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戦国昆虫戦記 ―浅井家の長男は、脳内の【昆虫研究家 時任】と乱世を歩む。~名は万福(まんぷく)なのに、知識の代償は「はらぺこ」でした~  作者: つんしー
第一章 小谷の春と落日

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第九話 脱出

 深夜。

 小谷城の外――賤ヶ岳一帯は、織田の軍勢により幾重にも封じられていた。

 山の麓には無数の篝火。尾根には見張り。谷には伏兵。それらが重なり合い、城を囲う光は、逃げ場を奪う檻のように静かに締め上げている。


 万福丸は、その光景を見据えたまま、一度だけ深く息を吐いた。

 抜けられる道ではない。理屈で考えれば、ここでむくろを晒すのが必定。

 だが――。


「それでも、行く」

 低く、自分に言い聞かせるように呟く。

 迷いはない。母と妹たちを光の道へ残し、父の願いを背負って泥をすすると決めた以上、戻る道はすでに断たれている。


 その時。闇の中から、二つの気配が現れた。

「若様」

 声をかけたのは、遠藤喜三郎。その隣に、藤堂高虎が立つ。

 高虎は冷徹な眼差しで周囲の光を数え、短く吐き捨てた。

「綻びあり。巡回の合間と地形の死角が重なるときを縫いましょう」

「……ほう。あの鉄壁の陣に、穴を見つけたか」

「逃げ道にここが一番都合が良かっただけのこと。……さあ、参ります」


 喜三郎は、力強く槍の柄を握り直した。

「正面は通らぬ。なれば、この喜三郎が身を挺して道を斬り開くまで」


『……抜けられる確率は一厘いちりんもない。一つ違えば、全員まとめて串刺しだぞ』

 時任の声が、頭の奥で警鐘を鳴らす。

(ここで止まれば、終わりだ。……行くぞ)


 三人は、闇に溶けるように動き出した。

 尾根を避け、谷を縫い、木々の影を渡る。高虎の導きは、計算され尽くしたかのように無駄がない。


『……にかなっているな。高虎、こいつの空間把握能力は確かに化け物だ。……だが、余裕は一切ない。一手遅れれば終わるぞ』


 その言葉を裏付けるように、状況が動く。

「……止まれ」

 高虎が鋭く手を上げた。前方、想定よりも早く松明の光が動き出す。

 巡回の交代が早い。綻びが、閉じようとしていた。


『詰みだ。この先は断崖絶壁、下は織田の陣だ。万福丸、お前の「勘」もここまでか』

 時任の焦燥に満ちた声が響く。だが、万福丸は泥にまみれた手で、岩肌を激しくなぞった。


(……ここだ。わしは、ここを調べた。……あったぞ!)


 万福丸の指先が、岩の隙間に触れる。そこには、雨風を絶対に凌げる強固な場所にしか巣を作らないトタテグモの糸の痕跡があった。時任の教え通り、地盤が絶対に崩れない完璧な足場だ。


「高虎、その岩の隙間に手を掛けろ! 喜三郎、次はその上のクロオオアリの列の跡を辿れ! 虫が選んだ道だ、絶対に崩れぬ!」

「……っ、これは。若様、まさかこれほど前から、微小な虫の動きで地盤の強度を測っておられたと……」

 高虎の目に、初めて純粋な驚愕の色が浮かぶ。

 九歳の子供が、そこまで狂気じみた精度で自然の理を利用し、逃走経路を盤石にしていたというのか。高虎の中で、万福丸の「神算鬼謀」の評価がさらに一段跳ね上がる。


『……おい。お前が毎日泥だらけで泣きそうになりながら調べてたのは、これのためか。ただの我慢比べじゃなかったんだな』

(……遊びで命は懸けぬ。時任、これがわしの、そしておぬしの『足掻き』の成果よ!)


 三人は、虫の道しるべを頼りに、音もなく絶壁をよじ登り、包囲網の外縁へと抜けていく。斜面は急で、尖った岩が足を削るが、そのルートだけは奇跡のように足場が安定していた。


 やがて、火の光が遠のいた。最悪の死地は抜けたかと思われた。

 しかし。

「……誰だ!」

 木立の奥、不意に松明が掲げられた。運悪く用を足しに来ていたらしい一人の織田兵が、万福丸の姿を捉えていた。


(しまった……!)

 万福丸の血の気が引く。

 ここで大声を上げられれば、終わりだ。かといって、喜三郎が槍で刺せば、断末魔の叫びと血の匂いが周囲の伏兵を呼び寄せる。

 兵が大きく息を吸い込み、「いたぞ!」と叫ぼうとした瞬間。


 闇の中から、猟犬のような速度で飛び出した影があった。

「……させぬ」

 遠藤喜三郎だ。彼は槍を構えることなく、敵の背後に回り込み、その首筋に「短刀」を深く突き立てた。

 否、突き刺してはいない。ただ、刃を押し当てただけだ。


「が、あ……っ……!?」

 兵は声すら上げられず、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。痙攣けいれんすら起こさず、泥の上に音もなく倒れ伏す。


『……よし、完璧に効いたな!』

 時任が、歓喜の声を上げる。

『オオスズメバチの毒腺とトビズムカデから抽出した神経毒を、ハシリドコロの成分で調整した麻痺薬。中枢神経を即座に遮断する、戦国時代最強の「無音兵器」だ!』


 万福丸は、喜三郎の手元を見た。

 あの短刀には、自分たちが命がけで――万福丸が泥だらけで吐きそうになりながら集めた――猛毒がたっぷりと塗られていたのだ。喜三郎という「汚れ仕事を引き受ける盲信者」を得たことで、初めて実戦投入が可能になった最強の切り札である。


「見事だ、喜三郎」

「はっ。若様から授かったこの妙薬、真に恐るべき効能。某の槍など振るうまでもございませぬ」

 喜三郎は血一滴流すことなく、無力化した兵を草むらへと隠した。


 その一部始終を背後で見ていた高虎は、薄ら寒いものを感じていた。

(……無音で人を仕留める未知の毒まで隠し持っていたと? この若様、いったいどれほどの底知れぬ「闇」を飼っているのだ)


「……抜けますぞ。今のうちに」

 高虎の低い声で、再び三人は闇へと駆け出した。


 時任の生態学的知識による「ルート構築」。

 高虎の冷徹な計算による「戦況把握」。

 喜三郎の圧倒的な忠誠と「毒の行使」。

 すべてが完璧に噛み合い、絶対に不可能と思われた小谷城の完全包囲網を、三人の影は音もなくすり抜けていく。


 燃え盛る故郷を背に、漆黒の闇の中へと消えていく。

 振り返らない。振り返れば、覚悟が鈍る。

 九歳の少年は、残酷な生存の道を、自らの足で確かに歩き出していた。




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