4.魔の手が忍び寄る
発情期にだけ相手をしてもらう関係になってから半年と少しが過ぎた。
前回は偶然だったらしいがイデアルも周期を心得たようで、次の発情期中にも訪れてくれた。
父親の公爵はあれから来ていないので、ネージュが公爵家の脅威になり得ないとわかってくれたのかもしれない。
番の子種をもらうと一人のときより早く発情期が終わるし、なんだか一人で過ごしていたときにはなかった『満たされた』感じがある。しかしその期間の記憶はかなり曖昧になるため、終わってイデアルがいなくなってからの喪失感はさらに大きいのも事実だった。
あまりにため息ばかり吐いているから、男娼たちにも「素直になったらどうですか?」と心配されている。
(自分で選んだ人生を素直に生きているつもりなのに、これ以上どうしろって?)
そして客から誘いを受けることが増えたのも変化の一つだ。
もうネージュが現役でないと知っている客でさえもそうなのだから、一見さんは推して知るべしである。こんな年寄りオメガのなにがいいのか、さっぱり理解できない。
黒い髪はそこまで珍しくもないが、虹彩の赤い瞳は珍しいと昔は注目を浴びていた。歌は得意だったし、愛嬌のないわりに売れっ子だった時代もある。
「ネージュはあの時もう少し愛嬌があれば一番人気になれたのにね。でもそうしたら滅多にご指名できなくなって、僕が泣いてただろうけど」
「そうですかねぇ……」
「ま、その綺麗で冷たそうな顔が蕩けるのが可愛いんだけど」
昔からの常連であるパラディはネージュに向けてニカッと笑う。
顔は日焼けしていて深い皺が刻まれているものの、太陽のように明るくて若々しい。貴族ではないが街でトップクラスに儲けている商人の男だ。
自分は明るいくせに落ち着いたタイプが好きなのか最近はエマばかり指名していたのに、久しぶりに来たらネージュを呼んだため仕方なく酒の相手をしている。
今日は雨のせいで客の入りも少なく、店は落ち着いていた。
「引退したのに、今や花街で一番色気滴るオメガだって噂になってるよ。貴族の番ができたんだって? 引退したのに」
引退したのに、と二度言われて責められているんだと気づく。だがパラディの表情は完全に面白がっていて、噂の真相を知りたいだけのようだ。
ネージュは酒の入った器を小さく傾けてから、またため息を零す。コクリと動いた喉仏は白く、俯くと揺れる黒髪はさらりと真っすぐで目を引く。
「急に発情期が来てしまったんですよ。仕方がないでしょう」
「……絶対に手の届かない高嶺の花になっちゃったんだね。あーあ、結婚しなくていいなら僕が番にすればよかった」
「私の発情期には進んで誓約書を書いて来てくれてたのに、そんなこと言うんですか?」
「だって書かないと他の人が相手しちゃうじゃない!」
「ふふっ」
愉快な人だ。よく外国のお土産を持ってきてくれるし、指名しない男娼にも優しいから人気がある。
今日の酒もパラディが持参したものだった。白く濁った酒は香りがほんのりと甘く飲みやすいが、意外に度数が高いのか頭がぼんやりとしてきている。
しばらく話しながら、パラディに注がれるまま飲んでいると余計に酔った感じがした。周りの音が遠く、目の焦点も合わない。
強いはずなのにと疑問に感じながらネージュが頭を軽く振ると、ぐわん、と世界が揺れたように感じた。ひどく気分が悪い。
「大丈夫かい、顔色が悪いよ。……酔ったのかな? ――これは遠い北の国の酒なんだ。君の体には合うはずなんだけどなぁ、余計なもの入れちゃったからかな」
「……え?」
唐突な吐き気を堪えることに必死で、すぐに反応することができなかった。急にパラディの笑顔が怖く感じる。
ガタガタッと周囲の人たちが椅子から立ち上がる気配がして、ネージュは動けないままゆっくりと視線を巡らせた。男娼たちは顔を強張らせ、入り口付近を見つめている。
「……なに?」
「取引をしたんだよ、公爵家とね。私は商人だから、目が利く。君が遠い国の出身であることは気づいてたけど、まさか純粋な王族だったとは……。小国とはいえ、近く起きる戦争では同盟が勝利の鍵となるだろう。悪いけど、連れて行って褒美をもらうまでは付き合ってもらうよ」
何を言われているのか理解できなかった。気づけば後ろに立っていた男たちに乱暴に引き立てられ、顔から血の気が引く。
口を開けば嘔吐しそうで、頭もぐらぐらするしで抵抗らしい抵抗ができない。用心棒は押さえられ、複数人の屈強な男たちが店の中に入ってきたとなっては華奢な男娼たちに抵抗する術もない。
「ごめんね、乱暴なことはしないから。ただ、君を渡すだけで莫大な金が入るんだよねぇ……僕と公爵閣下に」
もう逃すつもりがないからだろう、ぺらぺらとパラディはいきさつを語っている。
彼は公爵から相談を受け、ネージュの出自を調べることにした。すると北の小国ブーロンシュの王女が没落貴族の騎士と駆け落ちした三十年前の事件に辿り着いたらしい。
ブーロンシュでは五年ほど前、北の地を襲った流行病で直系の王族がほとんど亡くなってしまった。そこで駆け落ちした王女が子を産んでいるに違いないと外国にまで手を伸ばして探している最中だったようだ。
かの国では白い肌に黒髪の人が多く住んでおり、その中でも王族の特徴が赤い瞳だという。特徴的な容姿から探されていたため、パラディはすぐにネージュが探し人だとわかったらしい。
「まさか男が逃亡中に死んで、王女が娼館で働いてたなんてなぁ。さすがに職業は言えなかったけど、ネージュがオメガだと伝えたら嬉しそうにしてたよ」
「……違う。私は違う……」
急に自分が他国の王族の血を引いていると言われて、信じられる人がいるだろうか? 本当だったとしても、全く嬉しくなかった。
パラディと取引したという高官がどれくらいの立場なのかはわからないが、ネージュの扱いは向こうでも碌なものにならなさそうだ。
まさか子供を生まされるの? もうイデアル以外無理なのに?
無理なのはネージュの心持ちだけで、体は受け入れられるのかもしれない。でも、想像するだけで鳥肌が立つ。
(嫌だ……あのお坊ちゃん以外に触れられるくらいなら、死んだ方がまし……!)
店の外では目立たない黒塗りの馬車が待っており、ネージュはそこに乗せられる。ザァザァと雨が降っていて、誰もシャルムの異変には気づいていない。
こんなにもあっさりと自分は拉致されてしまうのかと、もの悲しくなった。高級娼館とはいえ、もともと立場の弱い人間の集まりだ。計画的に動かれてしまうと太刀打ちできない。
馬車が走り出し、しばらくするとネージュのひどい酩酊感も収まった。それでも気分が悪いことに変わりなく、パラディの膝を枕にするという望まない体勢で横になっている。
室内は狭く二人で満員で、屈強な男たちは周囲を騎馬で囲んでいるようだ。ネージュはこのまま公爵邸へと連れていかれるらしい。まるで物のように取引されるんだな、と考えながら、ネージュは口を開く。
「あなたは……お金に、困っているようには見えません」
「そうだね。だがいくらあっても困らないのが金というものだ。それに、公爵は金に困っているらしいよ? 屋敷をゴテゴテ飾り付けるのが趣味だからなぁ。ま、売ったのは僕なんだけど」
「私の、番は……」
「ああっ、公爵の息子だったよね! でも発情期のとき抱きに来るだけなんだろう? ……可哀想に、助けに来てくれるとでも思った?」
「…………」
ネージュは口を噤んで目を伏せる。
そう、イデアルはネージュが居なくなったって困らない。むしろ好きでもない番が居なくなればせいせいするだろう。
でも、番になった直後は一緒に来いと言ってくれていたし、父親から守ってくれた。発情期中に交わした言葉は覚えていないけれど、嫌そうだったとは思えない。
いつも誠意を持ってネージュに接してくれていたイデアルなら、ネージュが他国に売りつけられるなんて暴挙を許さないのではないだろうか? ……そうであって、ほしい。
「憂いを帯びた表情って言うのかなぁ? 妬けるね」
「ひっ……」
襟の合わせ目から手を差し込まれ、鎖骨を撫でられる。恐怖で立った乳嘴を指先で弄ばれると、全身の肌が粟立ち嫌な汗をかく。
男娼だったときなら、それくらいの接触はなんとも思わなかったはずだ。しかし今は耐え難い不快感に全身が支配され、絶望がひたひたと足下に迫ってくる。
これが、番以外に触られるということ? 我慢するなどという次元じゃない。性器に触れたり挿入されたりしたらショックで死んでしまってもおかしくないと思えるほど、本能的な部分で拒絶している。
「い……ゃっ……」
「……へぇ、そんな風になるんだ。そそるねぇ。今から予行練習しておく?」
「……ッ!」
ぎゅっと目を閉じ、不快感に耐えようとしたときだった。
突然馬のいななきが聞こえてきたかと思うと馬車が止まり、ネージュは座席の下にごろんっと放り出される。パラディも姿勢を崩して「なんだ!?」と外に向かって大きな声を出した。
馬車の中に吊るしていたランタンは消えてしまい、視界が真っ暗になる。
「騎士が……ぐぁっ!」
「くそ、閣下から手を回したと聞いてたのに」
外から剣戟の音が聞こえ、誰のものかわからない呻き声や叫び声がする。ネージュは恐怖で固まっていたが、国外まで渡り歩くパラディは緊張しつつも慣れた様子だった。
暗闇に慣れてきた目でパラディの方を見ると、胸元から短剣を取り出し扉を窺っている。すると向こうから扉が開き、満身創痍の男がパラディに必死の形相で告げた。
「今のうちに逃げ……」
「逃がさない」
男の胸から赤く濡れた剣先が飛び出し、ゆらりと体が傾ぐ。その向こうには黄金の髪を乱れさせ、黒い騎士服を身に纏ったイデアルがいた。
助けに来てくれた……!
思わず身を乗り出したネージュだったが、背後から腕を回されたかと思うと首に冷たいものが当たった。短剣の刃だ。
「動くと切るよ。下がれ、……そう。剣を捨てろ」
「イ……イデアル」
「逃がさないよ? 大事な商品なんだから」
ネージュは思わずイデアルの名を呼んだが、彼は言われたとおり血に濡れた長剣を地面に置いた。視線はネージュたちから離さない。
もっとも、パラディは自分の優位をわかっている。
雨のなか、周囲は松明で煌々と照らされていた。イデアルと同じような格好をした騎士たちがいて、相手はほぼ倒れていたものの固唾を呑んでこちらを見守っていた。
ネージュはパラディと馬車を降り、彼らから距離を取る。すると離れたところから騎馬の集団が駆けてくるのが見えた。
揃いの鎧は、騎士団のものと違う。
「公爵家の紋章だ! はは、運命の女神は僕を見放してはいないようだ」
パラディは笑ったが、近づいてくると彼らの形相が切羽詰まったものであるとわかる。違和感の正体はその背後にいた人たちだった。
近づくまでよく見えなかったものの、黒い騎士服を着た人たちがさらにいた。ここにいるのは数人だが、新たにやってきた彼らは規模が違う。
公爵家の兵団はほとんどがネージュたちを追い越して逃げていく。公爵に合わせて立ち止まったのは数人だけで、騎士たちにあっという間に囲まれてしまった。
「国王陛下のお召しだ! ネージュ・ベアトリクス・ブーロンシュを保護し王宮へご同行いただく!」
堂々と宣言したのはヴェリテだった。再び戦闘は再開され、圧倒的不利に公爵の情けない悲鳴が聞こえる。
一方でパラディとイデアルの緊張状態は続いていた。
動くたびネージュの首に当たる刃が熱かった。痛みを感じる余裕はないが、押し当てたまま移動しているせいで皮膚が切れているのかもしれない。
イデアルの視線も熱く、一切の隙も見逃さないという決意を感じる。相手は剣を持っていないのに圧倒され、パラディは冷や汗をだらだらと流している。
パラディは街道から後退を続け、木々の立ち並ぶ林の中に入って行こうとする。いや、イデアルがそちらへ誘導したのかもしれない。
街道を出るとぬかるんだ土が足をもたつかせる。そう進むことなく、地面に這った木の根に足を取られパラディは姿勢を崩した。
その瞬間、イデアルは体当たりを食らわせる。
あいだにいたネージュも倒れるかと思ったが、いつの間にかパラディの腕から抜け、イデアルの後ろにぽてんと座っていた。
「???」
顔を上げると、短剣がパラディの手からはじき出されるところだった。身長は同じくらいなのにイデアルはいとも容易くパラディをねじ伏せ、ネージュに「大丈夫か」と聞いてくる。
ネージュは何と言っていいのかわからず、ただただ目を丸くして頷くことしかできない。
(すごい。こんなに強いんだ……!)
人の戦う姿なんて酒場で酔っぱらいが喧嘩するところしか見たことがなかったため、イデアルの強さに圧倒される。騎士は馬に乗って剣を持って戦うだけじゃないんだと、今さらながらにネージュは知った。
追いかけるようにやってきた騎士たちがパラディを縛って、街道の方へ運んでいく。罪人の扱いにパラディは顔を真っ赤にし、イデアルに向かって叫んだ。
「こいつがブーロンシュへ連れて行けと僕に頼んできたんだ! どうして僕が捕まる!?」
「…………」
イデアルはパラディを無視し、ネージュの正面に膝をつく。その後ろにはヴェリテもいた。
「ネージュ、首が痛そうだな……。ほかに怪我はないか」
「私、私は……頼んでない。ブーロンシュなんて国、知らない」
ネージュは怖くなり、ふるふると首を振る。平民の中でも男娼の言葉は一等弱く、パラディの言葉の方をイデアルたちが信じてしまうと思ったのだ。
どうして国王陛下がネージュを呼んでいるのか。この国で育ったのに、他国の生まれだと知って勝手に出て行こうとしていると、まさか反乱分子だと思われている?
眉尻を下げ、悲壮感を漂わせたネージュに、イデアルは片手を差し出した。
「わかってる。あいつと俺の父がネージュを売りつけようとしていたことも、全部知ってる。だから……大丈夫だ。ネージュが望むなら、ずっとヴィエーヴにいていい」
イデアルの言葉に、怯えていた心が優しく包まれるのを感じた。誰かに信じてもらえることが、イデアルが実の父親よりもネージュを信じたことが、こんなにも嬉しいだなんて。
「ていうか、結婚するんでしょ? それを先に言いなよ」
「っ! ヴェリテ……!」
ネージュがほぅっと胸を撫でおろしイデアルの手を取ろうとしたとき、突然口を開いたヴェリテの言葉に首を傾げてしまう。今なんて……結婚?
「ブーロンシュの王族であるネージュさんと、レウスィット公爵家次男であるイデアルの婚姻を、国王陛下が認めてくださったんだよ!」
「……は??」
「説明はあとだ。行こう」
説明されても意味が分からず、ネージュは丸く口を開けたままイデアルに催促されて立ち上がろうとした。……が、腰が抜けていて立ち上がれない。
「あ……」
「ほら、掴まれ」
もう一度目の前に手が差し出され、ネージュは今さらながらに震えてきた手を重ねた。
――あったかい。大きくて、胼胝や切り傷でゴツゴツしている手だ。
イデアルにぐいっと引かれて立ち上がり、ネージュはまた幼子のように抱え上げられた。恥ずかしくもあったけれど、今はイデアルにしっかりと掴まって体温を感じられることが安心する。
ネージュはようやく素直な気持ちというものがわかった。
(私、イデアルのこと……好きなんだ……)
雨はいつの間にか降りやみ、雲の隙間から月明かりが街道を照らしていた。




