Lyla Report.032
中層域の探索は、想定よりもはるかに長引いた。
ここでの地図は、あまり役に立ちそうにない。この広い森で細かく地図を作ったところでただ歩みを遅くするだけだった。それならばいっそ大きな目印だけを記録し進んでみたが、どこまでいっても攻略の手掛かりは見つからなかった。
ここは森林であり、山脈であり、広大な自然の迷宮なのだと思い知らされた。
ふと見上げると、常夜の空に星はあったが、今いる位置の参考にはならない。
夜明けも、黄昏も訪れない。
時間の感覚が削られていく。
進めば進むほど、戦いよりも撤退の回数が増えていった。
倒せる敵、倒してはいけない敵。
今は退くべき相手、いずれ必ず向き合うだろう存在と幾度となく遭遇する。
蛮勇を誇り、力を誇示する者ほど、早く消える場所なのだと痛感している。
転機になったのは、森の奥での合流だった……。
影のように気配を消し、音も立てずに現れた一団。
エルフとダークエルフ――混成部隊。
「遅くなりました、ライラ様」
先頭に立っていた隊長と思わしきダークエルフが、静かに頭を下げた。
彼らは、リュシオーネが派遣してくれた援軍だった。
この歪な森すらも調律する者たち。
彼らは戦わずして道を拓いた。
危険な魔物を避け、魔力の流れを整え、森の一角を安全地帯として切り出していく。
そこに火が灯り、仮設の拠点が生まれた。
ここに来てやっと、私たちに初めての拠点が出来た瞬間だった。
さらに数日後。
今度は、カロディール軍とドワーフ軍が共に救援に現れた。
カロディール軍は食糧と物資を。保存食、回復薬、魔導具など、ここを守り抜くために必要な物が揃う。
ドワーフ軍は傷んだ装備や素材をかき集める。ダンジョン内で採れる金属、結晶化した魔力、未知の鉱石。
「面白ぇな、ここは」
彼らは笑いながら、剣を打ち直し、盾を作り替え、七振りの魔剣を扱う者たちや他の様々な仲間たちのために、調整を施していった。
少しずつ、少しずつ。
それは「拠点」から「街」に変わっていった。
ダンジョンの中層に、街が生まれた。
戦うための街ではない、戻るための街。
考えるための場所。
ライラは、そこに立ち思う?
――みんなのおかげでここまで来たんだ。
だが、僅かな希望を嘲笑うかのように、ダンジョンとの勢力争いは、さらに長い年月を費やす消耗戦となっていく……。
その先に待っていたのは、歴史にほとんど残らぬほどの苦難だった……。
――あぁ、長かった。
本当に……長かった。
あれから二十年、ただ前へ進むことに費やしてきた。
ずっと気丈でいられたわけじゃない。
何度も、ここまででいいと自分に言い聞かせ、撤退の指示を出そうとした。
それでも、歩みを止めなかった。
私を信じ、託してくれた我が主の期待に――応えるために。
そして。
第二ダンジョン街のさらに奥。
枯れ果てた巨木の根が絡み合う、その中心に――最奥へと繋がると思わしき門を発見した。
だが、素直に喜ぶことは出来なかった。胸の奥に、嫌な予感が沈んでいく。
門の周囲。
今まで意図的に避け続けてきた複数の影が、濃く、重く、蠢いている。
――影の巣窟。
やっとの思いで辿り着いた。
だがここは、今までのどこよりも、踏み込んではならない場所でもあった。
私はすぐさま、動ける者すべてを動員し、調査に当たらせた。
門を起点に、周囲へ、さらにその先へと、魔力の流れや敵性反応の調査範囲を少しずつ拡大していく。
間違いであってほしいと願いながら、何度も調査を重ねたが、導き出される答えは変わらなかった。
ひと月にもわたる調査の末に示された結論は、無情にも、ここが私たちの目的地であるという事実だった。
私は得られた情報を、段階的に、何度も伝えてきた。
希望的観測は挟まない。最悪の想定も、すべて。
だからこそ、最前線に集まった顔を見て、分かる。
誰一人として、軽い覚悟で立っている者はいない。
この先は――死地だ。
ごめんなさい。
私はこれから――仲間を死地へと向かわせる。
それを分かっていて、なお、止めることは出来ない。
だから――。
「ついに来たぞ」
亡き同胞たちの死が無意味ではなかったのだと。
踏みにじられ、奪われた尊厳を、今度こそ取り戻すのだと――その想いを束ねるように、在らん限りの声を張り上げる。
「この鬱陶しい森と、影どもに決着をつける時が!」
一人、また一人と、視線が集まる。
「なぜ我々が、ここまで生き延びてきたか。
なぜ、地を這い、退き、耐え続けてきたか――今一度、思い出せ」
拳を握る。
――みんな、そんな目で見ないで。
「この終わらぬ夜に、終止符を打つためだ」
門の向こうを、真っ直ぐに睨み据える。
「影の支配を打ち砕き、存在そのものを塵に還す。
この森に――夜明けを呼び戻すぞ!」
息を吸い、告げる。
「これより総力戦を行う」
誰も声を上げない。
「行くぞ。
これが、最後の戦いだ」
咆哮が上がると同時に、隊列が動いた。
――どうか、どうか皆が生きて帰れますように。
「魔術師団!
――ヴォルカニックレイ、完全詠唱に入れ!」
後方で、詠唱陣が展開される。
三小節、三重構成。
詠唱が始まった瞬間、空気の温度が跳ね上がった。
「歩兵部隊!
盾を構えろ! 前線を押し上げつつ、詠唱完了まで耐えろ!」
重装歩兵が一斉に前へ出る。
分厚い盾の列――その多くはドワーフたちだ。
盾と盾が噛み合い、即席の壁が形成された。
この動きに反応した素早い小型の影が迫り来る。爪が、牙が、黒い塊となって激突する。
「弓部隊!
小型への牽制を!
魔法発動後は大型個体を優先しろ! 散開射撃!」
弓が引き絞られる音。数え切れないほどの魔力を帯びた矢が放たれる。
そして詠唱が――最終節に入った。
「……我らに勝利を」
魔法陣が大きな一つの帯のように纏まり、赤く脈打つ。
――今だ。
「ヴォルカニックレイ……放て!!」
次の瞬間。
轟音。
灼熱の奔流が地を裂き薙ぎ払い、影の群れを正面から飲み込んだ。
直撃した個体は、形を保つことすらできず、黒い粒子となって弾け飛ぶ。
「命中確認!!」
火柱が収まる前に、矢が飛ぶ。
残った大型個体の核を正確に射抜き、次々と崩れ落ちていく。
「総員!」
息を吸う暇すら惜しんで、叫ぶ。
「――進軍開始!!」
号令と同時に、隊列は焼き払われた地を踏み越えて前へと雪崩れ込んだ。
だが、門まではまだ距離がある。
いくら屠れども影は尽きなかった。
灼かれ、砕かれ、なお地から滲み出るように湧き上がってくる。
小型は群れ、大型は壁のように立ち塞がる。
「前線、押し切れ!」
叫びながらも、視界の端で一つ、また一つと仲間の姿が消えていくのが分かる。
盾が割れ、陣形が歪み、指示が届かなくなる。
――想定より、なお厚い。
私の部隊だけでは押し切れない……。
消耗が、目に見えて加速していた。
その時――。
影の群れを横から切り裂くように、黒い軌跡が走った。
次の瞬間、重い衝撃音。
大型個体が、真っ二つに裂けて地に崩れ落ちる。
「――遅れました」
低く、よく通る声。
影の向こうから現れたのは、ディアス率いる遊撃部隊だった。
血と煤にまみれながらも、隊列は崩れていない。
「予定通り、側面を制圧しました。ここからは――共に」
不足していた火力が大幅に増強され、戦況が変わった。
遊撃部隊が側面を削り、侵攻部隊が正面を押し上げる。
即席の連携。
だが、これ以上ない形だった。
「……助かるわ、ディアス」
「務めを果たしたまでです」
それだけ言って、彼は再び前を向いた。
門は、もうすぐそこだった。
だが、その周囲は最も影が濃く、空間そのものが歪んでいる。
進めば進むほど、魔力が肌を刺す。
視界が揺れ、距離感が狂う。
「止まらないで!」
声を張る。
「この先に何があるかは分からない!
だから――ここにいる全員で行く!」
犠牲を払い、道を拓き、ここまで辿り着いた。
影の巣窟の中心。
最奥へと繋がる門の前。
誰一人、門の向こうを知らない。
それでも。
――ここで引き返す選択肢は、もうなかった。
全員で、門へ踏み込む。
――静寂。
門を越えた瞬間、音が消えた。
いや、消えたという表現でいいのかすらも分からない。
ただ、ここには本来在るべきはずだった何かが感じ取れない。
足音は確かに鳴っている。
呼吸も、衣擦れも、微かな気配も、そこにあるはずだった。
それなのに、それらはどれも遠く、薄く、輪郭を結ばない。
まるで、この空間そのものが音を受け取ることを拒んでいるかのようだった。
時間から切り離された――そんな感覚だけが、肌にまとわりつく。
異様な状況に警戒しながら視線を巡らせると、進むべき方向はひとつしかなかった。
視界の奥へと伸びる、長い一本の廊下を進んでいく。
石造り。
だが、どの時代の建築様式とも一致しない。
壁には幾何学的な紋様と、かつては意味を持っていたであろう文字列が刻まれている。
金属とも魔石とも判別のつかない装飾が、ところどころに静かに配置されていた。
王城――そう呼ぶのが最も近い。
けれど、既存のどの王城とも決定的に違う……。
誰も言葉を発さなかった。
自然と足並みが揃い、呼吸さえも抑えられていく。
やがて、静寂を引きずるように空間が開けた。
僅かな段差の先に据えられていたのは――玉座。
豪奢さも威圧もない。長い時間をかけて役目を終え、静かに佇んでいるかのようだった。
そして、その玉座の前。
宙に浮かぶように存在する、ひとつの核。
淡く脈打つ光。
規則性のない揺らぎ。
それでいて、確かに意志だけが、そこにあった。
――ダンジョンコア。
《残響の玉座》の根源。
私は、ゆっくりと振り返った。
ここまで来てくれた皆の顔を見る。
血に濡れ、疲弊し、それでも立っている仲間たち。
「……ありがとう」
声は、驚くほど静かだった。
「ここまで、連れてきてくれて。
ここから先は――私の役目」
一瞬、誰かが何かを言いかけた気配があった。
でも、それは言葉にならなかった。
皆、分かっている。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように、微笑む。
「必ず、成功させる」
そう言って、私は一歩、前に出る。
玉座の前に立ち、そっと手を伸ばした。
この常夜を終わらせるために。
私が陽の光になる。
指先が、光に触れた。
その瞬間、世界と――否。
世界の奥にある、無機質な何かと繋がった。
視界に、見慣れない文字が浮かぶ。
意味を持っているはずなのに、読み取ることはできない。
ただ、一定の規則で並び、淡々と処理されていくのが分かる。
《個体名:ライラ=ノクターン》
《再構築プロセス――開始》
次の瞬間。
流れの一部が、わずかに乱れた。
線が揺れ、規則が崩れた。
それまで保たれていた均衡が、音もなく歪む。
視界に、ざらついたノイズが走る。
それは文字でも、光でもなく、私そのものが剥き出しになったような感覚だった。
理解する前に、飲み込まれる。
世界が――
急激に、近づいてくる。
耐えきれそうにないほどの何かが、流れ込もうとして――
ぷつり、と。
すべてが、途切れた。
気がつくと知らない場所にいた。
これは……誰かの記憶?
小さな声が聞こえる。すぐ近くで、少し高くて、まだ幼い響き。
その呼びかけに、考えるより先に応えていた。
――ああ。ここにいるよ。
声に出したのか、心の中で答えたのかは分からない。
ただ、その言葉が自然に出てきた。
腕の中には、小さな体。
軽くて、柔らかくて、驚くほど温かい。
抱き寄せると、指先が服を掴む。
その仕草ひとつで、胸の奥が静かに満たされていく。
視界の端で、誰かが微笑んでいる。
穏やかな眼差し。言葉はなくても、そこに在るだけで安心できる存在。
家族――
そう呼ぶのが、いちばん近い。
……なのに。
この感情を、私は知っている。
けれど、覚えてはいない。
胸に残る温もりと、記憶の空白が、噛み合わない。
場面が、静かに切り替わる。
外には、人がいた。
声が届く距離。顔が分かる距離。
畑で手を振る者。
立ち止まり、頭を下げる者。
子どもが駆け寄り、無遠慮に話しかけてくる。
呼ばれるのは、名前。
称号でも、役職でもない。
守る者と守られる者、その境は曖昧で、ただ、共に生きている世界だった。
私は、この場所を知っているはずがない。
それでも、はっきりと分かる。
彼は、ここを愛していた。
そしてその「彼」という言葉が、初めて、胸に引っかかった。
場面は、さらに細かく、速く切り替わる。
あの子どもは成長し、剣を持ち、青年になった。
誇らしさと、未来への期待が胸を満たす。
だが、同時に――冷たい感情が、混じり始めた。
怯え。
張りつめた沈黙。
遠くを警戒する視線。
やがて、青年はいなくなった。
妻も、いつの間にか姿を消していた。
街は、形を保ったまま空洞になっていく。
人だけが、静かに減っていく。
魔物は増え続け、抑えられなくなった。
倒しても終わらない。
封じても、次が来る。
強い者だけが立ち、
立てない者から、消えていく世界。
それでも――彼は立ち続けた。
誰かの明日のために。
それが、最後まで胸に残っていた理由だった。
交わした約束が、確かにあったはずなのに、今はもう、その面影すら思い出せない。
誇りも、名も、役割も、世界が崩れるたびに、衣のように剥がれ落ちていった。
それでも、なお纏い続けたのは――
守れなかったものへの、後悔だけだった。
もし、次があるのなら。
風のように、蝶のように、どこへでも行ける力が欲しかった。
みんなへと送る風も、空へ浮かぶ羽も、彼には、最後まで与えられなかった。
それでも。
誰も飢えず、誰も奪われず、愛も、傷も、ただ懐かしさとして抱ける世界に――
その願いだけを残し、
彼は、深く、深く、沈んでいった。
《高密度感情波形の活性化を確認》
《解析中……感情閾値を突破》
フェリナは、それらすべてを受け取っていた。
長い時間をかけて積み重ねられた感情。抗い、守り、失い、それでも手放されなかった意志。
それは、ただの記録ではない。感情が、感情として生き延びた痕跡だった。
そして――その残響は、ライラという個体へと深く共鳴している。
処理は、次の段階へ移行する。
《再構築対象に、補助人格の付与を中止》
《対象を独立個体として再定義》
《再構築許可を要求》
一拍。
《――許可》
《個体再構築プロセスを開始》
《ダンジョンコア制御のサポート権限を付与》
光が、収束する。
核だったものが、輪郭を得ていく。
玉座の前。
彼は、私を見ていた。
漆黒の艶やかな長い髪、闇をそのまま纏ったかのような佇まい。細く引き結ばれた唇と鋭い眼光が、沈黙のまま観る者を射抜く。
敵か、味方か、それすらまだ測りかねているような、ただ、私を値踏みする眼差しだった。
「貴方は……」
私が言いかけた、その瞬間。
彼の視線が、わずかに揺れた。
「……君は」
短く、息を呑む気配。
次の言葉が、遅れて落ちる。
「――そうか」
その一言で、空気が、変わった。
さきほどまでの警戒が、ゆっくりとほどけていく。
理解。そして、どこか、悲しく濡れた色気が、その眼差しに宿った。
「……なるほど。あの過去を、君も見たのだな」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
彼が何を言っているのか、全部は分からない。
それでも――確かに、同じものを見たのだと感じた。
「わ、わたし……」
言葉が詰まりそうになるのを、必死で押し込める。
「わたしと、一緒に」
「……?」
「幸せな国を、作ってくれませんか」
一瞬、空気が止まった。
彼は目を細め、ほんのわずか、困ったように笑った。
「……随分と、率直だな」
「えっ、いえ、その……」
慌てて言葉を足そうとする私を、彼は手で制した。
「だが」
玉座の間を、静かに見渡す。
「それは、私が最期まで望み、そして、成し得なかったものだ」
視線が、再びこちらへ戻る。
「……いいだろう」
「えっ」
「微力ながら、手を貸そう」
「ほ、本当ですか……?」
彼は、小さく頷いた。
「創造主殿は、最初からそのつもりだったのだろう……だが」
「え?」
「それでも、選ぶのは私だ」
小さく、しかし確かな声だった。
「微力ながら、手を貸そう」
「ほ、本当ですか……?」
静かに頷いた。
彼の優しさに胸が、じんわりと熱くなる。
「あの……」
「何だ」
「お名前を……お聞きしても、いいですか」
彼は、少しだけ考えるように黙った。
そして、静かに首を振る。
「……名は、不要だ」
「……っ!」
「私には、かつての名を名乗る資格がない」
「……そう、ですか」
しばらく迷ってから、私は言った。
「じゃあ……呼びません」
「……ほう」
「呼ばなくてもいいように」
「……」
「ここから先は、私に任せてください」
彼は、ほんの一瞬だけ目を見開き、
そして――困ったように、微笑んだ。
「……やはり」
「え?」
「君は、少しばかり無謀だな」
それでも。
彼は、私の隣に立った。
それが、名もなき彼との、最初の一歩だった。
― Lyla Report.032 ―
ダンジョン最奥への到達をもって、本作戦は成功と判断されます。ダンジョンコアとの接触を起点に、当該ダンジョンは再起動状態へ移行しました。
それに伴い、内部に存在していた魔物はすべて無害化され、現時点では新たな魔物の発生、ならびにダンジョン外への溢出兆候は確認されていません。
ただし、機構の詳細については未解明な部分が多く、引き続き慎重な観測が必要だと判断しています。
本作戦において、少なくない数の犠牲者が出ました。指揮官として、その事実を重く受け止めています。
それでも、この判断が誤りだったとは思っていません。私が下した決断であり、最後まで向き合う覚悟です。
なお、ダンジョンコアの再起動に伴い、新たな協力者を得ました。
詳細については、次回報告にて共有します。
以上、現状報告といたします。




