カッフェと郷愁
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ずっと昔に聞いた声がする。
いつもはギラギラと差し込んでくる太陽は、その日はどんよりとした曇り空に押しとどめられ、高い位置にある窓からは、今にも泣きだしそうな空がみえる。
わたしは静かに薄暗い階段をのぼっていく。歩くたび、背中にランドセルの重みを感じながら階段を上りきると、曲がり角の向こう側に、姿は見えないけれど知っている声が聞こえた。
自分の名前が聞こえてきて、思わず足を止める。
「あれ?えりなちゃんは?」
「まだ来てないよ。お休みなのかな。」
「そうなんだ、お手紙書いてきたから早く渡そうと思ったんだけどなあ~」
「お手紙?どんなお手紙?わたしにもある?」
「ううん、ないよ。エリナちゃんのだけ。」
「ふうん…。ゆみちゃんさあ、えりなちゃんとはあんまり仲良くしない方がいいよ。」
「え?どうしてそんなこというの?」
「だって、えりなちゃんは泥棒のこどもだから。お母さんが言ってたよ。」
心臓がドキリとなる。
「どろぼう?そんなわけないじゃん。」
「ほんとうだよ。えりなちゃんのおとうさんと、おかあさんは…」
――ああ、またこの夢か。
これは…
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“..Hallo? ..na, sie schlaeft so tief.”(お―い。だめだ、しっかり寝てるな。)
知らない声が耳に入る。その心地よい低さのある声に、そっと目をあける。薄目にもわかる、目の前には知らない人がこちらをのぞき込んでいた。
“oh, Hi. Hast Du gut geschlafen?” (おお、起きた。よく眠れたか?)
――ドイツ語だ。
びっくりするよりも先に、そちらの方に意識がいった。実は、エリナはドイツ語が話せる。なので、彼が何を話しているのかは理解できた。できたが、飲み込めないのはこの状況だ。一体なにがおこっているのだろうか、あたりを見回してみる。
エリナは深緑色のしっかりとした生地の三人掛けソファの端に座っていた。タマラとラウラの言ったようにエリナはまだ例の洋館の中におり、ここは最初に案内された部屋の中のようだった。自分と対面に出入口のドアがみえており、おそらく左手後方にテラスへの入り口があるのが分かった。
ここでようやく、目の前の人間に意識を戻す。
“Hey, Alles in Ordnung?”(おい、大丈夫か?)
黒髪に焦げ茶色の瞳、優し気な顔立ちをした、エリナよりも少し若い雰囲気の男性がこちらを心配そうに見ている。
「えっと…」
――なんて答えよう。これってどういう状況?
そう思った矢先、今度は左の方からやってくる人影が目に入った。そちらを向くと、明るい栗色の髪に緑の瞳が可憐な、貴族みたいなひらひらとした服を着ている少女が立っていた。
「おはようございます。エリナさんですか?」
「……ああ、はい。エリナは私です。あなたは日本語を話すんですね?」
起きたばかりの小さくかすれた声で話すと、一瞬眉をひそめた目の前の少女が、すぐになるほどという表情になった。
「ああ、二カ国語以上話せるのね。大丈夫よ、ここでは全てが母国語に変換されるの。そういうものだと認識すればもう、問題ないわ。」
「え?」
「ああ例の問題か。ってことは彼女もドイツ語話すんだな、おもしれえ。」
「ええ!?」
先ほどまでドイツ語を話していた男性が、流暢に日本語を話している。驚いて、黒髪の彼の方に勢いよく顔を向けた。
「ははは!すげえ驚いてんな。」
黒髪の彼は、夏のヒマワリの大輪を思わせるような笑顔で笑った。思わずじっと見つめてしまう。
「わかるよ。ここに来たやつ、だいたいみんなそうだったから。なあ、シャルロッテ。」
「そうね。」
部屋の入口の扉がキイと開く音がして、見知った顔が入室してきた。
「あら、目が覚めましたかエリナ。」
ラウラが飲み物の入ったグラスを持ってきてくれたようだった。
「喉、乾いてない?お水持ってきたの。」
「あ、ありがとうございます。」
まだ寝起きで頭がシャキッとしない。ラウラが差し出してくれた冷たいお水が有難くてお礼をいう。
「あのラウラ、彼らは…」
そこまで言いかけたところで、先ほどの黒髪の男性が手をひらひらとさせながら話に割って入ってきた。
「ああ、そうか俺たちはすでにエリナのことを聞いてるけど、自己紹介はまだだったもんな。おれはカルロ、さっきので分かるだろうがドイツ出身だ。見た目がラテンなのは先祖がイタリア系移民だからだ、よろしく。」
カルロが手を差し出してきたので、私も右手を差し出し握手を交わした。エリナが出張でドイツを訪れたときにも、挨拶はまず握手だったことを思い出す。
「なるほど、ご丁寧にありがとう。もう知ってそうだけど、私はエリナです。日本人です。それで、あなたのお名前も聞いてもいいですか?」
貴族風の服を身にまとった少女の方に顔を向けて名前を尋ねた。彼女は一歩下がり、ゆるっとして上品なワンピースのようにも見えるスカートの裾を軽く持ち上げて礼をしてくれた。
「私はシャルロッテ・プラウメ、子爵家の娘です。父や母とは離れて暮らしていますの。よろしくお願いします。」
「シャルロッテさんね、よろしくお願いします。」
「ああ、私はまだ十三歳ですからそんなに畏まらず、シャルロッテと呼んでください。」
「え!十三歳?そうだったの、若いのにシッカリしてるんだね。私のことも、エリナでいいですよ。」
「そんな、まだまだお勉強することだらけです。」
ここまで貴族的な人に会うのは初めてなので、ちぐはぐな敬語になってしまう。そもそも貴族に会えてしまえるこの洋館、不思議すぎる。
「おい、そんなクールに挨拶してると日が暮れるぞ。」
そう言ってカルロが私たちの挨拶を制し、誰に向かってということもなく話し始めた。
「そうだなあ、今日は何にするかなあ?エリナもカッフェにするか?俺がここにいるときは、カッフェ…つまりエスプレッソをもらうことが多いんだけど、一緒にどうだ?もちろん紅茶もあるだろうが。合わせてイタリアのお菓子も食べてみたらどうかと思ってな。」
途中からはずっとエリナの方を見ながら、本日のティータイムについて色々な提案をしてくれた。
「私もエスプレッソ好きだよ。あ、ごめんカッフェね。イタリアのお菓子って、あなたのご先祖様の故郷のお菓子だったりするの?」
「そうだ。もちろん、言えば他のお菓子も用意してくれると思うが。」
一見押しが強く見えるが節々にこちらの反応を気にしてくれているのが分かり、くすぐったさを感じる。第一印象でエリナはカルロのことを好意的に思った。
「そうなんだ、じゃあ私もそのイタリアのお菓子食べてみたいかも。」
「よーし、いいな!カッフェと一緒にでいいな?」
「うん。」
「よし、じゃあ今日はシャルロッテも一緒にカッフェにするか?カフェインなしでカッフェ・コンパンナ…クリームのやつとかどうだ?」
「そうね、それにするわ。」
「よし決まりだ。クマ、よろしく頼めるか?」
カルロがお願いすると、くま執事はコクコクと頷いて部屋を出ていく。そしてものの数秒で銀色の大きなお盆に本日のティーセット…もとい、カフェセットを乗せて戻ってきた。
――やっぱ、めちゃくちゃ仕事はやい…!
他の二人はもうくま執事のスピード感にすでに慣れ切っているのだろうか、エリナが思ったようなツッコミを入れるものはいなかった。
「よし、じゃあテラスに行こうぜ。」
カルロがスタスタと前を歩いていく。エリナは、イタリア系のカルロが自分やラウラ、もしくはシャルロッテをエスコートしていかないのは、彼がドイツ育ちだからなのかなとか想像したりした。
――いやいや、そういう偏見が一番だめだから!やめよう、やめよう。
エリナは偏見など持たないつもりで生きているが、案外日常の些細なことで浮かんでくる事柄が、偏見に満ちていたりするものだ。ちなみにエリナが出会ったことのあるイタリア人はこれまでに一人だけだ。
――イタリア系だとか、ドイツ人だとか、貴族だとか、何語を喋るだとか、彼らについて知る上でたぶん、邪魔にしかならない情報だ。
いつの間にか初対面の人と話す緊張から自分を守ろうと、偏見という名の精神的武装を施そうとしていた自分に喝を入れる。前回と同じバラ庭園側にあるテーブルで、カルロが奥、真ん中にシャルロッテ、手前にエリナの順番に席に着くとすぐに、くま執事が三人分のカッフェとお菓子を並べてくれた。
「あれ?今日はラウラさんはご一緒しないんです?」
テラスを通り過ぎて、庭に降りて行こうとしているラウラに声をかけると、ラウラはニッコリとこちらに笑顔を向ける。
「ええ、今日は彼にお任せして、私はお庭のお手入れをしようと思っているの。声をかけてくれてありがとう、また今度お話ししましょうね。」
「はい!気をつけて行ってきてくださいね!」
ラウラはひらひらと小さく手をふると、階段を下りてバラ園の中へと入っていった。今日の彼女の服装は白を基調にハッキリとした黄色を差し色にしたワンピースなので、垣根越しにもチラチラと姿が見える。
「…まるで、黄色のバラが咲いてるみたいだな。」
ラウラの姿を見送っていると、カルロが話しかけてきた。驚いてカルロを見ると、綺麗な焦げ茶の瞳と目が合った。一瞬何のことかと思うが、すぐにラウラの着ていた服の色を思い出して納得した。
「え、すごい。イタリアの伊達男って感じ。」
ついさっき偏見について反省したばかりだというのに、そんなことを口走ってしまった。なんせエリナのイメージ通りのイタリア男すぎる。一瞬「しまった!」と思ったものの、カルロは「ははは」と笑いとばした。
「俺はドイツ人だけど、イタリアの血が女性を花にたとえずにはいられないのかもな。」
と襟元に手を持ってきて自分を指し示し、おどけて見せてくれた。そんなカルロの対応に、ほっとして笑みをこぼす。
――優しい人だな。
そう思い、なんだかすこし気まずくてシャルロッテの方を見ると、背筋を伸ばして私たちの準備が整うのを待ってくれているようだった。
「ああ、ごめんなさいねシャルロッテ。では、いただきますか?」
「!そうね!いただきましょう。」
十三歳らしい、パッと花開いたような笑顔を見せられ、エリナは内心ほっこりした。
今日の洋館でのお茶会はエリナにとって二回目。ティーパーティーならぬ、カフェパーティーだ。エリナの目の前には、貝殻のような形をしたお菓子とカッフェが用意されている。カルロのほうも同じ内容だったが、シャルロッテのだけカッフェ、つまりエスプレッソ用のデミタスカップの上に、花びらをあしらったようなひらひらの白いクリームがこんもりと乗っている。
「その白いのって、生クリーム?」
エリナがシャルロッテのデミタスカップを指して尋ねると、分からなかったらしいシャルロッテがカルロの方を向いた。視線に気がついたカルロが説明をしてくれる。
「ん?ああ、それは生クリームだな。カッフェコンパンナっていう、カッフェの上にクリームをのせた飲み物だ。念のためコーヒーはノンカフェインにしてもらっているし、ちゃんと水もあるからな。トライしてみたらいいさ。」
面倒見がいいなあと思いながらかカルロの説明を聞いていると、彼はそのまま目の前にある皿の上のお菓子を手に取って、それついても教えてくれた。
「そして、これがスフォリアテッラといって俺のじいちゃん、ばあちゃんの故郷の味だ。俺も小さい頃ときどき朝ごはんに食べていた。」
「へえ~!おいしそう!」
「そうなのね、それは楽しみだわ。」
そう言ったシャルロッテはナイフとフォークで切って食べようとしたが、生地が何層にも重なっているらしく、お皿の上ではあったがパリパリと破片が散らばってしまった。すると、シャルロッテはナイフとフォークをおき、手づかみでスフォリアテッラを齧った。
――あ、シャルロッテがかじるならわたしも。
貴族子女の前での作法に迷いがあって動き出せなかったエリナは、すかさずシャルロッテにならい手に取ってひとくち齧った。
――!
「うまー!オレンジピール入ってる!私、大好きなんだよね!しかも中がクリーム系ペーストで、外はパイ生地っぽいのに、意外と甘さ控えめで優しい味~!」
「お前はグルメ評論家か?…いや嬉しいなあ、美味いだろ?コレ。」
カルロは嬉しそうにカッフェを口にした。
「うん、すごく美味しい!最初は、朝に食べるのってちょっと重くないかなって思っていたけど、これならわかるなあ。オレンジがさわやかだし、朝から元気出そう!」
「いいコメンテーターだなあ、エリナ!そう、このオレンジの風味がおれも昔から大好きなんだよ。」
シャルロッテの方を見ると、すでに半分ほど食べきっていた。
「そうね、ちょっと食べにくいけど、でもそれ以上にとっても美味しいわ。」
そういうと、シャルロッテはカッフェ・コンパンナにも口をつける。上唇に、ちょっとだけ白いクリームが付いているのが十三歳らしく可愛らしかった。すると、シャルロッテの眉間にしわが寄る。
「これは…!ちょっと私にはまだ早いかもしれないわ。そういえばそもそも、コーヒー自体ミルクたっぷりじゃないと飲めないもの私。」
「そうだったのか。いや、悪かったな。甘いクリームだから、いけるかなと思ったんだが。」
「いいえ、こちらこそごめんなさい。けど、自分では思いつかないものだから良い体験ができてうれしいわ。お菓子の方はとってもおいしかったし。あなたの提案は、いつも楽しいことだらけね。」
「いや。じゃあ、紅茶のむか?そうだな…ジェラートもつけてもらって。」
カルロがシャルロッテにウィンクする。
「そうね、私はアッサムティーにするわ。それとジェラートなら、この前カルロがおしえてくれたスパゲッティのやつがまた食べたいわ。」
「?ああ、スパゲッティ・アイスな。じゃあ、それをお願いしよう。クマ、アッサムティーと…って、聞いていたか。アイツまじで仕事早いな。」
くま執事はすでに室内へ戻り準備に行っていた。
「…アイツ、仕事鬼早いよな?」
二人の方を向いたカルロが再度同じことを言い、手に持ったデミタスカップでくま執事の方を指す。
「だよね?わたしも、いつもびっくりしてる。」
「そうね、あんなになんでもできるクマちゃんはここ以外で見たことないわ。」
そう言うシャルロッテは、お行儀よく手を膝の上に置いて自分のティーとアイスを待っている。
――シャルロッテ、かわいい…!
先ほどからシャルロッテが可愛くてたまらないエリナは、ニコニコとシャルロッテを見つめる。
二言、三言、言葉を交わしている間に、早くもくま執事が戻ってきた。今度は銀のワゴンを押してきていて、ワゴンの上には人数分のティーカップとやまもりのアイスが見える。アイスは、シャルロッテの目の前にコトンと置かれた。
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