朝
ふわりと、鼻先をくすぐる香りで目が覚めた。
少し甘くて、落ち着く匂い。
……紅茶?
ゆっくりと体を起こし、リビングに出ると、ちょうどキッチンから足音がした。
キリエが、トレーを両手で持ってこちらへ向かってくる。
温められたカップとソーサーが二組。
そして、紅茶の入ったティーポット。湯気が、静かに立ちのぼっていた。
「お目覚めですね」
それだけ言って、キリエはローテーブルの上にトレーを置く。
「起きる時間だと思いましたので、淹れておきましたわ」
「……すごいタイミングだな」
「生活リズムは、ある程度把握できます」
そう言って、ティーポットを手に取ると、俺のカップに紅茶を注いでくれる。
澄んだ琥珀色が、静かに満ちていく。
「よろしければ」
「ありがとう。いただきます」
一口含むと、香りがふわっと広がった。
「……美味しい」
「お気に召して何よりですわ」
その声を聞いて、自然と肩の力が抜ける。
改めてキリエを見ると、すでにメイド服に着替えていた。
きちんと整えられた姿が、朝の静けさによく馴染んでいる。
「もう着替えてたんだ」
「はい。身支度を整えてからの方が、気持ちが落ち着きますので」
紅茶を一口飲み終えたところで、キリエが静かに言った。
「朝食なのですが……」
一瞬だけ言葉を選ぶ間があってから、続ける。
「こちらでは十分なご用意が出来ませんでしたので、今日だけはディアスに手配してもらいました」
「え、そこまで?」
「車も用意しております。移動中にお召し上がりください」
思わず苦笑する。
「……気を使わせちゃったな。ありがとう」
「いえ。お気になさらないでください」
「じゃあ、すぐ支度するね」
「はい」
そう言って、俺は奥の部屋へ向かい、手早く着替える。
制服に袖を通しながら、改めて思う。
一晩で、生活の密度が一気に変わりすぎだろ。
玄関を出ると、マンション前の道路脇に一台の車が止まっていた。
黒塗りのセダン型。国産の高級車――サークレット。
落ち着いた佇まいなのに、存在感だけはやたらと強い。
……これ、完全に浮いてるよな。
搭載AIによる自動操縦対応モデル。
価格は――家が一軒建つ、らしい。
車の横に立っていたディアスが、静かに一礼する。
「朝早くから申し訳ありません」
「いや、こっちこそ。ありがとう」
「では」
後部座席のドアを開けながら、ディアスが言う。
「怜汰様、キリエ様。参りましょうか」
「はい、お願いしますわ」
車内は静かで、落ち着いた空間だった。
簡単だけど、どれも丁寧に用意された朝食。
軽くて、でもちゃんとした“朝”。
……正直、カップラーメンとは格が違う。
そんなことを考えているうちに、車は学校近くへと滑るように到着した。
校門の前。
車が止まった瞬間――複数の視線。
そりゃそうだ。
朝の登校時間に、黒塗りの高級車が校門前に停まったら、誰だって見る。俺だって、絶対見るしな……。
けど……見られる側は、結構気になるもんだな。
ディアスが外に出て、ドアを開けてくれた。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
「ありがとう、ディアス」
キリエが一歩前に出て、振り返る。
「行きましょう、怜汰様」
「……ああ。行こうか」
二人並んで校門をくぐる。
周囲のざわめきが、肌に刺さる。
校舎に入るところで、足を止める。
「職員室の場所、わかる?」
「はい。大体の場所は把握していますわ」
そう言って、キリエは澄まし顔で反対方向を向いた。
うん、よくやる迷子のパターンかな。
少しだけ迷ってから、俺は小さな勇気を振り絞る。あまり目立ちたくはないけど、このまま放っていくのも無しだな。
「……やっぱ、送るよ」
「よろしいのですか?」
「初めての場所だし、案内するよ」
そう言って歩き出すと、キリエは一拍遅れてからついてきた。
「ありがとうございます」
そう言って、二人並んで歩くとやっぱり視線は集まる。
けど、さっきよりはもう気にならなかった。
職員室の前で立ち止まり、軽く指差す。
「ここ。じゃ、俺は教室行くから」
「お気遣い、感謝いたしますわ」
そう言って、キリエは扉へ向かった。
俺はそれを見届けてから、今度こそ自分の教室へ向かう。
教室に入った瞬間、雰囲気が浮ついてることに気づいた。
――あ、これ、嫌な予感当たった。
席に向かおうとしたところで、普段ほとんど話したことのない二人が近づいてくる。
木下と須藤。どちらも運動神経が良くて、いつも運動部の連中とつるんでいるタイプだ。同級生ってだけで、みんな友達みたいな感じで距離詰めてくるから正直苦手なタイプ。いや、俺が捻くれすぎてるせいか。
「仁科おはよう! なぁなぁ、今朝の人誰?」
須藤が、やけに距離を詰めてくる。
「おはよう! 仁科のお姉さんとか? でもさ、髪の色も違ったよな?」
木下も興味津々といった様子で続ける。
「どういう関係?」
……来た。
返事を考えるより先に、周囲がざわつき始める。
聞き耳立てていた運動部の女子たちまで寄ってきた。
「あれ、メイド服じゃなかった?」
「うんうん! お人形みたいで可愛かったねー!」
「モデルさんじゃない? あんな綺麗な人、雑誌でも見たことないんだけど。スタイルやばかったね」
待って。勝手に話が進んでいく。いや、すでに俺じゃなく、キリエにしか興味がないからか、周りが憶測でワイワイ騒いでる。噂って、こうやって作られるんだな……と変なところで感心してしまった。
あー、うん、こっそり離れてもバレないさそう。
そそくさと気づかれない様に席に座りため息を静かに吐くと、小声で彩月が話しかけてきた。
「みんなキリエ様だって気づいてないね。まさか昨日の今日で本当に来るとは思わなかったよー」
「俺もいまだどうしてこうなってるんだか……」
と、その時。
教室の扉が開き、担任が入ってきた。
視線が、一斉にそちらへ向く。




