第十一話 泥の王
山は、まだ深い闇の底にある。
東の空が、夜の終わりを告げるようにわずかに白み始めていたが、背後に広がる空は依然として禍々しいまでの朱に染まっていた。
小谷城が、燃えている。
北近江を統べた浅井の誇りが、今、巨大な松明となって天を焦がしているのだ。
万福丸は、一度も振り返らなかった。
眼下に広がる暗い谷底を、ただじっと見つめている。その瞳には、燃える故郷への惜別など微塵もなかった。
――待て、水音がする。谷を下りるな。
脳内で、時任の声がせわしなく火花を散らした。
――等高線を考えろ。この斜面を下りきれば行き止まりの淵だ。ここは尾根を伝って南西に抜けないと琵琶湖に出ない。周囲の地形を確認する……おい、万福丸! 焦点をぶらすな!
「……五月蝿い。わしは、見ておる」
万福丸はカサカサに乾いた唇を動かし、短く答えた。
昨夜、一晩中ろくな休息も取らずに山道を歩き続けたことで、ついに九歳の肉体は、絶対的な限界を突破しようとしていた。
ぱき、と。
湿った腐葉土の下で、枯れ枝が折れる音がした。
その瞬間、万福丸の視界が急激にぐらりと揺れた。平衡感覚が消失し、天地が逆転する。
「おっと」
倒木の根に短い足を引っ掛け、万福丸は派手に転がった。
受け身も取れず、湿った土と泥の中に顔から突っ込む。そのまま、まるで力尽きたように仰向けで大の字になった。
「……おい時任。急に目の前が真っ暗になったぞ。腹が減って一歩も動けぬ。飯じゃ」
ぽつりと零す。死の淵にいる逃亡者とは思えない、やけに軽い、透明な声だった。
――お前が勝手に倒れたんだろ!
脳内で時任が絶叫する。
――昨夜の無理が今頃来たんだ! 体内の糖分が完全に枯渇してるんだよ!
「泣いても飯は降ってこぬ」
万福丸は寝転がったまま、泥だらけの顔を空へ向けた。そして、前を行く長身の影に声をかけた。
「……高虎。わしを背負え」
藤堂高虎が、静かに足を止めた。
ゆっくりと振り返ったその瞳が、無様に転がっている万福丸を測るように細められる。
「……歩けぬのですか」
「うむ!」
万福丸は、月明かりの下で満面の笑みを浮かべて頷いた。
一国の若君らしからぬ、あまりにも堂々とした、清々しいまでの無様さ。
高虎はわずかに眉を動かしたが、何も言わず、その広い背中を万福丸の前に差し出した。
その後ろ。遠藤喜三郎が、凄まじい血の匂いを漂わせながら続いていた。昨夜、暗闇で追手の首筋を無音で掻き切った際の血糊が固まり、その鎧は黒ずんでいる。
「……若様、生きておられますな」
「まだ死なぬ顔じゃろ、喜三郎」
「はっ、左様にございます」
三人が再び歩き出そうとした、その時だった。
喜三郎の足が、ぴたりと止まった。高虎も同時に身体を低くし、気配を消す。
風の音に混じり、微かに聞こえる金属の触れ合う音。そして、複数の人間が下草を踏みしめる音。
追手だ。それも、訓練された織田の斥候部隊。
「若様! ここは某が殿を務めます!」
喜三郎が、血走った目で刀の柄に手をかけた。
「父・直経に恥じぬよう、立派に散ってみせましょう。若様、どうか先へ!」
――うわ出たよ戦国脳! まだ十八歳そこらで死にたがりとか正気かよ!
脳内の時任が、心底嫌そうに声を上げた。
「犬死にだ」
高虎が冷たく吐き捨てた。
「お前の首など時間稼ぎにもならん。俺が追手の動線を読み、背後から数人始末して偽の痕跡を残す。若様、その隙に先へ」
「両方却下じゃ」
高虎の背からするりと降りた万福丸が、二人をあっさりと切り捨てた。
「喜三郎の血は無駄に流さんし、高虎の策は今のわしの体力では手間じゃ」
言うが早いか、万福丸は道端のぬかるみに両手を突っ込んだ。
そのまま、たっぷりと冷たい泥をすくい上げ、自身の顔、そして上等な絹の着物にベチャリと塗りたくる。
「……若様!? 何を……!」
驚愕する喜三郎を無視し、万福丸は髪にまで泥を擦り付けた。
「黙って泥に紛れてやり過ごすぞ。……死んだフリじゃ」
泥だらけの顔の中で、瞳だけが爛々と輝いている。万福丸はくつ、と喉を鳴らして笑った。
――お前、一国の若君だろうが! 泥を被ることに一切の躊躇ねえな!
時任のツッコミを聞き流し、万福丸はさっさと茂みの泥濘の中に身体を埋めた。
唖然としていた二人の家臣も、主の異常なまでの決断力と図太さに引きずられるようにして、泥の中に身を潜めた。
(おおお……若様が、浅井の再興のために自らあのような泥水を……! 何という覚悟、何という慈悲……!)
喜三郎は泥の中で、勝手に万福丸の行動を美化してむせび泣きそうになっていたが、高虎はただ冷徹に(……生存のための最短の理。やはりこの御方、恐ろしいまでの合理の化身だ)と畏怖を深めていた。
……気配が、すぐそばを通り過ぎていく。
戦国の武士が守るべき矜持など微塵もない、徹底した生存本能。それが、最初の死線をやり過ごした。
「さて」
泥を払いながら、万福丸が悠然と立ち上がる。
「高虎。この先、どう見る」
高虎は、眼下の山間を通る北国街道を見下ろしながら即答した。
「北です。このまま抜ければ越前、敦賀に出る。父上が用意されたという道も通っており、この闇なら逃げやすい」
万福丸は、高虎の視線の先――北の街道をじっと見つめた。
夜明け前の蒼い薄闇の中、点々と続く松明の列が見える。それは異常なまでの統率力で動き、街道を完全に封鎖しようとしていた。
――おい万福丸、あの部隊の動き……まるで統制された軍隊アリだ。
万福丸の目を借りていた時任が、ふと疑問の声を上げた。
――それにあの先頭の小柄な将、馬印に瓢箪を掲げてないか? 待て……思い出したぞ、帝大の入試で覚えたんだ。小谷城攻めで北側を封鎖し、一番手柄を立てた将の名を!
脳内で、時任の声が恐怖でひっくり返る。
――あれは木下藤吉郎……いや、名を改めたばかりの『羽柴秀吉』だ! のちの天下人だぞ! 絶対にあいつが、お前たちを捕まえるために先回りして網を張ってる。近づくな、あんな執念深いバケモノの網にかかったら、一巻の終わりだ!
万福丸は、脳内で喚き散らす時任の声を半分ほど聞き流した。だが、あの小柄な男の率いる「軍隊アリのような隙のない包囲」を見れば、それが確実に自分を仕留めるための死の罠であることくらい、九歳の直感でも十分に理解できた。
万福丸は、顔についた泥を無造作に拭いながら、平然と高虎に向き直る。
「……北は、やめじゃな」
「理由は」
高虎が、射抜くような視線を主へ向けた。
万福丸は、眼下の将を顎で指し、ふ、と笑った。
「あの『羽柴』とやら……ひどく執念深い顔をしておる。虫酸が走るわ。あやつの網にかかるのは御免じゃ」
高虎の息が、ピタリと止まった。
(……!? 遠目では顔すら見えぬはずの敵将の正体を見抜き、さらには『羽柴』という名や、そのねちっこい気性まで完全に読んでいるというのか……?)
高虎の瞳が、泥だらけの幼子を震えるような畏怖をもって見つめる。
(やはり、この御方……ただの子供ではない。天が、浅井を存続させるために遣わした異能か)
「……承知いたしました。北を捨て、西へ行きましょう」
高虎は、かつてないほど深く頭を下げた。
「よい」
万福丸は、一歩を踏み出す。
その小さな背中を見ながら、時任は脳内で一人、戦慄していた。
(あっぶねえ……! 浅井の息子は逃げる途中で捕まって処刑されたはずだ。親父の言った通り北へ行ってあいつの網に突っ込んでたら、お前の人生、あそこで詰んでたぞ……!)
「わしは、死なん」
万福丸が静かに落とした言葉が、朝霧の中に消えていく。
泥だらけの顔に、本来の、冷徹でいて無垢な笑みが戻っていた。
「せっかく生き延びたのじゃ。つまらぬ終わり方は御免じゃ」
三人は進む。
北ではない。西へ。
死を待つ歴史のレールを、踏み外した先へ。
――本来であれば。
万福丸は北の敦賀にて捕縛され、歴史の藻屑として消え去る運命にあった。それが、揺るぎようのない史実である。
だが。
時任の異能と、万福丸の図太さ。
それだけで――歴史の軌道は、完全に外れた。
夜が、明けていく。
それは滅びの後の、不気味なほど清々しい朝だった。




