第十話 小谷城陥落
山は、すでに死んでいた。
小谷城を囲む尾根には、織田の兵が隙間なく配置され、谷には兵糧の尽きた者を追い詰めるかのように伏兵が潜む。もはや城は、逃げ場のない巨大な火の檻となっていた。
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### 城内、赤尾屋敷
天正元年(一五七三年)八月末。
炎の匂いが、夜風に乗って漂っていた。
浅井長政は、静かに座していた。白装束を纏ったその前に、お市の方が立つ。背後には茶々、初、そして幼い江が、声を殺して身を寄せ合っていた。
遠くで、城門が破られる凄惨な音が響く。終わりの時は、すぐそこまで迫っていた。
「……あの子は」
長政が静かに問いかける。お市の方は、真っ直ぐに夫を見つめ、深く頷いた。
「万福丸は……あなた様が用意された数名の忠臣たちと共に、北の敦賀へと通じる抜け道へ。今頃はもう、包囲の外におりましょう」
お市の方の言葉は、嘘だった。
彼女は、万福丸が「数名の者と北へ向かう」と告げた言葉を信じ切っていた。息子が、あの得体の知れない巨漢(高虎)や狂信的な若武者(喜三郎)と共に、独自の闇のルートへ足を踏み入れたことなど、知る由もない。
だが、その報告を聞いた長政は、深く息を吐き――安堵を湛えて小さく笑った。
「そうか。……無事に抜けたか」
自分たちが選んだ「絶望」の中で、唯一の希望が、正統な忠義の道を通って外へ解き放たれたのだ。長政は、それが息子を地獄へ直行させる死の道標であることなど露知らず、純粋な親心から安堵の涙を浮かべた。
「よくやった、市。……これで、浅井の血は絶えぬ」
長政は立ち上がり、娘たちの頭を優しく撫でた。
「茶々、初。母上を支えよ。そして、強くなれ。浅井の誇りは、おぬしたちの中にも流れておる」
別れの言葉だった。お市の方は動かない。だが――。
「行け。わしの最期を見せるわけにはいかぬ。……おぬしたちは、織田の世で生き抜くのだ」
お市の方は深く頭を下げた。頬を伝う涙が畳に落ちる。それでも彼女は、決して振り返らなかった。茶々と初も、声を殺して母の背を追う。
気配が消え、静寂が戻る。聞こえるのは、近づいてくる炎の爆ぜる音だけだ。
長政は、再び座り直した。
「……万福丸。生きよ。泥をすすり、汚名を被ってでもな」
それが、息子が自らの敷いたレール(史実)から完全に外れたことを知らない、父としての最後の祈りだった。
長政は短刀を取り、迷いなくその生涯を閉じた。北近江の覇者・浅井家の灯が、ここに消えた。
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### 麓、織田本陣
やがて、城門が開いた。
燃え盛る城を背に、お市の方と娘たちが、兵に導かれて外へ現れる。その先に、馬上に跨る織田信長が待っていた。
かつて同じ家で笑い合った兄妹が、今は勝利者と敗残者として対峙する。
「……無事か、市」
「……ええ。兄上」
お市の方の声は、硬く、冷えていた。
「長政は」
「……武士として、果てました」
お市の方は答え、その後に一瞬の沈黙を置いた。信長の冷徹な目が、探るように妹を見据える。
「嫡男、万福丸はどうした。城の中か、それとも」
「あの子は……父と共に。浅井の名と共に、炎の中に消えました」
お市の方は、微塵も揺らがぬ嘘を吐いた。
わが子を「死んだ」と言い切ることで、追手の目を完全に逸らす。敦賀へ向かった息子を守るための、それが母としての命がけの守りだった。
信長は、瞬き一つせず、しばらく妹の瞳を見つめていた。その圧倒的な威圧感の前に、お市の方は心臓が止まるほどの恐怖を味わうが、決して目を逸らさなかった。
やがて、信長は短く鼻を鳴らした。
「……そうか。市たちを連れて行け。丁重に厚くもてなせ」
お市の方は、内心で深く安堵の息を吐き、兵に連れられて陣の奥へと去っていった。
(……これでいい。あの子は、助かる)
だが、お市の方の足音が完全に消え去り、周囲に静寂が戻ったその直後だった。
信長は、先ほどまでの穏やかな表情を微塵も残さず、背後に控える羽柴秀吉へと振り返った。その眼差しは、血に飢えた獣よりもなお冷酷だった。
「藤吉郎」
「……はっ」
「市の嘘は健気だが、あの長政が、たかが九歳の嫡男を無惨に道連れにするはずがない。必ず少数の忠臣を付け、越前の敦賀あたりへ逃がしたはずだ」
秀吉の背筋に、冷たい汗が伝う。信長は、お市の方の決死の嘘を、一瞬で見破っていたのだ。
「藤吉郎。直ちに手勢を割き、敦賀の町から山中まで、虱潰しに探れ。浅井の種は、必ず生け捕りにし……関ヶ原へ引き立てて、見せしめに串刺しにせよ。禍根を一粒たりとも残すな」
「ははっ!」
絶対者の冷酷にして完璧な命令が、夜の闇へと放たれた。
長政が用意し、お市の方が守ろうとした「敦賀への逃亡ルート」。それは信長の知略の前に、完全な「死の罠」として確定したのである。
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### エピローグ
その夜、小谷城は完全に燃え落ちた。
炎は山を舐めるように広がり、夜空を血のような赤に染める。浅井の栄華を支えた石垣は砕け、櫓は崩れ落ちた。
だが、その炎から遠く離れた闇の中。
敦賀とは全く違う方角の森の奥深くで、足を止めた小さな影があった。
『……完璧な囮になったな』
脳内で、時任の声が響く。いつになく神妙な、どこか震えるような響きだった。
『長政が用意した忠臣たちは、今頃、お前がいないとも知らずに敦賀へ向かっている。織田の追手は、血眼になってその「正統な逃亡ルート」を追うだろう。……皮肉なもんだ。親父の残した武士の意地が、結果として、俺たちから織田の目を逸らす最高の目くらましになった』
(……ああ。わかっておる)
万福丸は、燃える山を振り返らなかった。
長政の安堵も、お市の方の嘘も、信長の冷徹な追跡も。すべては史実という名の巨大な渦の中で、すれ違い、空回りしていく。
ただ一つ、その渦から「泥まみれの抜け道」を通って這い出した万福丸の存在を除いて。
『……あの炎の中に、お前もいたかもしれない。あるいは敦賀で、串刺しになっていたかもしれない。だが、お前は今、ここに立っている。……万福丸。ここから先は、俺の知識にもない「完全な未知」の歴史だぞ』
(望むところよ)
万福丸の横には、肩に傷を負いながらも槍を握り直す遠藤喜三郎が、そして前方の闇を冷徹に睨みつける藤堂高虎がいる。
「……ゆくぞ。浅井万福丸の歴史は、今夜で終わった。これからは、ただ泥をすする一人の男として生きる」
九歳の子供が選んだ、地獄への第一歩。
彼らが次にどの地へ向かい、誰を利用し、どのように戦国の裏面を喰い破っていくのか。
浅井の血は、断たれるはずだった夜を越えて、確かに、そして極めて異質な形で脈打ち続けていた。
【時任昆虫教室:番外編 ― 滅びぬ血脈、浅井三姉妹の数奇なる行方 ―】
万福丸、君には三人の妹がいるね。茶々、初、そして江だ。
歴史の表舞台から消される運命にある君とは対照的に、彼女たちが繋ぐ「浅井の血」はやがてこの国の頂へと昇り詰める。
特に末の妹「江」だ。
彼女は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の正室となり、その娘「和子」を皇室へと送り出した。そして和子が産んだ娘は、第百九代・明正天皇として即位するんだ。
もっとも、明正天皇ご自身にはお子は恵まれなかった。
だが、案ずることはない。江の血筋は徳川家や他の公家を通じ、網の目のように歴史の裏側を流れ続けたのさ。
そして江戸時代後期、光格天皇の代でその血は再び皇統へと合流し、現在の皇室に至るまで一度も途絶えることなく受け継がれている。
いいかい、万福丸。
君が今、泥を啜り、虫の知恵を借りてでも生き延びようとするその体には、未来の天皇家へと繋がる「不滅の種子」が宿っている。
君の生存は、数百年後の日本の形を守るための「聖戦」でもあるんだよ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




