カルロとエリナ
やや不透明なグリーンのゆらぎに、上方から差し込む光。ゆらゆらと美しいその光をじっと眺めていると、たゆたうその光がだんだんと遠のいていく。エリナは自分の体がゆっくりと下降していることに気がついた。
――水中だ!私、沈んでいってる。
ただ重力に従い落ちていく体を、エリナはどうにか動かそうとするがうまく手足を動かせなかった。どこか他人事のように、自分の状況を俯瞰してみていたエリナが、自らの体をコントロールできていないことを自覚したとたん、彼女の頭の中は一瞬にして恐怖に塗り替えられた。
――やばい、やばい…!遠い、戻れない…!!
絶望しかけたその瞬間、自分では全く動かしていないはずの体が、重力に逆らい急に上昇を始めた。エリナは不思議な感覚に戸惑いながらも、何か見えない存在に引き上げられているみたいに感じていた。心臓がとくとくと、全身に血液を巡らせているのが聞こえる。
――……そうだ、ミリア!
息がもたないかもという恐怖に焦りながらも、エリナは一心に足を動かして上を目指した。まだ傍らに自分を助けてくれている存在がいることを感じている。まるで誰かが手を握って引き上げてくれるような不思議な力。それに応えるよう何度も水を蹴り、大きく水を掻いて上を目指した。
ざばっと勢いよく水音を立て、エリナは水面に顔を出した。水中にいるときには分からなかった外のざわめきが聴こえるが、耳に水が入っているのか籠って聞こえる。顔を出して息を吸い込んだ時、一緒に水も飲みこんでしまったらしくエリナは大きく咳き込んだ。上手く酸素を吸えないながらも必死に顔を上げると、目の前には真っ白な大きな船。それらの視覚情報を得て、自らの状況が一気に思い出される。
「エリナ!」
――!!
声の主はすぐに分かった。エリナが必死に辺りを見回すと、背後からスッと体を持ち上げられ、助かったと感じたエリナは、すぐに立ち泳ぎを止めて体の力を抜いた。
「エリナ!よかった…!」
――カルロ…!
「……ッ!」
連続して咳き込み、思うように声が出ないエリナを見て焦ったカルロが、エリナを船とは反対側に或る岸まで運ぼうとしたところで上方から声が掛かった。
「ちょっと、あなた!ちがう、ちがう!こっち!こっちよ、船の方!これを使って!」
女性の声で、少し訛りのあるドイツ語が響く。その女性の芯の通った声が耳に入ったのがきっかけとなってか、不思議とエリナには周囲のざわめきがクリアに聞こえるようになった。続いて何かの着水音がして、エリナは救命ボートが降ろされたことを理解した。すぐ横を見上げると、カルロはしっかりとエリナを抱え、二人分の重さをものともせず救命ボートへと泳いで近づいて行く。完全に彼に身をまかせきったエリナは、まるで夢の中を揺蕩っているように、今のこの状況をどこか現実味のない出来事のように感じていた。
**********
それから数カ月がたったある日曜日の午前、ドイツ南部の州都ミュンヘン郊外にある国内でもひときわ美しい空で有名な町。その一画、薄雲のかかった青い空を背景に、風にそよぐ木々の擦れる音と鳥の声しか聞こえないような閑静な住宅街を、二人の男女が歩いている。
「もうそろそろ、この辺りじゃねえかな?たぶん。」
「本当?カルロ、ちゃんとマップみた?」
「ああ見てる。ほら、営業時間は夕方から。看板は出てないかもしれない。」
「なるほど?」
「エリナ、そこ右側な。」
「えーと、あ!あそこの道じゃないかな?」
住宅街を歩く中、やっと発見した目的地へとつながる道は思いのほか細かった。顔を見合わせた二人がその狭い路地を抜けると、ただでさえ大きな住居の多いこの地域の、住宅二件分はある土地を有する大きな建物があった。その一階には居抜きで、白を基調とする小綺麗なカフェ・バーがある。ここが二人の本日の目的地だ。建物は、背後に湖を擁している贅沢な立地で、口コミからは住宅街のなかにあるにもかかわらず平時から人であふれる人気店らしいことが分かった。ただ、今はまだ開店前と言うことで、表にはGeschlossen(閉店)の文字がある。
「たぶん、ここじゃない?私、ちょっと連絡してみようか。」
そう言ってエリナが携帯を手にしたところ、扉のガラス窓越しに人影がみえた。
「あ…!」
「おお、来たっぽいな。」
手にした携帯をポケットに戻しながら、エリナはカルロと目を合わせて笑った。カチャカチャとカギを開ける音が数秒して扉が開くと、中から黒髪にショートヘアの、首に鮮やかな色のスカーフを巻いた女性が二人をとびきりの笑顔で迎えてくれた。
「わー、こんにちは!来てくれて、ありがとう!もう体、大丈夫?」
ペルシャ語訛りのあるドイツ語で話す女性は、ニコニコと挨拶しながら近づいて二人にハグをくれた。彼女の名前はヤスミンという。以前、エリナが湖で船から突き落とされた時に、船上で真っ先に異変に気が付いて助けを呼んでくれた人だ。彼女のおかげで、エリナが湖に落ちてかなり早いうちに救命ボートが投げ入れられたという。
実は、その時の湖こそが今後ろに見えている湖だ。カルロはエリナのトラウマを心配してここへ来ることを渋ったのだが、当のエリナは存外平気で、むしろ恩人に会えることを楽しみにしながら、今日この地へ再び訪れていたのだった。
「本当にもう大丈夫?よかった…!本当によかった!あなたが突き落とされたのを見たときはびっくりして…会いに来てくれて本当にうれしい。けど、湖は怖くない?」
くるくると変わる表情で矢継ぎ早に質問を重ねるヤスミンが、エリナの肩をさすりながらじっと瞳をのぞき込んでいる。その様子に心からの心配が伝わり、くすぐったくなったエリナは思わず微笑みをこぼした。
「ありがとう、ヤスミン。実は、あんまりトラウマはないんだ。それよりも今日はヤスミンに会えるのが楽しみで!」
エリナが笑顔で応えると、安心したのかヤスミンもニッコリと笑顔を見せてくれた。
「そう…よかった…!とりあえず、お店に入って!」
そう言ってヤスミンは小走りで扉に駆け寄り、エリナとカルロを店内へといざなった。エリナがカルロを振り返って視線を合わせると、カルロは口の端をにっと引き上げて、片方の手をエリナの肩に、そっと背中を押すように添えた。
エリナたちが室内へ足を踏み入れると店内は外の小綺麗な印象とは違い、古さは感じるがよく手入れのされている、街に古くからあるバーという雰囲気が強く感じられる空間だった。ただ、入ってすぐに見えるバー・カウンターより向こう側に目を向けると、明るくゆったりとしたカフェの雰囲気もある。エリナは、不思議なハイブリッド感のある空間だなという印象をもった。ヤスミンは奥の明るいカフェ空間に二人を連れて行くようだ。
横目に通り過ぎたカウンターの後ろ壁には、色とりどりの様々な酒類が所狭しに並べられている。手前にはかなり新しい大きなエスプレッソマシンがあり、マシン隣のカウンター上には空のケーキスタンドが二つ並んでいる。昼と夜でずっと営業しているカフェ・バーなのだなと、エリナは感心しながら店内をキョロキョロと見回していた。店の内装に見入るあまり無言が続いてしまったので、エリナは前を行くヤスミンに駆け寄って声をかけた。
「ヤスミン、今日は会ってくれてありがとう。どうしても、あなたに会いたくて…その、感謝を伝えたくて。」
「いいのよ、気にしないで。会いに来てくれて嬉しい!あなたが無事で本当に安心したわ!犯人も捕まったし、あなたにトラウマが残ってないなら安心よ。」
ヤスミンはすぐに話しかけたエリナの方を向くと、両手でエリナの手を包み込んで笑顔を見せてくれた。真っ直ぐに感情を表現してくれる彼女に、思わずエリナも笑顔になる。手を離すとヤスミンは話しながら店の奥へ歩いて行き、テラスへとつながる大きな掃き出し窓を開けはじめた。
「何か飲みたいものある?あ、遠慮しないでね!店長からも、ぜひゆっくりして言ってねって。コーヒー、紅茶、りんごジュースの炭酸割、お酒も開けたっていいわよ。」
「はは、まだお昼前でしょ!」
エリナが湖に落ちた事件以来、エリナとヤスミンはSNS上でやり取りをしていたものの、実際に会うのは初めてだったが、これは確かに二人の「いつも通り」のやり取りだった。ヤスミンと笑いあった後、エリナがチラリとカルロの方を伺うと、二人の様子に微笑みながらも彼の視線は窓の外に向いていた。気になりつつもヤスミンに視線を戻したエリナは、話を元に戻す。
「…けど本当にいいの?ただでさえ開店前のお店に入れてもらって…レジ開けるの面倒じゃない?」
「いいの、いいの!エリナが湖に落ちた件はさ、理由が理由だけにこの辺りでも結構なニュースになったのよ。それで店長も、お店の他のみんなもあなたを突き落とした犯人に怒っていたし、エリナのことをすごく心配してた。今日は店長から奢り!店長は少ししたら来るし、会えたらお話していって!だから気にせず、ゆっくりしていっていいのよ。」
「そうなんだ…ヤスミンもみんなも、ありがとう。あとで絶対店長さんにお礼を言いたいな。それじゃあお言葉に甘えて、私はコーヒーを貰ってもいい?」
「いいよ!ちなみにラテもできるよ。私、バリスタなの。」
「えー、すごい!じゃあ…、カプチーノとかできる?」
「もちろん!カルロは?」
「ああ、俺も同じものをお願いするよ。」
「オーケー、あ!好きな席に座っていていいよ、すぐ行くから。待っててね!」
そんな会話をするうちに、テラスへつながる大きな窓を開き終わったヤスミンは、飲み物を準備しに足早にカウンターの中へ入っていった。彼女の後ろ姿を見送ったエリナとカルロは、再び顔を見合わせると席について一言二言相談し、そのままテラスへと出ることにした。
「なんか懐かしいね。テラスで、外の景色眺めながらお茶するの。」
「ああ、そうだな。家のバルコニーでも十分気分はいいけど、やっぱこういう自然の中だと雰囲気あるよな。」
テラスの向こう側には背の高い木々と、綺麗に手入れされた芝生が湖へと延びている。芝の緑が伸びた先の湖水は驚くほど済んでいて、時折大きな魚の影が見える。付近の景色には未だ夏を感じられるものの、遠くに見える山には冠雪が見え、薄く引き伸ばしたみたいな雲がたなびく空も、秋がもうすぐそこまで来ていることを告げていた。
テラスからの景色を眺めながら思い出すのは、二人が再びこの湖で出会った日。溺れていたエリナの元へ飛び込んで駆けつけてくれたカルロと、彼女を水面まで押し上げる手助けをしてくれた存在。そして、あの不思議な洋館の世界での記憶だった。
「結局さ?私たちは洋館で出会う前から、この湖で同じ船に乗っていたのかな。」
「それとも不思議な力か何かで、俺たち二人が船に乗り合わせるよう運命が書き換わったのか。どうなんだろうな?」
「うん。一体どうなっているんだろうね。」
「何回話し合っても、そこだけはホントに分かんねえよな。一応、元々俺たちがあの船に乗り合わせていたっていう、辻褄の合う記憶は存在しているんだが…」
「私たちには洋館で話した時の記憶もあるんだよね。洋館のみんなはほとんどが、以前の記憶を持っていなかったはず。実際、カルロも私も直近の人生を覚えていないって話をした記憶がある。でも今は、その抜け落ちていたはずの記憶がちゃんとある。」
「ああ。その点以外に、特に不自然さはないんだよな…。もはや考える意味もないのかもしれねえけど。」
「まあね。けど、ふとした時に気になるんだよね。だって私はあの時、カルロがいなかったら助かっていなかったと思うし、ミリアたちがわたしを助けてくれたような気がしてる。」
「ああ、妖精がいた気がするって、言ってたもんな。」
「そう。」
「まあ人間が妖精を認識できなくても、存在しているって話だったもんな。おかしな話じゃない。」
内容がぶっ飛んでいる自覚がある分、やや声を落とした二人が穏やかに会話をしていると、トレーに三人分のカップとシンプルなクッキーの入った皿を載せたヤスミンが笑顔でテラスに戻って来た。
「はーい、こちらカプチーノです。はい、こちらもどうぞ~。私は、紅茶にしちゃった。」
ニッコリと目を細めながらヤスミンが席についた。エリナとカルロのカップにはミルクで美しいリーフの模様が描かれている。
「ありがとう!すごいラテアート、うまいね!バリスタ歴、長いの?」
エリナが尋ねると、ヤスミンは「っはぁ!」と突拍子もない声を上げて笑い、目の前に手を振り下ろしながらニヤニヤとエリナを見つめた。
「ちょっと!本当に言ってる?嬉しいわ~!実は私…バリスタ歴、四カ月よ。」
セリフを溜め、肩口から斜めにクールな表情を決めたヤスミンに、笑い声をあげながらもエリナは驚きを隠せなかった。
「ええ?!そうなの?」
「四カ月でこれが描けるようになるのか?すげえな。」
カルロも目を丸くして感心している。カルロがカプチーノをひとくち口に含むと、ゆっくりと小刻みに頷いて満足そうにヤスミンを見た。
「うん。いいね、味もうまい。」
「ええ~、ありがとう!嬉しい。」
「本当に美味しい!腕前もだし、エスプレッソマシンを扱えるのかっこいいな~。すごいねヤスミン!」
エリナとカルロが称賛を重ねているとやりすぎたのか、さすがのヤスミンも照れに照れた笑顔で応えるようになっていた。
「あはは、ありがとう。なんだか自信がついたわ。実は、私ここに面接に来た時、お店にはエスプレッソマシンが無かったの。」
「ええ、そうなの?じゃあバリスタ歴が四カ月っていうのは、その頃お店にマシンが来たんだ?」
「そうそう。私ここで働いて五カ月だけど、初めて面接に来る前は普通のカフェだと思ってたの。でも見ての通り、ここはバー寄りのお店でしょ?だからお酒に詳しいか聞かれたんだけど、ほら、私は宗教上お酒飲まないから。」
「あー、なるほどね。」
ヤスミンとは特にそう言った話をしたことはなかったが、彼女の出身地域からして予測が立つ事ではあったので、エリナもカルロも納得の相槌をうった。
「私は家からも学校からも近い、このお店で働きたかったけど。嘘は言いたくなかったから『お酒の知識は全くありません』って言ったの。その後なぜか雇ってもらえたけど、やっぱりお酒のオーダーに馴染めないのがわかったんだろうね。一カ月たったくらいで店長が『じゃあ、バリスタやってみる?』って。」
「へえ、すごい!仕事に合う人材じゃなくて、あなたという人材を生かす仕事を作ったんだ。」
「ホントにそう。店長が『ちょうどコーヒー系に力を入れようとしていたから、いい機会だ』って言ってくれたの。すごくいい人だし、彼は賢い人よ。私は本当にラッキーだったと思う。」
エリナの心からの感心が正しく伝わったらしく、ヤスミンは誇らしげに店長のことを語った。それまで、当たりさわりなくエリナとヤスミンの交流を見守っていたカルロも、この話題には食いついたようだった。
「へえ、きっと商才ある人なんだな。上手いカッフェを提供する店は大事にしたい人間も少なくないと思うし、カッフェ目当てに集まってくるヤツも多いだろ。たぶんもう、常連がついているんじゃないか?」
「そうね、うちのエスプレッソやカプチーノが好きで通ってくれる人も増えてきたわ。」
「え~、すごいね!お店の名バリスタじゃん!センスいいんだね。」
「ふふ…ちょっと恥ずかしいわ、二人して誉めすぎ。」
明るいヤスミンの振る舞いに垣間見える、慎ましさが微笑ましくてニコニコしているとその空気感すらも伝わったらしい。耐え難くなったヤスミンが、今度は全く新しい話題を二人に投げかけた。
「ていうか、もう聞いたことあるかもなんだけどさ。二人が今日、ハンブルクから来たのは知っているんだけど、あの時はまだミュンヘンに住んでいたんだっけ?それとも旅行で来ていたんだっけ?」
あの時というのは、エリナが湖に落ちた日のことだろう。エリナはひとまずカルロと目を合わせると、彼がどうぞと手を差し出したのを確認してから口を開いた。
「あの時私は日本から出張で来てたんだ。せっかくだしお休みの日に、街郊外の湖にでも遊びに行こうかなって。それで、カルロは…」
「…俺はあの日、ちょうど旅行でミュンヘンに来ていたな。なんとなくこの湖を訪れて、なんとなくあの船に乗っていた。」
エリナの話を引き継いで、カルロも当時の自分について説明した。ただ、二人の回答を聞き終えたヤスミンは「えっ?」という顔をすると、口を近づけようとしていたティーカップを急いでテーブルに戻した。
「ええ?あなたたち、あの時は二人一緒に旅行で来ていたんじゃないの?」
「いや、ぜんぜん。」
「偶然同じ行動をとっていただけで、一緒に行動はしていなかったな。」
ヤスミンは混乱した様子で、少し身を乗り出しながらもう一度二人に質問を重ねた。
「えっと。あなたたちもしかして、あの時初めて知り合ったの?」
ヤスミンの言わんとするところが分かるエリナとカルロは、やや返事に窮したところがあった。
「いや…」
「ううん、知り合いではあったかな。」
まさか、ここではない世界で出会ったなどと言い出せるはずもなく。カルロは口ごもり、エリナの方も要領を得ない返事になった。しかし、ヤスミンはそれどころではない様子で、全く気にした様子もなく質問を続けた。
「そ…そうよね、もちろん知り合いだったのはわかるわ。じゃあ、あの時がきっかけで恋人になったの?」
「うーん?」
「…。」
チラリとカルロを見ると、彼の瞳はじっとエリナを見つめていた。目が合うとエリナは、その瞳の向こう側に、これまでのことを思い出す。
突然、あの湖から再開したエリナの人生。そこから助かって二カ月半の間に、エリナの時間は怒涛の勢いで過ぎて行った。日本へ帰国したエリナは、まず自分の幸せを考えた人生を歩むことを決心し、自らの心の声に従ってカルロの元へとドイツまで戻って来た。
移住してからの生活は当初、もっと困難にまみれているかと予想していたが、実際には想像の十倍はスムーズに運んでいた。驚くほどとんとん拍子にうまくいく生活にとまどいさえ覚えたエリナだったが、落ち着いて日常を観察すると、すぐにその理由に思い至ったのだ。
「あの後、私は日本の会社を辞めて、家も全部引き払って…だいたい、ひと月前にドイツにきたの。」
「ええ?!」
「あはは、びっくりするよね。どうしても早く来たくてさ。…ある友人にならって、ワーホリに申請して急いで彼の住むハンブルク行のチケットを取ったよ。」
この時エリナの脳裏には、お茶好きで白くてふわふわした、頼りになるネコの友人の姿が浮かんでいた。頭の中の彼女がにゃっと微笑んだ。
「一カ月前にこっちに来てからちょうどこの前、日系の会社に就職できたんだ。またビザの切り替えとか、やらなきゃいけないことはあるけど、とりあえずひと段落したからヤスミンに会いに行こうって話になって。そういうわけで今はハンブルクで、カルロと一緒に暮らしてる。」
「えー!!じゃあ実質二カ月半くらいで、何もかも辞めて、彼に会いに日本からドイツにきたの?すごいわ!だって、それって彼と一緒に暮らすためでしょう?」
「うん、そうだね。」
「えーすてき!あまりにロマンチックだわ!やっぱり、あんなヒーローみたいな助けられ方したらそうよねえ~?」
――そうよね。そう、だよね。
ヤスミンはエリナの話を聞いてすっかり高揚して頬を赤くしている。エリナもその空気にあてられて頬を赤らめる、なんてことはなく、とりあえず笑顔で応えていた。エリナはこの短い一瞬にも、ヤスミンのその反応と言葉を元に、自分の想いの深い所に向き合っていた。
予想よりはるかにスムーズに進む新生活、エリナの心当たりはカルロその人だった。
湖で再会して以来、エリナが居住手続きや就職でバタバタしていた間にも、カルロはずっとエリナを支えてくれた。これまでの人生でエリナは、自分のことを他人に任せるとか、頼りにするだとかは大きなリスクを伴うものとして忌避していた。そんなエリナが、はじめて自分の背中をまかせてもいいのかなと思えたのだ。カルロがエリナに何かしてくれるたびに、遠慮するのではなくその手をとってもいいんじゃないかと自然に思えるようになった。
彼は当たり前のように、何があっても側に居てくれている。けれどそれが当たり前なんかじゃないことをエリナは理解しているし、だからこそエリナは…
――私も、カルロにとって頼りになる存在にありたい。
そうであれば、自分の想いを行動で示してみせることこそ、誠意なんじゃないか。
「ねえ、カルロは彼女のどこが好きなの?」
エリナが自分の心と向き合っている一方で、ヤスミンが今度はカルロを標的にしていた。非常にワクワクした様子で、期待に満ちた目でカルロの言葉を待っている。
「ええ?俺は…わからん。全部好きだよ。」
「きゃー!!」
「いや、そんな…」
「いやいやいや!だって、あなたすごいわよ!あの時も彼女が落ちたらすぐ湖に飛び込んで、助けに行くし。犯人はエリナがたまたまそこに居合わせた外国人だっていう理由で、湖に突き落としたのよ?普通じゃないわ。そんな通り魔事件が起こった時でも、なんの躊躇いなく数メートル下の湖面へ飛び込んで助けに行けるなんて…あなたほとんど王子様よ!ねえ、エリナ?」
くるりとこちらを向いたヤスミンは先ほどよりもさらに興奮していた。こうやってただ会話しているだけでも、彼女の全身から伝わってくる真っ直ぐな言葉と感情。それはあの日湖に溺れていたエリナが救われるための力になってくれたし、そして今もまたエリナの背中を押してくれようとしていた。
「あはは。そう言われると確かに、王子様みたいだね。」
「でしょ!ほらね?カルロ、あなた王子様ですって。」
「…けどね、彼が私を助けてくれる王子様だからとかじゃなくて。私はカルロの笑顔をずっと近くで見ていたいからドイツに来たんだ。彼に幸せでいてほしい、私が、彼を幸せにしたいと思ったから。だから一緒にいたいし、私も、彼にとって頼りになる存在になりたい。そう、思うんだ。」
たった今思いつくままに話し始めたエリナだが、その内容は彼女がずっと心に秘めていた想いだ。テーブルの上の目の前のカップを見つめながら、よどみなく自身の想いを明かしたエリナは、言い終えるとまずヤスミンを見て、次に恐る恐るカルロの顔を覗き込んだ。
――あ。
「……。」
テンションが最大に上がり切っているヤスミンを横目に、エリナの瞳に映ったカルロは伏し目がちに、目元を赤くして笑っていた。
「えー!素敵すぎる!それで国を離れて彼の元にきたのね?エリナもカッコいいのね!」
いつもクールで、時々少年のように笑うカルロだけれど、今はいつもより目元がちょっとタレ気味で、あどけないと表現するのが正しいような、そんな笑顔だった。
――可愛い。やっぱり、伝えてよかった。ヤスミンありがとう。
これまでに受けたカルロの優しさと、ヤスミンのような良き友人が与えてくれる影響。きっと洋館で出会ったみんなとの思い出も、辛くとも必死で生きた過去の自分の経験さえも。もしこれが今この瞬間だけだとしても。それでも今全てを肯定的に感じることが出来たのは、この瞬間をまるごと大切だと思えたからだった。
そしてそう思えたのは。エリナがここまでこれたのは、間違いなくカルロという存在のおかげだった。エリナが頭の中でそう結論づけると、それはすとんと彼女の胸に落ちて、体のすみずみにまでじんわりと広がっていった。
――なんか全部、愛しい。
喜びが溢れ、自然と微笑みがこぼれたエリナは、そのまま身を乗り出してカルロの方へと手を伸ばした。それに応えてニコニコと近づいてきたカルロに、さらに愛おしさが込み上げる。そうして両手を伸ばしたエリナは、ただ愛をこめてキスをした。
その瞬間、その場にいる人間を包み込むように優しい風が吹き、木々の間を通り抜けるその風が揺らした枝葉が楽しそうに音を鳴らした。




