に『ここに浅井の生き残りが通りました』と道標を残すようなものだ!
時任の声が、鋭く万福丸の意識を叩き起こす。
――万福丸、水面を見ろ。あの大きな岩の影、流れが最も激しい場所だ。あそこに、石にへばりつくようにして網を張る『トビケラ』という水生昆虫の痕跡があるはずだ。
「……トビケラ……? また、虫か」
――そうだ! 奴らは泥底には住めない。激流に洗われた、絶対に崩れない硬い岩盤(礫層)にしか巣を作らない生態なんだ。つまり、あの虫の痕跡がある水底だけは、足跡も残らない盤石の『石畳』になっている証拠だ。あそこを狙え!
万福丸は、時任が示した激流の一点へと、震える指を向けた。
「……喜三郎。あそこの、流れが最も牙を剥く場所を歩け。……川底の石に、小さな虫の網がへばりついておる。そこが、水底に眠る龍の背じゃ。そこ以外は、死の泥と思え」
「龍の、背……?」
高虎が、万福丸の指す先をじっと見据えた。
そこは、川の中でも最も流れが速く、一見すれば自殺行為に等しい地点だった。しかし、万福丸の白濁しかけた瞳には一切の迷いがない。高虎は、自分の背に乗るこの幼子の「異常な眼力」を信じることに決めた。
「……御意。喜三郎、若様の指示通りに行くぞ。足場を疑うな」
高虎が激流に足を踏み入れる。濁流が膝を打ち、飛沫が顔を叩く。だが、足の裏に触れた感覚は、喜三郎が危惧していた泥の柔らかさではなかった。
確かな、岩盤の感触。時任の言う通り、硬い地層が激流の底に一本の見えざる道を作っていた。
三人は、追っ手に一歩の足跡も残すことなく、対岸へと渡りきった。
対岸の岩陰に万福丸を下ろした時、高虎の手は微かに震えていた。
(……信じられん。濁流の底に眠る地層を、微小な虫の痕跡から一瞥で見抜いたというのか。ただの直感ではない。この御方には、自然界の理そのものが見えている……)
高虎の中で、万福丸という存在が、守るべき主君から「畏怖すべき王」へと完全に昇華された瞬間だった。
「……若様、これ!」
喜三郎が、道すがら見つけた野生のアケビを差し出した。
万福丸は、泥と傷にまみれた手でそれをひったくるように奪うと、中身を無作法に口へ押し込んだ。暴力的なまでの野生の甘みが、枯れ果てた肉体の隅々へと染み渡っていく。
「……ふう。生き返ったわ」
白黒だった視界に、鮮やかな色が戻る。万福丸は、口の周りをアケビの汁で汚したまま、不敵に笑った。
それから数時間、一行は歩みを進めた。夜になり、天候は激しい暴風雨となっていた。
「……高虎。あそこに見える灯りは何だ」
指差す先。琵琶湖の最北端に
小さな光の粒が連なっている。
「……塩津の港町です。あそこを抜ければ、海津から西近江へ出られます。ですが、街道には織田の軍勢が関所を張っております。九歳の子供を連れての突破は……」
――突破できる。物理的に隠れる必要はない。
時任が、万福丸の脳内で生物学の理論を展開する。
――昆虫が天敵の鳥から逃れる『隠蔽的擬態』と同じ理屈だ。虫は透明になるわけじゃない。捕食者が『警戒していない背景の風景』に溶け込むんだ。人間も同じ視覚の獣だ。夜の関所、奴らは『息を殺してコソコソ隠れる不審な逃亡者』を探している。
「……ほう」
――なら、逆を突け。九歳の泥だらけの子供が、大口を開けて文句を垂れながら真正面から歩いてくるとは、奴らの脳は予測していない。警戒の『死角』を歩くんだ。
「案ずるな、高虎」
万福丸が、泥だらけの顔を上げて立ち上がった。
「織田の兵の目は、我らを見ているようで、何も見てはおらぬ。鎧は目立つ、二人とも脱ぎ捨てよ。喜三郎はその槍も捨てよ。わしが、その『死角』を通らせてやる。おぬしらは、わしの不甲斐ない下男として振る舞え」
塩津。松明が嵐に煽られて赤々と燃える関所の前に、三人の影が近づいていく。
兵士たちが槍を構え、誰何の声を上げようとしたその瞬間。
「ええい、泥ばかりで歩きにくいわ! おのれら、とっとと背負わぬか! 腹が減って倒れそうじゃ!」
静寂を切り裂くような、癇癪を起こした子供の大声が響き渡った。
万福丸だった。泥だらけの着物を纏いながらも、その態度は尊大そのもの。高虎と喜三郎に向かって、地団駄を踏んで喚き散らしている。
「こ、こら、静かにしろガキ! 止まれ!」
関所の兵が慌てて槍を突きつけた。だが、万福丸は怯むどころか、兵士を忌々しそうに見上げた。
「なんじゃお主! わしは隣村の甚太じゃ! この腑抜けた下男どもが道に迷いおって、こんな夜更けまで歩かされておるのだ! 水の一つも出せぬなら、道を退けい!」
あまりにも堂々とした、そして腹立たしいまでの「我が儘な地元の悪童」の振る舞い。
兵士たちは呆気に取られ、顔を見合わせた。彼らが血眼になって探しているのは、小谷から逃げ延びた悲壮な浅井の若君と、それを命がけで庇う忠臣たちだ。目の前で下男を罵倒し、役人に悪態をつく泥だらけの無礼なガキなど、彼らの「警戒の網」には一切引っかからない。まして、この暴風雨の中である。
「……チッ、ただの近所の迷子か。やかましいガキだ、とっとと通れ! 浅井の残党が出たって騒ぎになってるんだ、命が惜しけりゃさっさと家へ帰れ!」
兵士が鬱陶しそうに手を振り、道を空けた。
「ふん。言われずとも帰るわ。……ゆくぞ、おのれら!」
万福丸は鼻を鳴らし、関所のど真ん中を堂々と歩き抜けた。その後ろを、高虎と喜三郎が「申し訳ねえ、坊が我儘で……」と情けない顔を作りながら(内心では主君の恐るべき胆力に戦慄しながら)通り過ぎていく。
松明の光が嵐の闇に遠ざかる。
完全に気配を消した瞬間、万福丸の顔から悪童の芝居が消え落ちた。振り返ることなく、くつ、と喉の奥で本来の冷徹な笑みを零す。
――見事な擬態だ。昆虫学の勝利だな、万福丸。
時任の声に、万福丸は小さく頷いた。
織田信長という巨大な捕食者の網の目。その警戒の死角へと、九歳の「王」が音もなく侵入を完了した夜だった。
【時任昆虫教室:其の六 ― 川底の道標・トビケラ ―】
万福丸、喉が渇いたなら石をひっくり返してみろ。砂や小石を綴って「筒」を作る虫、トビケラがいるはずだ。
・地盤の理:彼らは激流に洗われても崩れない「硬い岩盤」にしか巣を作らない。つまり、トビケラの巣があるラインこそが、足を取られぬ盤石の『天然の石畳』だ。
・恵みの理:巣から引きずり出し、そのまま口へ放り込め。信州の伊那地方では「ザザムシ」と呼ばれ、古来より貴重な蛋白源として珍重されてきた伝統の味だ。ナッツのような濃厚なコクがある。
地表の泥に惑わされるな。この川の知恵と恵みを、君の「生存の礎」とするがいい。
(帝国大学卒・昆虫研究家・時任)




