表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国昆虫戦記 ―浅井家の長男は、脳内の【昆虫研究家 時任】と乱世を歩む。~名は万福(まんぷく)なのに、知識の代償は「はらぺこ」でした~  作者: つんしー
第二章 逃避と出会い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/22

第十一話 泥の王

 山は、まだ深い闇の底にある。

 東の空が、夜の終わりを告げるようにわずかに白み始めていたが、背後に広がる空は依然として禍々しいまでの朱に染まっていた。

 小谷城が、燃えている。

 北近江を統べた浅井の誇りが、今、巨大な松明となって天を焦がしているのだ。


 万福丸は、一度も振り返らなかった。

 眼下に広がる暗い谷底を、ただじっと見つめている。その瞳には、燃える故郷への惜別など微塵もなかった。


 ――待て、水音がする。谷を下りるな。

 脳内で、時任の声がせわしなく火花を散らした。

 ――等高線を考えろ。この斜面を下りきれば行き止まりの淵だ。ここは尾根を伝って南西に抜けないと琵琶湖に出ない。周囲の地形を確認する……おい、万福丸! 焦点をぶらすな!


「……五月蝿い。わしは、見ておる」

 万福丸はカサカサに乾いた唇を動かし、短く答えた。

 昨夜、一晩中ろくな休息も取らずに山道を歩き続けたことで、ついに九歳の肉体は、絶対的な限界を突破しようとしていた。


 ぱき、と。

 湿った腐葉土の下で、枯れ枝が折れる音がした。

 その瞬間、万福丸の視界が急激にぐらりと揺れた。平衡感覚が消失し、天地が逆転する。

「おっと」

 倒木の根に短い足を引っ掛け、万福丸は派手に転がった。

 受け身も取れず、湿った土と泥の中に顔から突っ込む。そのまま、まるで力尽きたように仰向けで大の字になった。


「……おい時任。急に目の前が真っ暗になったぞ。腹が減って一歩も動けぬ。飯じゃ」

 ぽつりと零す。死の淵にいる逃亡者とは思えない、やけに軽い、透明な声だった。


 ――お前が勝手に倒れたんだろ!

 脳内で時任が絶叫する。

 ――昨夜の無理が今頃来たんだ! 体内の糖分が完全に枯渇してるんだよ!


「泣いても飯は降ってこぬ」

 万福丸は寝転がったまま、泥だらけの顔を空へ向けた。そして、前を行く長身の影に声をかけた。

「……高虎。わしを背負え」

 藤堂高虎が、静かに足を止めた。

 ゆっくりと振り返ったその瞳が、無様に転がっている万福丸を測るように細められる。


「……歩けぬのですか」

「うむ!」

 万福丸は、月明かりの下で満面の笑みを浮かべて頷いた。

 一国の若君らしからぬ、あまりにも堂々とした、清々しいまでの無様さ。

 高虎はわずかに眉を動かしたが、何も言わず、その広い背中を万福丸の前に差し出した。

 その後ろ。遠藤喜三郎が、凄まじい血の匂いを漂わせながら続いていた。昨夜、暗闇で追手の首筋を無音で掻き切った際の血糊が固まり、その鎧は黒ずんでいる。


「……若様、生きておられますな」

「まだ死なぬ顔じゃろ、喜三郎」

「はっ、左様にございます」


 三人が再び歩き出そうとした、その時だった。

 喜三郎の足が、ぴたりと止まった。高虎も同時に身体を低くし、気配を消す。

 風の音に混じり、微かに聞こえる金属の触れ合う音。そして、複数の人間が下草を踏みしめる音。

 追手だ。それも、訓練された織田の斥候部隊。


「若様! ここは某が殿しんがりを務めます!」

 喜三郎が、血走った目で刀の柄に手をかけた。

「父・直経に恥じぬよう、立派に散ってみせましょう。若様、どうか先へ!」


 ――うわ出たよ戦国脳! まだ十八歳そこらで死にたがりとか正気かよ!

 脳内の時任が、心底嫌そうに声を上げた。


「犬死にだ」

 高虎が冷たく吐き捨てた。

「お前の首など時間稼ぎにもならん。俺が追手の動線を読み、背後から数人始末して偽の痕跡を残す。若様、その隙に先へ」


「両方却下じゃ」

 高虎の背からするりと降りた万福丸が、二人をあっさりと切り捨てた。

「喜三郎の血は無駄に流さんし、高虎の策は今のわしの体力では手間じゃ」

 言うが早いか、万福丸は道端のぬかるみに両手を突っ込んだ。

 そのまま、たっぷりと冷たい泥をすくい上げ、自身の顔、そして上等な絹の着物にベチャリと塗りたくる。


「……若様!? 何を……!」

 驚愕する喜三郎を無視し、万福丸は髪にまで泥を擦り付けた。

「黙って泥に紛れてやり過ごすぞ。……死んだフリじゃ」

 泥だらけの顔の中で、瞳だけが爛々と輝いている。万福丸はくつ、と喉を鳴らして笑った。


 ――お前、一国の若君だろうが! 泥を被ることに一切の躊躇ねえな!

 時任のツッコミを聞き流し、万福丸はさっさと茂みの泥濘の中に身体を埋めた。

 唖然としていた二人の家臣も、主の異常なまでの決断力と図太さに引きずられるようにして、泥の中に身を潜めた。

 

(おおお……若様が、浅井の再興のために自らあのような泥水を……! 何という覚悟、何という慈悲……!)

 喜三郎は泥の中で、勝手に万福丸の行動を美化してむせび泣きそうになっていたが、高虎はただ冷徹に(……生存のための最短の理。やはりこの御方、恐ろしいまでの合理の化身だ)と畏怖を深めていた。


 ……気配が、すぐそばを通り過ぎていく。

 戦国の武士もののふが守るべき矜持など微塵もない、徹底した生存本能。それが、最初の死線をやり過ごした。


「さて」

 泥を払いながら、万福丸が悠然と立ち上がる。

「高虎。この先、どう見る」

 高虎は、眼下の山間を通る北国街道を見下ろしながら即答した。

「北です。このまま抜ければ越前、敦賀に出る。父上が用意されたという道も通っており、この闇なら逃げやすい」


 万福丸は、高虎の視線の先――北の街道をじっと見つめた。

 夜明け前の蒼い薄闇の中、点々と続く松明の列が見える。それは異常なまでの統率力で動き、街道を完全に封鎖しようとしていた。


 ――おい万福丸、あの部隊の動き……まるで統制された軍隊アリだ。

 万福丸の目を借りていた時任が、ふと疑問の声を上げた。

 ――それにあの先頭の小柄な将、馬印に瓢箪ひょうたんを掲げてないか? 待て……思い出したぞ、帝大の入試で覚えたんだ。小谷城攻めで北側を封鎖し、一番手柄を立てた将の名を!


 脳内で、時任の声が恐怖でひっくり返る。

 ――あれは木下藤吉郎……いや、名を改めたばかりの『羽柴秀吉』だ! のちの天下人だぞ! 絶対にあいつが、お前たちを捕まえるために先回りして網を張ってる。近づくな、あんな執念深いバケモノの網にかかったら、一巻の終わりだ!


 万福丸は、脳内で喚き散らす時任の声を半分ほど聞き流した。だが、あの小柄な男の率いる「軍隊アリのような隙のない包囲」を見れば、それが確実に自分を仕留めるための死の罠であることくらい、九歳の直感でも十分に理解できた。


 万福丸は、顔についた泥を無造作に拭いながら、平然と高虎に向き直る。

「……北は、やめじゃな」

「理由は」

 高虎が、射抜くような視線を主へ向けた。

 万福丸は、眼下の将を顎で指し、ふ、と笑った。

「あの『羽柴』とやら……ひどく執念深い顔をしておる。虫酸が走るわ。あやつの網にかかるのは御免じゃ」


 高虎の息が、ピタリと止まった。

(……!? 遠目では顔すら見えぬはずの敵将の正体を見抜き、さらには『羽柴』という名や、そのねちっこい気性まで完全に読んでいるというのか……?)

 高虎の瞳が、泥だらけの幼子を震えるような畏怖をもって見つめる。

(やはり、この御方……ただの子供ではない。天が、浅井を存続させるために遣わした異能か)


「……承知いたしました。北を捨て、西へ行きましょう」

 高虎は、かつてないほど深く頭を下げた。

「よい」

 万福丸は、一歩を踏み出す。


 その小さな背中を見ながら、時任は脳内で一人、戦慄していた。

(あっぶねえ……! 浅井の息子は逃げる途中で捕まって処刑されたはずだ。親父の言った通り北へ行ってあいつの網に突っ込んでたら、お前の人生、あそこで詰んでたぞ……!)


「わしは、死なん」

 万福丸が静かに落とした言葉が、朝霧の中に消えていく。

 泥だらけの顔に、本来の、冷徹でいて無垢な笑みが戻っていた。

「せっかく生き延びたのじゃ。つまらぬ終わり方は御免じゃ」


 三人は進む。

 北ではない。西へ。

 死を待つ歴史のレールを、踏み外した先へ。


 ――本来であれば。

 万福丸は北の敦賀にて捕縛され、歴史の藻屑として消え去る運命にあった。それが、揺るぎようのない史実である。

 だが。

 時任の異能と、万福丸の図太さ。

 それだけで――歴史の軌道は、完全に外れた。


 夜が、明けていく。

 それは滅びの後の、不気味なほど清々しい朝だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ