バトン
気が付くと、周りが色々と動いてくれる。
もう、指示を出す必要もない。
私はただ、上がってきた書類を決裁するだけだ。
もう、自分の時代ではない。
いつだったか、若い頃、まだ野心に満ち溢れていた時、バトンを渡されそうになったことがある。
私はそのバトンを、受け取るのを拒否した。
私には能力があり、自信もあったからだ。
人が引いたレールなど、興味もなかった。
傲岸不遜だった。
だから成功しても、私は孤独だった。
一人きりだった。
「あのバトン、どうなったんだろうか?」
私は、受け取らなかったバトンを探そうと思った。
それが私に残された、最後の役目だと思うからだ。
「会長?どちらへ?」
「探し物だ」
「では、お車を用意します」
「要らん!」
何かあると言葉を荒げてしまうのは、いつからだっただろうか?
でも、これは自分で探さないといけないし、自分にしか分からないから。
でも、今更どうしようというんだ。
老兵はただ、去って行けばいい。
過去に固執するのは、妄執に過ぎない。
それでも、気になることを片付けないと、きっと終われないのだ。
老害と呼ばれても、仕方がない。
でも、見届けなくてはいけない。
そうでなくては、何かをやり残すような気がする。
でも、バトンは見つからなかった。
「何を考えているやら。もう、何十年も前のことだ」
独り言が多くなった自分を自覚しているが、独り言すら言わなくなったら、それこそ終わりだろう。
孤独を友にすら出来ないなんて、もうダメなんだろう。
人として。
「うん?」
若者が居た。
手元を見ている、若者だった。
その手には、あのバトンがあった。
薄汚れたバトン。
でも、どこかキレイだった。
私は声を掛けることが出来ずに、ただその若者を見ていた。
希望と絶望を身にまとい、しかしそれでも何かを求めている、そんな立ち姿だった。
するとその若者は、そのバトンを持った腕を上にあげ、一瞬静止したと思ったら、そのまま地面に叩きつけようとした。
「待っ!!!」
でも、若者は踏みとどまった。
踏みとどまりながら、少し、震えていた。
私は、何も言えなかった。
やがて若者は、意を決したように歩き出し、そして走り出した。
若者はバトンを受け継ぎ、次に繋げる決意をしたのだろうか。
私には、もう分からない。
分からない。
あの日の自分が、あまりにも遠く、まるで違う自分のように、今はもう分からない。
私はうずくまった。
希望が無い私には、絶望すら縁がない。
だからもう、終わりでいい。
そう思った時だった。
足音がした。
うずくまる私の目の前に、あの若者が居た。
戻ってきた。
若者は無言だった。
私を見下ろす若者は、どこか寂しく、どこか眩しかった。
私は、ただ笑うしかなかった。
醜くなった自分を。
嘲笑って欲しい。
それすら、望んではいけないのだろうか。
若者は何も語らず、手に持っていたバトンを差し出した。
私は訳が分からず、そのバトンを握った。
若者は力強く、私を引き上げた。
その力強さ、私にもかつてあったであろうか。
私はバトンから、手をゆっくりと放した。
未練がましく。
私には、過ぎたことだと思うから。
通り過ぎた、もう終わったことだと思うから。
しかし、若者はバトンを私の手に押し付けた。
まるで、放してはいけないと、そう言っているように。
勝手に終わるなと、そう言っているように。
「いいのか?」
若者はただ頷き、そのまま歩き出した。
私を先導するように。
私を引っ張ってくれた。
私と若者は、お互いにバトンを持ったまま、歩き出した。
滑稽な姿かもしれないし、この日を望んでいたのかもしれない。
どこへ行くのか?
どこへ行くのか、私には分からない。
若者にも分からなかっただろう。
かつての私も、分からなかった。
だから、がむしゃらに突き進んだ。
今は、何となく分かる。
バトンを受け取らなかった理由が、今にして分かるようになった。
怖かったんだ。
ただ、怖かった。
バトンを持ち続けることが出来るのか?
次に渡せる相手が居るのか?
誰も居なかったら、このバトンはどうなるのか?
きっと、私は怖かったんだ。
ああ、きっと私にバトンを渡そうとした人も、怖かったんだろう。
私にバトンを渡そうとした時、どこか、ホッとした顔をしていた。
そんな気がする。
役割を終えた、そんな表情を。
若者も、そうなのかもしれない。
だから、ついて行けるだけついて行こう。
足を引っ張るかもしれないけど、老練さなら負けない。
助けがいる時が、必ずあるはずだ。
自分は、その為に居るんだろう。
生きるんだろう。
いつか、リタイアするその日まで。
若者が完走するその姿を、見届けるまで。
次に繋げる、その日まで。
私は、いきよう。
ただ、いきよう。