ただ君の幸せだけを願って ~公爵令嬢と病弱な幼なじみの物語~
遠くに見える庭園の噴水は、初夏の陽射しを浴びてきらきらと輝いていた。香り高いバラが咲き乱れ、温かな風が公爵家の広大な敷地を撫でてゆく。
――そんな穏やかな景色を眺めながら、私はただじっと、自分の指輪を見つめることしかできなかった。
私の名はアメリア・フランチェスカ。フランチェスカ公爵家の一人娘だ。社交界に出てからずいぶんと月日が経ち、両親や使用人たちからは、「美しく才気に富む公爵令嬢」として丁重に扱われてきた。
そして、子どもの頃から約束されていた婚約者……ロベルト・アルディシア侯爵家の嫡子とは、幼少期から幾度となく顔を合わせ、互いを知る時を重ねてきたはずだった。
だが、数日前。ロベルトは私の手を取りながら、恐ろしい宣告をしたのだ。
「アメリア、君との婚約は破棄させてもらう。すまないが……もう、君とは結婚できない」
静かなはずの庭に、その声だけがよく響く。まるで、私の心を切り裂くように。
突然の破棄。私は驚き、取り乱しかけたが、相手の瞳は冷たく揺るぎなかった。
「どういうことなの? 一体、私が何をしたというの……」
すがるように問いかけても、ロベルトは悲しげとも、あるいは申し訳なさそうともつかない、ただどこか遠くを見つめているような視線を向けてくる。
「他に……大切に思う人ができたんだ。彼女のためなら、僕はどんなことでもしてやりたい。だから、君との婚約を続けるわけにはいかない。君には罪はない。だけど、これは僕の決意なんだ」
私は言葉を失った。自分との婚約を破棄してまでも愛したい女性がいる――それは紛れもない事実らしい。懇願しても、もう彼の決意は翻りそうになかった。
この婚約は両家の合意のもと成立したものだった。それを一方的に破棄するなど、本来ならば大きな問題となるはず。けれど、ロベルトの家は侯爵家の中でも王族に近い血を持ち、さらに王宮の政治にも強く関わっている。言わば、影響力が大きいのだ。
フランチェスカ公爵家とは家格こそ並ぶように見えても、実際の政治的な力はアルディシア侯爵家の方が上。実利と義理が重視される貴族社会において、私はただ“関係を壊さぬよう”と大人しく振る舞うしかなかった。
両親も心中では怒りに燃えている様子だったが、言い争いがこじれれば、かえって公爵家の立場が悪くなる可能性がある。彼らは悔しそうに唇を噛みつつも、「アメリア、今回は受け入れよう」と諭した。
こうして、私は自分から望んだわけでもなく、愛し合っていた実感もないまま、長年約束されていた婚約を一瞬にして剥奪されたのだ。
どこか、胸が空っぽになったような感覚。婚約が破棄された衝撃と、なすすべもなく従うしかなかった無力感が入り混じり、私は言葉も感情も見失っていた。
その後、ロベルトはまるで私が「新たに相手を見つけろ」とでも言わんばかりに気遣う様子を見せ、一応は形ばかりの謝罪を述べると、さっさと姿を消してしまった。
私の指には、もう二度と嵌めることのない婚約指輪だけが虚しく残り――やがて、それもひっそりと宝石箱の奥底へと仕舞い込まれた。
それから数日経った今も、私はふとした時に呆然とする。この穏やかな日差しのもとでさえ、心の中には曇り空が広がっているようだった。
しかし、そうした私の様子を見て、せせら笑うように周囲が噂するのがわかる。「フランチェスカ公爵令嬢は捨てられた」「あの娘には何か欠陥があるのでは?」――そんな陰口が社交界を飛び交っているという。
どれだけ誠実に生きてきても、貴族たちは面白おかしく他人を噂するのが好きだ。ロベルト側が「彼女とは価値観が合わなかった」「自分勝手だった」などと根も葉もない言葉を流しているという話も耳にした。私が努力しても、誰も耳を貸してはくれない。
美しく豊かな庭園を持つ公爵家であっても、その外にはいくつもの悪意が渦巻いている。私は今にも潰れそうな気持ちを抱えていた。
そんな私に、一通の手紙が届けられたのは、曇りがちな夕暮れ時だった。
筆跡をひと目見て、それが誰からのものかすぐにわかった。――フィリップ。私の幼なじみであり、そして常に病床に伏せっているあの青年だ。
アルシェ伯爵家に生まれた彼は、生まれつき身体が弱く、幼い頃から大半を療養所や静養に使わなければならなかった。けれど、幼い私にとってフィリップは唯一、気軽に言葉を交わせる相手だった。貴族の子女は多くとも、心から腹を割って話せる友は少ない。だからこそ、同じように孤独や弱さを抱えるフィリップとは、どこかお互いを理解し合える気がしていたのだ。
手紙を開くと、そこには細やかな文字で、私の身を案じる言葉が並んでいた。
「アメリア、突然のことにどんなに驚き、そして苦しい思いをしていることだろう。君が心配でたまらない。でも、今の僕はあまり外出を許されていないから、君の顔を見に行くことができない。どうか、少しでも気を楽にして、体調を崩さないように……」
その筆跡は相変わらずの丁寧さ。文字の一つひとつが、私を包み込むように優しく並んでいた。読み進めるたび、胸が温かくなる。
――フィリップだけは、いつも私を心配してくれる。私がどんなに傷ついても、彼は決して私を悪く言わないし、噂に流されることもない。
小さなころ、まだフィリップがわずかに元気だったころには、公爵家の中庭で折り紙の遊びや本の読み聞かせをしてもらった。私の方は「もっと外で遊ぼう」と誘ったが、フィリップはすぐに疲れてしまう。だから、ほんの束の間の散歩を楽しみ、あとは部屋の中で一緒に子ども向けの絵本を開くのが常だった。
彼は体が弱い分だけ、本をたくさん読んでいたから、いつも私が知らないような物語を教えてくれた。悲しい物語も、冒険活劇も、優しい童話も――何でも。私が退屈しないように、病室からたくさんのことを語りかけてくれたのだ。
あれからずいぶん時が過ぎ、私たちはそれぞれの役割や周囲の期待に追われるようになり、しばらく直接会う機会も激減してしまった。
けれど、フィリップは離れていても、常に気にかけて手紙をくれる。今回の婚約破棄の話を聞いて、いても立ってもいられなくなったに違いない。私はその思いやりに涙を浮かべそうになるのをこらえ、一行一行を丁寧に読み返した。
そして、手紙の最後にはこう綴られていた。
「もしよかったら、僕の体調が少し落ち着いた時に、ぜひ来てくれないか。ほんの少しでも、君に笑顔を取り戻せたらいいのだけれど――」
私は思わず微笑む。手紙を胸に抱きながら、これはすぐにでも会いに行かなくては、と考えた。
――誰もが私を噂の的として好奇の目で見るなか、フィリップだけは変わらない。あの柔らかな笑顔と言葉で、きっと私を温かく迎えてくれる。思い切り泣きたいときは、彼のそばでなら泣けるかもしれない。
そんな思いを胸に、翌日、私は両親に「フィリップのもとを訪れたい」と伝えた。社交界での立場が揺らぐ中ではあるけれど、フィリップの家は以前から親交があり、彼の体調次第では私が訪問するのは不自然なことではない。両親も、疲れ果てた私をそっと送り出してくれた。
アルシェ伯爵家は静寂に包まれていた。桜色の花がひっそりと咲くアーチをくぐり抜け、奥まった建物に足を進める。通された部屋には、花模様のカーテンが陽光を遮り、ベッドには細身の青年が横になっていた。
フィリップの瞳が私を見つけた瞬間、ぱっと花が咲くように笑顔が広がる。
「アメリア……よかった、来てくれたんだね」
彼の声は少しかすれているが、それでも私をまっすぐ見つめてくれている。その姿だけで、心の底から安堵が押し寄せた。
私は彼の手をそっと握り返し、「どうしてもフィリップの顔を見たかったの」と微笑む。けれど、その笑みは作り物のように震えていたかもしれない。
「つらかったよね」
フィリップは私を気遣う言葉をすぐにかけてくれた。私は溜めこんでいたものが一気に溢れ出すように涙を浮かべ、彼の手の甲に滴を落とす。
何も言えなかった。私が慰めの言葉を紡ぐよりも先に、彼は弱々しく上体を起こして、「大丈夫。話したくなったら、全部話してくれていいんだよ」と小さく微笑んでくれる。
その優しさが胸に沁みて、私はこらえていたものを解き放つように大粒の涙を流した。ロベルトへの怒り、不安、周囲の冷たい視線への恐れ――すべてをフィリップにさらけ出してしまった。
彼は私の手をずっと握り、時折は背をさすり、ただ黙って聞いてくれる。私がしゃくりあげながら言葉を重ねるたびに、「わかるよ、大丈夫だよ」と繰り返し、温かなまなざしを注ぎ続けてくれた。
泣き晴らした後、私はどうしようもないほどに疲れていた。けれど、心の中は少し軽くなった気がする。
「ありがとう、フィリップ……ごめんね、弱音ばかり吐いて」
「いいんだ。僕たちは幼なじみだろう? 僕が少しでも役に立てるなら、こんなに嬉しいことはない」
彼の優しさは昔と変わらない。むしろ、さらに深くなっているように感じる。
それからの私は、社交界の行事に参加するよりも、フィリップを見舞う日々が増えていった。ロベルトとの婚約破棄を知る人々からの好奇の眼差しもあるけれど、あまり気にしなくなった。いや、正直に言えば、気にしてしまう自分はまだいる。けれど、フィリップが待っていると思えば、私は胸を張って馬車に乗ることができた。
訪れれば訪れるほど、フィリップの病状が決して良くはないことが明らかになる。季節が少し移り変わっただけでも、彼の体は著しく衰弱しているのがわかる。ベッドで過ごす時間が長く、細くなった腕や足は少しずつ力を失っているかのようだ。
それでも、私が部屋に入るとフィリップはいつも笑顔を見せてくれた。わずかに呼吸が荒い日でも、無理に起き上がって歓迎してくれる。私はその様子に胸が痛むほどの切なさを覚え、何とか彼の負担にならないようにと考えながら寄り添った。
季節は初夏から、やがて緑豊かな夏の盛りへと移り変わる。私の心はフィリップの優しさに救われ、同時に、知らず知らずのうちに大切な感情が育まれていた。
――私にとって本当に大事な人は、この人なのだろう。
子どもの頃は兄妹のような感覚だった。それが徐々に淡い恋心に変わっていたのかもしれない。昔なら恥ずかしくて口にできなかったけれど、今ははっきりと自覚している。フィリップは私にとって、掛け替えのない存在だ。
そして、その思いは彼にとっても同じなのではないか、と感じさせる瞬間が幾度となく訪れた。私が訪問するときの彼の笑顔、嬉しそうに私の手を取る仕草――その温もりが、私をいっそう強く惹きつける。
だが、その穏やかな時間は、ある日を境に大きく揺らぎ始めた。私の家、フランチェスカ公爵家が、新たな縁談を進めようと動き出したのだ。
「アメリア。これもお前のためを思ってのことだ。あのロベルトとの婚約破棄を、いつまでも引きずらせるわけにはいかない。我が家の名誉や、何よりもお前の将来を考えれば……」
そう父が静かに言い聞かせてくる。思い返せば、父や母は私のことを心底案じてくれていた。ロベルトを失ったうえ、世間の冷たい視線を浴び続ける娘を見て、もどかしい思いをしていたのかもしれない。
だからこそ、私に新たな結婚の話を持ちかけるのだ。今度の相手は侯爵家の嫡男らしい。温厚で誠実な性格だという噂だが、私は当然気が進まない。
「……私、まだ結婚なんて考えられないわ。申し訳ないけれど、今はそんな気持ちになれない。ましてや、フィリップの……」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込む。病床のフィリップを思う気持ちを言葉にしてしまえば、両親がどう反応するかわからなかったからだ。
今の私にとって、フィリップを支えることが何よりも大切だと思える。けれど、公爵家にとってそれが望ましいかどうかは別問題――そんな冷たい現実を、私はうすうす感じている。
貴族たちの世界では、いかに家と家の利害や格が合うかが重要視される。アルシェ伯爵家は由緒正しいとはいえ、長男であるフィリップ自身が病弱で子孫を残せるかわからない以上、決して良縁とみなされることはないだろう。
父も母もそれをわかっている。だから、私は何も言えなくなる。
日を追うごとに、縁談の話は具体性を帯び始め、私の心を苛む。社交界でも「公爵令嬢が新たな相手を見つけたらしい」と噂になり、ロベルト側にもそれが届いているだろう。噂だけならともかく、父は私の意志よりも家の名誉を優先せざるを得ず、話をどんどん進めてしまう。
その間も、私はできる限りフィリップのもとへ通った。けれど、彼の体調は目に見えて悪化している。ちょっとした会話でも息切れを起こし、熱も高い日が多い。医師たちは懸命に治療をしているようだが、快方に向かう兆しは乏しかった。
私は怖かった。フィリップを失うなど、考えられない。私の生きる希望は、もはや彼の笑顔にこそあったのだ。
しかし、あるときフィリップは、私が縁談に焦りを感じていることを何気なく察したのか、「アメリア、最近……疲れてるね」と言葉をかけた。
「本当は、何かあったんじゃない?」
私は一瞬、言葉に詰まる。けれど、彼の穏やかな眼差しは、私が何を隠そうとしても見抜いてしまいそうだ。
思いあぐねた末、正直に話すことにした。父が、私に新たな縁談を勧めていること。相手は侯爵家の嫡男で、そこまで悪い評判ではないらしいこと。だが、私はどうしても受け入れる気になれないのだ、と。
すると、フィリップは寂しげに眉を下げつつも、「そう……それは当然の流れだよね。公爵家にとっては、娘を幸せにするためにも重要なことだ」と、私の気持ちを否定するでもなく淡々と受け止めた。
私は思わず声を荒げる。
「……どうして、そんなことを言うの? 私が本当に望んでるのは……」
フィリップは、私の手をそっと握りしめた。腕は細く力がない。でも、その指先からは懸命に伝えたいという思いが感じられる。
「アメリア。僕は君の幸せを一番に考えている。……もし、僕が元気なら、何とか公爵家に相応しい立場になって、君を迎えられたかもしれない。でも、今の僕にはそれができない。こんなに弱っていて、いつ何があってもおかしくない身なんだよ」
「だから、って……」
私は悔しさで言葉が続かない。彼は自分の病状を誰よりも理解している。だからこそ、私を縛るようなことはしたくないのだろう。けれど、それでも私はフィリップを選びたい。彼こそが、私を理解してくれた唯一の人なのだから。
「ねぇ、アメリア。僕がもし、先にいなくなったとしても……君は生きていかなきゃいけない。それなら、君が少しでも幸せな道を選ぶ方がいい。君のご両親も、その方が安心できるはずだよ」
フィリップの瞳には、深い悲しみと優しさが入り交じっていた。自分自身が死を意識しているからこそ、私に幸せになってほしいと言っている。
聞きたくない。そんな言葉、私は絶対に受け入れられない。わかっている。フィリップの身体は、もう限界が近いのかもしれない。でも、それでも私は――。
目頭が熱くなる。言葉にならない思いが、喉の奥で震えていると、フィリップはかすれた声で言い足した。
「……きっと、僕は君の姿を見届けるだけで充分なんだ。君が笑っているのを見られたら、それが僕の喜びだから」
その言葉のあまりの優しさに、私の涙は堰を切ったように溢れた。
それからの日々、フィリップは日に日に弱っていった。私は何度もアルシェ伯爵家を訪れ、彼のそばにいたいと願ったが、貴族としての務めや両親の意向で、どうしても離れざるを得ない時もあった。
そして、夏の暑さがゆるみ始めた頃――医師から、「フィリップ様の容体が非常に危うい」と知らされる。慌てて馬車に飛び乗り、アルシェ伯爵家へ駆けつけたが、その道のりは異様に長く感じられた。心臓が締め付けられる思いで、ただ早く到着してほしいと祈るばかり。
屋敷に着くや否や、侍女が青ざめた表情で「アメリア様……フィリップ様がお呼びです。早く……」と案内してくれる。
私は急いで彼の部屋へと向かう。扉を開けると、そこには今にも消え入りそうな呼吸を繰り返すフィリップの姿があった。顔色は恐ろしく白く、目蓋すら重そうに見える。
「フィリップ……! ごめんなさい、遅くなって!」
私がその手を握ると、彼の唇が微かに動く。何か言いたいのに、声にならないようだ。すぐに私は耳を近づける。
「アメリア……来てくれて、ありがとう……」
それがやっと聞き取れるかどうかの声。私は震える声で返す。
「当然よ……私はあなたのそばにいるわ。だから、まだ……行かないで」
本当は、こんな言葉じゃ足りない。けれど、何を言っても無力だとわかっている自分がいる。
フィリップは微かに微笑もうとするが、苦しそうに咳き込み、その体が小刻みに震える。慌てて使用人が水を勧めるが、もう飲む力すら残っていないようだ。
「フィリップ……あなたは、私の大切な人よ。行かないで。お願いだから……」
何度も同じ言葉を繰り返す私の瞳からは、涙が止めどなくこぼれる。
フィリップはか細い息の合間に、途切れ途切れの声を振り絞った。
「アメリア……ごめんね、僕は……君の未来に……」
「そんな、謝ることなんてないわ。あなたがいない未来なんて、考えられないの。だから――」
「アメリア……君が幸せに……生きてくれたら、僕はそれで……」
そこまで言うと、彼の瞼はゆっくりと閉じ始めた。私は必死でその手を握り締めて、フィリップの名を呼ぶ。
「フィリップ! 待って……いや……嫌よ!」
嗚咽がこみ上げ、理性すら吹き飛ばしてしまうほど。どんなに望んでも、彼の呼吸が徐々に弱まっていくのを感じる。
――こんなにも大事な人が、目の前で消えていくなんて。私は何もできない。どれだけ身分があっても、どれだけ富を持っていたとしても、人の命を救うことはできない。
フィリップの最後の瞬間。彼はほんの少しだけ瞼を開き、私の手をそっと握り返すように指を動かした気がした。
そして、微かな笑みのようなものが浮かんだ。
最後の最後まで、私の幸せを祈ってくれた。その優しさに、私は魂が切り裂かれるような痛みを感じる。そして、その命の灯火は、私の腕の中で静かに途絶えた――。
部屋の中に、深い沈黙が降りる。私の泣き叫ぶ声以外、何一つ聞こえない。
――嫌だ、こんなのは嫌だ。お願い、返事をして。私がこんなに愛していると、どうして伝わらないの……
幾ら叫んでも、フィリップの瞳はもう開かないし、その手は温もりを失っていく。
それから数日、私はまるで生きる屍のように過ごした。アルシェ伯爵家の葬儀にも参列したが、涙ばかりが溢れ、立っているのもやっと。周囲の人々がどんな言葉をかけても、私はもう何も聞こえない。
唯一、私が気にかけたのは、フィリップが小さな宝箱の中に残していた手紙だった。彼がいつか私に宛てて書いたものらしい。侍女が私に手渡す際、「フィリップ様が『自分がもしもの時に』とお預けになったのです」と言っていた。
部屋に戻り、涙にぬれたままの瞳で、その手紙を開く。読み進めるほど、心が引き裂かれるようだった。
「アメリアへ。
もし、この手紙を君が読んでいるということは、僕はもう君の傍にはいないのだろう。ごめんね、最後まで、君の役に立てないままで……。
でも、僕がいなくなっても、君にはどうか笑っていてほしい。僕は子どもの頃から、君の笑顔にどれだけ救われてきたかわからない。君が微笑んでくれるだけで、僕の世界は色づいたんだ。
君が幸せに生きること。それだけが、僕のたったひとつの願い。僕のことを時々思い出してくれたら嬉しい。でも、もしそれが辛いなら、無理に思い出さなくてもいいんだ。僕はずっと君を、どこかで見守っているから……。
アメリア、君が誰よりも幸せな未来を歩めますように」
――どうして、こんなにも優しいのだろう。私はせめてものお礼も愛の言葉も、十分に伝えられなかったというのに。
手紙を握りしめる私の指先は震え、声を上げて泣きじゃくる。幼い頃から大切だった人がいなくなり、二度とその声を聞けない。悲痛は止めどない。でも、彼は最後の最後まで、私を憂うより先に、私の幸せを願っていた。
言葉にならないほどの切なさと愛しさが胸を締め付け、その痛みに耐えきれず、私はひたすら涙をこぼした。私の中で、フィリップが生きた証がまざまざと刻み込まれている。
それから数ヵ月後。私は新たな縁談について、父と話し合った。フィリップを失った私の心は、深い悲しみに沈んだまま。だけど、だからといって世界が止まってくれるわけではない。
父は表情を曇らせながら、それでも私の意向を尋ねてくる。私が「少し考えさせてください」と言うと、父は「わかった」とだけ告げた。
――正直、私はまだ誰かと結婚できるとは思えない。フィリップのことを忘れられないし、それを無理に消そうとも思わない。
けれど、私はもう一度前を向いて生きていかなければいけないとも感じている。彼が手紙で言ってくれたように、私は笑っていなくてはいけないのだ。
愛する人を失う苦しみは、私の中にずっと残り続けるだろう。そこから逃れることはできない。だけど、それでも――彼の祈りに応えるため、私は歩み出したいと願う。
フィリップが最後に見せてくれた、あのかすかな微笑み。
最期の瞬間まで私の幸福を願ってくれたあの姿を、私は一生忘れない。彼の優しさと愛が、これからの私を支えてくれると信じている。
もう彼の手を握ることはできないけれど、その温もりは私の胸の奥に確かに息づいている――。
私は静かな夜、フィリップとの思い出を綴ったノートをそっと開く。子どもの頃、公爵家の庭で一緒に遊んだ記憶。病室で読んでもらった絵本の物語。どんなに悲しい場面でも、フィリップが語れば優しく聞こえた。
ノートをめくると、一枚の押し花が挟まれている。幼い頃、フィリップが庭で見つけた花を、私にくれたものだ。言葉なくしても、あのときの彼の微笑みが思い起こされる。
――きっと、私がこれから先の人生を歩むとき、フィリップはいつでもそばにいてくれる。だから、私はもう逃げずに前を向こう。
新たな縁談に対してすぐに気持ちは動かせないかもしれない。でも、いつか本当に心から誰かを愛し、愛される時が来るなら――フィリップに胸を張って、「私は幸せよ」と報告できる自分でありたい。
いつしか夜は更け、窓の外には月が淡く輝いていた。
頬を伝う涙は、まだ苦しくて、まだ痛む。だけど、その雫はきっとフィリップが私に遺してくれた大切な宝物をたたえている。
……ありがとう、フィリップ。あなたが私に与えてくれた愛を、私は決して忘れない。
私は月を見上げ、小さく微笑む。まるで、あの人が遠い空の向こうで見守ってくれているように思えたのだ。
夜風がそっとカーテンを揺らし、優しい音を奏でる。
私は手紙と押し花を胸に抱きながら、そっと目を閉じる。
――あの優しかった幼なじみの祈りが、私を新しい明日へと導いてくれる。
涙がこぼれて止まらない。でも、その涙は絶望だけではない。フィリップの愛に包まれた、暖かな名残を湛えた――私の人生を、少しだけ優しく照らしてくれる光でもあるのだから。
そして、フィリップはきっと、天国で微笑んでいるだろう。
愛する人の幸せを、今もなお、ただ静かに願いながら。
(完)