6.あなたは私のもの
夜になりあとは寝るだけという段階になって、部屋の中は異様な緊張感に包まれていた。
ネージュは久しぶりに気合いを入れて準備したけれど、発情期とは勝手が違いフェロモンで誘うことができないため、男娼の腕の見せ所だとドキドキしている。
イデアルはネージュが湯浴みしているあいだ外に出ていて、戻ってきてから入れ違いにバスルームへ向かって長い時間出てこなかった。
待ち構えていたネージュは出てきたイデアルをさっそく捕まえに行ったのだが、また視線を合わせてくれない。
大きな体の正面に立ち、こてんと首を傾げる。昼間の会話で、嫌われてはいないと思ったんだけど……
「イデアル、今日は気分じゃない?」
「おっ、お前は! ~~~っもう少し慎みを持て!」
「え」
ようやくこちらを見てくれたと思ったら、目を吊り上げたイデアルに怒られてしまった。ポカンとしつつも、言われてみてようやく気付く。
ずっと娼館で働いていたネージュは、性的な物言いに抵抗がない。もちろん客によって態度は変えたりするのだが、たとえ相手が上品なお貴族様でも性行為をしに来ているのだから、結局はっきりと誘うのが一番好まれていたのだ。
さらに言えば男娼たちとの会話はもっと遠慮がない。イデアルには敬語を使うなと言われたときから距離感を掴みかねていて、気づけばよそ行きの顔も忘れている。
でもこれからはイデアルの妻として、慎みを持った言動に気を遣わないといけないのだろう。「普通」がわからないネージュは一個ずつ教えてもらわないと、自分では気づけなさそうだ。
(とりあえず、風呂上がりの突撃は駄目、と……。さっそく躓いちゃったな)
へにょりと眉尻を下げ、ネージュは慎みを持ってイデアルに告げた。
「じゃあ、今日はやめよっか……」
「や、やめなくていい!」
「え」
性行為はしたい。でも直接的なお誘いは駄目ということ? 普通、難しすぎるんですけど!
ネージュが戸惑いを隠せないでいるとイデアルは突然部屋の入口の方へ向かった。怒って出て行ってしまうのかと心配したけれど、イデアルは扉を開けてそこで声を張り上げた。
「散れ、散ってくれーーーっ!」
「「失礼しました~!!」」
「イデアル、がんばれよ!」
そこにはまたたくさんの騎士たちがいて、体勢を見ると耳を扉にくっつけていたようだった。聞き耳を立てないでとお願いしたのに、興味を抑えきれなかったらしい。
貴族で既婚者の騎士はすぐ宿舎を出ることが多く、ネージュの存在は珍しいようだ。
蜘蛛の子を散らすように去っていく彼らを見送って、「はぁ~っ」とイデアルは大きなため息を吐く。ネージュもここにリュート奏者がいればなぁとちょっとだけ思った。
「「…………」」
どうしよう。水揚げのときだってここまで気まずくなかったと考えながら、とりあえずイデアルについて寝室へと移動する。大きな寝台の前で足を止めたイデアルの正面に歩いて行って、ネージュはぺこと頭を下げた。
「あの、……今日からよろしくお願い……」
「俺も好きだ」
「えっ? ……わあ!」
せっかく貞淑に挨拶してみたのに、言い終える前にイデアルは口を開いた。突然の告白に固まっているとぶつかる勢いで抱きしめられ、寝台に背中から着地する。
乱暴にしたがる客もたまにいたが、イデアルが持っているのは情熱と勢いだけかもしれない。ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱擁され、ようやく実感する。
(あ……私とイデアルって、両想いなんだ)
キラキラした喜びが胸の中に降り積もって、心臓が高鳴る。
娼館でも恋愛する男娼は多くいたし、稀に恋を実らせて出ていく子もいた。しかしネージュは恋を知らないままここまで来てしまった。誰にも惹かれず、自分の心は凍り付いてしまっているのだと思っていた。
――いつの間に、溶けていたんだろう。
思えば最初から、他人とは違うものをイデアルに感じていた気がする。男娼に興味を示さないどころか嫌悪していたのに、歌を聞きたいと言ってくれた。
生意気なお坊ちゃんで、素直になると少し可愛くて。事故で番ってしまったときも決してネージュを責めなかった。
ネージュに何かあると必ず助けに来てくれたし、発情期も欠かさず付き合ってくれた。終わっていなくなると途端に寂しく感じて、発情期のあいだどれだけ満たされていたかを実感する。
「ネージュ、……いいか?」
「ッ……うん」
イデアルの体温でネージュもぽかぽかしてきた頃、耳の裏の狭い空間で声が響いて心臓が跳ねた。なんだろう。それはまだ、得たことのない感覚で。
期待とときめきで、胸が苦しい。
イデアルは少しも離れたくないみたいに顔だけを持ち上げ、ネージュの唇に口づけした。ネージュよりも厚みのある唇が押し当てられるだけでドッと体温が上がり、思わず両腕をイデアルの首の後ろに回す。
下唇を甘噛みされた。
腰を持ち上げられ、イデアルの熱が体の奥に触れる。あろうことか自分は何もしていないのに、受け入れるだけでいっぱいいっぱいで、まるで初めて誰かと体を重ねる心地だ。
奥まで繋がると、初めからこうするのが正解だったみたいな気がする。元は二人で一つの体で、離れていたことが間違っていたような。
もっと近づきたくて口づけを強請り、精一杯に伸ばした舌で口の中を舐め合った。何も言わなくても、吐息を交換するだけで心が通じ合っている。
この気持ちはなんなのだろう。気づけば目からしずくが零れていて、ひくっとしゃくり上げる。息を吞んだイデアルが眉を下げて顔を覗き込んでくるから、その優しい仕草にまた感動してしまった。
別に自分が可哀想な立場だなんて思っていない。卑下しているつもりなんてなかったけれど、こんな風に誰かが、ネージュを大切にしてくれていることが不思議でならない。
どうしてこの人に出会えたんだろう。どうして好きになって、どうして好きになってくれたの。
陳腐な表現を借りるしかない人の気持ちが今わかった。イデアルは、ネージュの『運命』としか言いようがない。吟遊詩人の語る恋物語が陳腐だったのは、それ以外に表現するすべがなかったからなのだ。
「すき。イデアル、すき……」
「……俺もだ」
いつもと違う方向から照らしてくる朝の陽光に起こされ、ネージュは満たされた気持ちで目覚めた。起きたときも隣に体温のあることが、こんなにも幸福だなんて。
イデアルは寝坊で怒られたり、初夜はどうだったとイジられたり、その日は散々だったらしい。短い睡眠時間で大丈夫かと心配していたが、帰ってきても肌が艶々していたから大丈夫そうだ。若いっていいな。
ネージュは部屋を片付けてみたり、久しぶりに自分でシーツを洗濯してみたり、なんだか奥さんみたいだと思える一日を過ごして楽しかったと報告した。
「楽しかったならいいけど……ネージュは自分が王子だってこと、忘れてないか? 屋敷を買ったら使用人も用意するからな?」
「屋敷? 使用人?」
忘れるどころか実感もまだなのだが。慎みよりも、王子とか公爵家の感覚というものを、イデアルから教えてもらわないといけないらしい。
(代わりに、夜の楽しみ方は私が教えてあげようっと)
その夜、ネージュはひとつだけイデアルにおねだりをした。
「自分用のリュートを買いたいと思って……次の休みの日、楽器店に付き合ってくれる?」
目を輝かせて頷いたイデアルへ、お礼の代わりに口づけをする。これからは、歌だけじゃなく演奏も練習したい。
ネージュに愛を信じさせてくれた人に、遠い異国の唄を届けるために。




